影に陽は差し
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「それでも、祈ることをやめない」
母さんは毎週病院に通いながら、裏方の仕事を少しずつ始めたようだった。症状はあまり改善していないが、今は戦争中で常に人手が足りない状況だ。それまで戦闘の支援に入ることが多かったため、物心ついてからこんなに家にいる母さんは初めてだけど、不思議と嬉しいという気持ちは湧かなかった。だって母さんは心を病んでここにいるのだから。娘の私が目の前にいても、母さんの虚ろな目はどこか遠くを見つめている。母さんの中に、私の居場所はない。
いるのはきっと、サクモおじさんだけだ。
子ども心に、何となくは気づいていた。なぜ母さんが父さんのことを全く話さないのか。アルバムの中に父さんの写真もあったけど、母さんが部屋に飾っているのは青年時代のスリーマンセルの写真だった。何年も前のサクモおじさんと母さん、そしておじさんの訃報を知らせにきた、エイリという忍びだ。
母さんはきっと、サクモおじさんが好きだったんだと思う。私におじさんの話ばかり聞かせたのは、私の父親が、彼なら良かったと考えたからではないか? そんな邪推さえしてしまうほどに、母さんはいつもおじさんのことばかり話していた。
私だって、サクモおじさんが父親ならいいのにと思ったこともある。でもそれとこれとは話が別だ。それならどうして、父さんと結婚したの? そんなこと、弱り切った母さんに聞けるわけがない。
脳裏に蘇ったのは、幼い頃から何度もばあちゃんに聞かされた言葉だ。
「、よく聞きな。は今や私たちしか残ってないんだ。先人が繋いできたこの血を、決して絶やすんじゃないよ」
――糞くらえだ。何の感慨もなく右から左へ聞き流してきたその言葉を、私は初めて胸中で口汚く罵った。
サクモおじさんはカカシのお母さんを選んだ。そして母さんはきっと、血を遺すためだけに父さんと結婚したんだろう。生まれたのが、私だ。
初めて自分の存在を、忌まわしく感じた。
「……大丈夫?」
二人で提出物を職員室に運んだ帰り、リンが心配そうに尋ねてきた。私は慌てて笑ってみせる。
「うん、何でもないよ」
「ウソ」
リンはピシャリとそう言って、ちょっと怖い顔をした。リンはこういうとき、逃がしてくれない。私は思わず息を呑む。
「何でもないわけないでしょう。最近、変だよ」
「う……うん、ごめん」
ごまかせるとは思っていない。でも、リンに話せるようなことでもない。サクモおじさんのことだって、母さんのことだって。カカシのことだって。
リンはカカシが卒業してから、あのウットリした顔は見せなくなった。自分からカカシの話題を出すこともない。ときどき私が「こないだカカシ見かけたよ」と言えば、ホッとしたように微笑む程度だ。
リンは教室には戻らず、そのまま私の手を引いて屋上に連れて行った。ときどきリンやオビトとここに上がって話をすることもある。秋めいた少しひんやりした風が頬を撫でた。
「、今年は卒業試験受けるんでしょう?」
「うん、まぁ……許可が出たらだけど」
「なら絶対大丈夫だよ。私の自慢の親友だもん」
リンの明るい笑顔を見たら、なんだかすごく安心した。同時に涙が込み上げてきて、押し殺すのに全神経を集中する。こんなところで何泣いてるんだ。重すぎるだろう。
でもリンは、驚きもせずにニッコリと微笑んで私の手を握ってくれた。何も言わなくても、私の抱えた傷を知っているかのようだった。リンは優しい。ゲンマも、オビトも。オビトは言葉少なであまり話さないけど、私が困っていたらさりげなく手を差し伸べてくれるし、ときどき二人きりで話すとリンとのことを嬉しそうに報告してくれる。私にとって彼らは、誰一人欠くことのできない大切な友人たちだった。
カカシだってそうだ。カカシに追いつきたくて、ここまでがむしゃらに走ってきたのに。
「……お母さんのこと、聞いたよ」
