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「それでも、祈ることをやめない」

影に陽は差し

第一部 (top)

24.地雷

「やっぱりお前は笑ってるほうがいいよ」
 自然に俺の口からこぼれた言葉に、がちょっと気恥ずかしそうに目を逸らす。まだまだガキには変わりないが、少し痩せた頬に憂いを帯びた表情、沈み込む背中。この短期間に何か大きな出来事があったのだろうと察するには充分すぎる変わり様だった。
 座卓が邪魔で、近づくのは無理そうだ。俺はの顔をじっと眺めながら、できるだけ普段どおりのように振る舞って話しかけた。
「ひとりで悩む時間はもう充分じゃねぇか?」
 するとの大きな目がこちらを見つめ、涙に揺れてからまた伏せられた。軽く唇を噛んで、絞るようにささやく。
「だって……誰にも言えないもん、こんなこと」
「こんなことって?」
「だから……言えないよ、ゲンマにだって」
 ふと視線を感じて盗み見れば、縁側の忍猫が探るようにこちらを見ている。彼らはのお目付け役なのかもしれない。それならばもっと仕事しろよと言いたいことも多々あるが、ひとまず今はどうでもいい。
「そっか。じゃあ言わなくていい」
 俺があっさり折れると、は拍子抜けしたように間の抜けた顔をした。俺はその間に立ち上がり、座卓を回って彼女の隣に腰を下ろす。急に距離を詰められて強張るの顔を両手ではさんで、俺はぞんざいに続けた。
「そんなもんどうでもいいから、飯は食ってんのか」
「た、食べてるよ……」
「じゃあ何でそんなやつれてんだ。何食ってんだ、寝れてねぇのか、修行サボってんのか」
「そ、そんな一度に答えれない……」
「どれだ。何をサボってんだ」
 とにかくその疲れた身体をどうにかしないと何もできやしない。要は心の問題だろうからまずはそっちだろうと思うが、話せないというなら身体からアプローチするしかない。ここまで一緒にやってきたがこんなところで潰れるなんて御免だ。俺の二年が無駄になる。
「何があったか知らねぇけど、このままじゃ身体から駄目になるだろ。まずはちゃんと食って、しっかり寝ること。飯はどうしてんだよ」
「……自分で作ってる」
「昨日何食った」
「……卵雑炊」
「病人食かよ。もっとちゃんと食えよ。肉とか魚とか」
 俺が反射的に返した答えを聞いて、の目に大粒の涙が浮かんだ。どういうわけか、何かの引き金を引いたらしい。突然ボロボロとが泣き出して俺がうろたえていると、軒先の忍猫が呆れたようにため息をついた。
「地雷を踏んだにゃ」
「大爆発にゃ」
「な、何が地雷だった? 俺、何が悪かったんだ?」
「病人に出すのにゃ、そりゃ病人食を作るにゃ」
「アイ! 余計なこと言わないで!」
 半ば八つ当たりのようにが声を張り上げる。顔を覆って泣き続けるを見て、俺の心臓が早鐘のように鳴り始めた。病人? の家に、病人がいるのか? でもは、今は家に誰もいないと言っていたし、実際、他に人の気配はなさそうだった。
 泣きじゃくるに、そっと、声をかける。
「誰か、病気なのか?」
「……大したことないよ。もう、仕事してるし」
 祖母か、母親か。だがこれ以上は、詮索してはいけない気がした。俺はの隣で足を組みなおして、神妙に頭を下げる。
「悪い。無神経だった」
「気にしないでいいよ……病人といえば病人だし、病人じゃないといえば病人じゃない」
 今日は妙に、歯切れの悪い言い方をする。俺の知らないだった。たった一か月の間に、知らないになっていた。
 が笑っているのならそれでいい。新しい彼女を見られるのは俺の楽しみのひとつだ。だがこんなに苦しそうな顔をして、俺の知らないになっていくのを黙って見ていられるはずがない。
