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「それでも、祈ることをやめない」

影に陽は差し

第一部 (top)

51.賭け

 が俺を連れてきたのは、彼女の部屋だった。一年前にやつれて疲弊しきっていた彼女が一緒にいてくれたら眠ると言うからついてきた部屋だ。部屋はあのときとほとんど同じ様子で、布団カバーがひょっとして違うくらいか。ベッドには相変わらずクマのぬいぐるみが置かれていた。

 
「なんだ? また一緒にいてほしいのか?」
「そ、そういうんじゃないよ!」

 
 が赤くなりながら捲し立てた。よく恥ずかしげもなく「大好き」と言って俺を困らせるのだから、たまには仕返ししてやってもいいだろ。
 が取りたいものがあるというので、奥の机まで一緒に近づいた。が手にしたのはなんと子供用の薄い将棋セットと初心者用テキストだ。こいつ、将棋なんかやるのか。意外すぎる。ばあちゃんの趣味だろうか。
 彼女に促されて、一緒にベッドの端に腰かけた。は捻った右の足首を床に投げ出しながら、二人の間に折りたたみの将棋盤を広げる。

 
「ゲンマ、将棋やったことある?」
「いや、親父はやってたけど。俺はない」
「そっか……ゲンマが知ってるなら一緒にやりたいなと思ったんだけど」

 
 はそう言って見るからに肩を落とした。別に興味がないなんて言ってない。俺はの手元にあった初心者用テキストを手に取った。するとが驚いたようにこちらを見る。

 
「ゲンマ?」
「お前、いつから将棋やってんの?」
「えーと、五か月前、かな」

 
 思ったより直近だった。まぁ、初心者用テキストがあるくらいだもんな。前にこの部屋に来たときはなかった気がするし。
 は手前からひとつずつ駒を並べながら、しみじみと語り始めた。

 
「シカク先生が教えてくれたんだ。しばらくチョウザ班を留守にしたでしょ? あのとき私、すごく焦ってて。私がぼーっとしてるから、落ち着くために一週間将棋やらされてた」
「はぁ? お前そんなことやってたのかよ」

 
 知らない間に一か月も留守にしておいて、そのうち一週間も将棋やってたのかよ。何だそりゃ。俺はシカク先生の顔を思い浮かべながら呆れた。だがは楽しそうに笑っている。

 
「私も最初は納得いかなくて怒ってた。こんなことやってる場合じゃないのにって。でも、今は大事な時間だったなって思うよ。まだまだ焦っちゃうし、できもしないこと色々考えたりしちゃうけど。でも、前よりちょっと、自分のこと分かるようになった」

 
 そう語るの表情はいつもより少し大人びて見えた。こんな顔、知らない。俺の知らないだ。一年前のようにやつれて見せる顔じゃないのに、これは彼女の成長の証なのに、素直に喜んでやれない俺は、やっぱりちっぽけで情けない兄貴だ。
 知らず知らずのうちに目線が下がっていた俺の手を、が不意に握った。修行に明け暮れる手だ、そこまで柔らかいわけではない。だが俺より小さく、細く、やっぱり柔らかい両手で、は俺の右手を包み込んだ。少し冷たいが、それが今は心地よい。

 
「なんだよ」

 
 照れ隠しに、俺はぶっきらぼうに聞いた。は目を細めながら、あの人懐っこい笑顔で笑う。

 
「シカク先生に教えてもらってから、ずっとひとりで詰将棋やってた。落ち着けるし、静かにじっくり時間かけて考えられるから。でもたまには誰かと一緒にやりたいな」
「……誰でもいいなら、やったことあるやつのほうがいいんじゃねぇか?」
「そんなの知らないし、誰でもよくないよ。ゲンマが嫌じゃなかったらゲンマがいい。ゲンマも息抜きになると思うよ」

 
 俺は気恥ずかしいような、思わず頬が緩むような不思議な高揚感に包まれた。の誘いも、気遣いも素直に嬉しかった。俺が考えすぎて塞ぎ込んでいたから、気分転換になるだろうと提案してくれたのだろう。いつからか、俺が気遣われるようになってしまった。でも、それでいい。俺たちは兄妹じゃない。『仲間』なんだから。俺は「誰でもいい」と言われているようで少しふてくされてしまった自分がまた恥ずかしくなった。
 彼女の手を少し握り返しながら、答える。

 
「いいぜ。将棋はお前が先輩だな」
「え? あ、うん、そういうことになるね」
「じゃあ、こうしようぜ。俺が対局でお前に勝ったら、お前は俺と風遁の修行をする。それまでにひとつでも術ができてなかったらお前の負けだ」
「えっ……ええっ!?」

 
 そんなつもりで言ってない、とでも言いたげな顔でが俺を睨んだが、俺は今度は彼女の手をしっかりと握ってニヤリと笑った。

 
「ちょうどいいだろ。俺は将棋を頑張るし、お前は風遁を頑張る。先に達成したほうの勝ち。負けたほうが勝ったほうの言うことを何でも聞く。どうだ?」
「……なんか、ハードル上がってない? 私、対局なんかしたことないんだよ?」
「でも俺より早く始めてるだろ? 俺はまだルールもろくに知らねぇんだから」

 
 まだ納得いかない様子のだったが、俺は逃がさないようにしっかり彼女の手をつかむ。別ににしてほしいことがあるわけではないし、ペナルティ自体にさほど意味はない。ただ漫然と修行をするより負荷をかけたほうがいいだろうと思っただけだ。俺が負けたら喜んで何だってしてやる。
 は俺が退かないのを悟って諦めたらしい。渋い顔をして「分かった」と承諾した。

 
「あっでも……おじさんに教えてもらうとかなしだよ?」
「しばらく帰ってこねぇよ。それに、誰に習うかは俺の自由だろ?」
「えぇ……」
「お前だって、風遁の修行は三代目にも教えてもらったんだろ? 贅沢じゃねぇか」
「うっ……それは、そうだけど」
「恨みっこなしだ。お互い誰に教えてもらっても文句は言わない。嫌か?」

 
 がいかにも不服そうに頬を膨らませる。俺は笑い出しそうになるのを堪え、彼女の返事を待った。俺の知っているの表情。昔から変わらないものを見ると、やはり安心してどこか懐かしい気持ちになった。毎日のように顔を合わせているのに、不思議だ。

 
「……嫌だけど、分かった」
「お前の素直なとこ、好きだよ」
「もう、こういうときだけ! ふつーに言ってよ!」

 
 何もないときに好きとか言えるかよ。恥ずかしい。俺が力を緩めると、はふてくされた顔のまま俺から手を離した。少し、名残惜しい。口にはしないが、俺もけっこうのことが好きだ。

 
「ーーで、先輩は基本の指導はしてくれるんですかね?」

 
 俺が茶化して問いかけると、仏頂面のはひとつ咳払いをして声の調子を上げた。

 
「じゃあ、先輩がやさーしく教えてあげよう。一回で覚えてね」
「厳しいな、先輩」

 
 茶目っ気のある声で先輩風を吹かせてみせるが本当に可愛い。やっぱり俺は、こいつと過ごす時間が好きだ。俺は微笑ましく思いながら、がひとつずつ丁寧に駒を動かすのを眺めていた。