リンが躊躇いがちに口にした言葉に、私は驚いて顔を上げた。こちらの手を握るリンの両手に少し力がこもる。リンは悪戯を咎められた子どもみたいな顔で上目遣いにこちらを見た。
「ごめんね。病院でのこと見かけて、それで……」
そうだった。リンの両親は病院で働いているし、リンはその用事でときどき病院に行くこともある。私や母さんを見かけて、事情を知る機会があってもおかしくない。
私は何とか笑顔を作って、リンの顔を見返した。笑わなければ、今にも崩れ落ちてしまいそうだった。サクモおじさんの知らせを聞いて泣き崩れた、母さんのように。
「戦場でさ、疲れちゃってたみたい……でも薬も飲んでるし、事務仕事だけどちょっとずつ仕事も始めてる。だから大丈夫」
薬を飲んで少し落ち着いたのは本当だ。でもきっと、根本的なことは何も解決していない。母さんの心は死んだサクモおじさんだけを捉え、忍びそのものへの不信感を引きずっているように思う。
これ以上は話せない。サクモおじさんのことは他言無用だとばあちゃんに言い聞かされているし、もちろん私も話すつもりはなかった。おじさんを裏切り者呼ばわりする大人たちは許せない。でも何も知らない子どもに過ぎない私は、きっとそれを口に出す資格もない。
カカシは驚くべきことに、あれから何事もなかったかのように任務に就いているという。戦場に立ち、淡々と任務を遂行して戻る。恐るべき精神力に私は度肝を抜かれた。でもそれは間違いだと分かった。
久しぶりに里で見かけたカカシは、まるで糸に繋がれでもした傀儡のようだった。その目に生気はなく、落ち窪んだ眼差しを地面に落として音もなく歩いていた。
呼びかけた私を見ても、カカシは眉ひとつ動かさずに去っていった。
何もできないのか。文字どおりただの駒になり下がろうとしているカカシに、何もしてやれないまま黙って見送るしかできないのか。
何のために努力してきたのか、分からなくなった。
「何があっても、周りで何が起こったって、はだよ。誰かの影じゃなくて、は自身の力でここまで歩いてきたんだから。私には分かるよ。絶対に大丈夫」
リンが私の手を力強く握り、一点の曇りもない笑顔でそう言ってくれた。私は隠し事ばかりなのに、リンはそんな私を含めて絶大な信頼を寄せてくれているのが分かる。もう抑えきれず、私はボロボロと涙をこぼして泣いた。
本当は強くなりたい。リンが、ゲンマが、オビトが優しくしてくれるたび、その気持ちに応えたいと強く感じる自分がいる。そのためには、強くならなければいけない。それはきっと、卒業試験ではかれる力ばかりではない。
「リン……ありがとう、ほんとに、ありがとう……うぇぇ……」
「大丈夫だって。私も遅れないように頑張る。だからね、、いつも私の前をしっかり走っててよ。約束だよ?」
リンだって、特別授業がなければ絶対に私より好成績なはずなのに。医療忍術には繊細な集中力が必要で、誰でも会得できるものではない。それを勉強しながらなお、クラスで中位以上をキープしているリンの実力は圧倒的だった。
そのリンが認めてくれている。だから私は、彼女の期待に応えたい。
「うん、分かった……私、頑張るね。しんどくても……絶対、頑張る」
忍びの世界に絶望する日が来たとしても。それでも大事な人たちを守れるように強くなりたい。サクモおじさんの選択が正しかったと証明するためにも、私は私のやり方で忍びを目指してみせる。
涙でクシャクシャになった顔を拭って、私たちは一緒に帰ることにした。オビトが何でもないような顔をして教室で待ってくれていた。オビトは私の顔を見てちょっとビックリしたみたいだったけど、特に詮索してくることもなく、帰ろうぜとただ声をかけてくれた。
掛け替えのない、友達だった。
「遅かったな」
正門前で突然声をかけられ、驚いてそちらを見やる。
そこには仏頂面に長楊枝を咥えたゲンマが、いつものようにポケットに手を突っ込んで立っていた。