 膝を抱えるの落ち窪んだ頬を、そっと撫でる。恐る恐る顔を上げたの目からもう涙はこぼれていなかったものの、ふとしたきっかけでまた決壊してしまうのではないかという危うさが感じられた。
「とにかく、ちゃんと飯を食え。今度母さんに頼んで何か差し入れてやるから」
「……おばさんには言わないで。心配かけたくない」
 この状況で、人目なんて気にしてる場合か。口を開きかけたが、やめておく。は暗い表情だったが、俺の手を払うことはなかった。
「それに、食欲ないの。雑炊くらいで、大丈夫」
「じゃあせめて、卵の他に魚でも入れろ。ないなら買ってきてやる」
「いいってば。ゲンマ、お節介だよ」
 そう言ったが困ったように笑った。その笑顔は少し、俺の知っている彼女のものに似ている。だがやはり、覇気がなかった。
 お節介か。確かに、らしくないなと思う。でもこんなに弱ったを目の前にして、世話を焼かずにはいられない。話を聞いてやることさえできないのなら、せめて目に見える形で何か手助けしてやりたい。
 俺はもう一度の頬を撫でて立ち上がった。
、あとで台所借りていいか?」
「え? どういうこと?」
「今日は俺が作るから。雑炊でいいんだよな?」
「え、ちょっと、待ってよ」
 の困ったような顔が、驚きと戸惑いに変わった。困惑した表情でこちらを見上げるに、もう一度その隣に屈んでゆっくりと言って聞かせる。
「とにかくお前は休め。一旦寝ろ。家族の分も作っといてやるから、腹減ったら起きて食え」
「な、何でそんなことしてくれるの? ゲンマがそこまでする必要ないよ」
 そう指摘されて、確かに俺の行動は少し行き過ぎているかもしれないと感じた。そうと分かっていても、俺はこのままおとなしく帰れそうにはなかった。
「お前、言ってくれただろ。お兄ちゃんみたいって」
「……う、うん」
「兄貴なら、妹が弱ってたら、これくらいのことはやると思うけどな」
 はまだ受け入れがたいようだったが、それ以上は何も言わなかった。俺は安心させるように微笑んで、彼女の頭をゆっくり撫でてやる。以前はくすぐったそうに笑っていたが、今は戸惑いの表情でこちらを見上げていた。
「とにかく、飯と睡眠だ。まずは元気になれ。じゃ、あとは勝手にやるから、お前は自分の部屋行って寝てろ」
「ま、待って」
 俺が買い出しに出ようと立ち上がると、が俺のパーカーの裾を強く引っ張った。少し驚いて、振り向く。はしばらくモジモジしたあと、躊躇いがちに口を開いた。
「……ひとりにしないで。ごはん作ってくれるくらいなら、一緒にいてほしい。ひとりでいても、寝れないの」
 やっと彼女が打ち明けたのは、どうしようもないほどに重い孤独だった。何があったのかは知らない。だが眠れないほど強い不安を抱え、それにたったひとりで耐えようとしていたのか? どうしていつも、ひとりで抱え込むんだ?
 だが今それを責めたところで、を追い詰めるだけだ。俺はまた彼女の前に屈み、目線を合わせて尋ねる。
「じゃあ、一緒にいたら寝るのか?」
「……うん」
「分かった。部屋、行こう」
 あとになって恥ずかしくなったのか、が赤くなって顔を逸らしたが、やっぱりやめるとは言わなかった。湯飲みをシンクに運んで、そのままの足で部屋に案内してくれる。忍猫はついてこなかった。
 が廊下の突き当たりにある開き戸を開けると、部屋はシンプルながらも女の子らしい小物が至る所に置いてあった。ベッドにはクマのぬいぐるみもある。
「ちょっと着替えるから……ごめん、外で待ってて」
「わかった。終わったら呼んでくれ」
 俺は素直にドアを閉め、廊下で待つことにした。やがて「いいよ」と小さく声が聞こえて、部屋に入ると、水色のパジャマを着たは少しだけ落ち着いた様子だった。よく見ると、柄は小さな犬だった。何で犬なんだよ。実は犬派か?
 この状況でそれを口に出すのはやめておいたが、何とも言えない妙な可愛らしさに、俺は少しだけ笑いそうになった。