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「それでも、祈ることをやめない」

影に陽は差し

第一部 (top)

25.警告

 思いの外、はすぐに眠ってしまった。
 ぬいぐるみを抱いて横たわる彼女の左手は、俺の右手をしっかり握っている。しばらく経ったら台所に行こうと思っていたが、もう少しこのままにしておくか。
 よほど疲れているのか、呼吸がゆっくりと規則的になった。身体もほとんど動かず、手を離しても気づかないような気がする。だがそれは何だか惜しくて、俺は手を繋いだままぼんやり彼女の寝顔を眺めた。
 初めは打算だった。親父は物心ついてからというもの、いつも俺に『澪様』の話を聞かせていた。ただ力の強い忍びならいくらでもいるが、澪様は違う。道具として生きることに絶望していた頃、澪様の教えが自分の生き方を変えたのだと。正直よく分からなかったし、今も分かっていない。
 忍びは道具だろう。幼少期から武器として育てられ、体のいいときに体のいいように戦地に送られる。そうなることが分かっていて、喜び勇んで真っ只中に飛び込むような馬鹿な真似はしたくない。伯父さんはそうやって、死んだじゃないか。
 伯父さんや親父の教えに従い、修行は真面目に取り組んだし、忍びとして生きていくことに迷いはない。母さんが忍びにはならないでくれと言ったとしても、俺はこの道を進むことしかできないだろう。
 しかし、好んでアカデミーをさっさと卒業する気はない。試験や演習はほどほどに手を抜いて、初めから俺は六年間のモラトリアムを全うする計画だった。
 そこへ四年生のとき、『澪様』の孫が入学してきた。近所に住んでいるし、ずいぶん前から存在だけは知っていた。が手裏剣の修行に付き合ってほしいと言ってきたとき、最初は正直「何で俺が」と思ったが、すぐに考えが変わった。こいつは『澪様』の教えを色濃く継いでいるはずだ。こいつに関われば、親父が俺に言い続けてきたことの意味が分かるかもしれない。
 だがこの目論見は、当然失敗に終わる。幼いは目の前のことにいっぱいいっぱいで、ただ無邪気に笑って過ごすだけのどこにでもいる女の子だった。俺は五歳の子どもに何を期待して近づいたのか、アホかと思った。だが、一度引き受けた以上、こいつの手裏剣術が多少まともになるまで面倒を見てやらなければいけない。
 二か月という時間は、俺の愚かな打算を超えてと親しくなるのに充分だった。あいつは一生懸命だし、飲み込みも早い。ただ指導者に恵まれなかっただけだろうと思った。アカデミーの教師もピンキリだし、『澪様』はろくに孫の修行を見てやらないのだろうか。
 定期的な修行が終わっても何となくとの交流は続き、分かってきたことがある。は無邪気に明るく笑うことが多いが、それは心の奥にある寂しさを隠すためなのかもしれないと。うちみたいに家族が褒めたり叱ったり、何でもないときでも笑って抱きしめてくれるような、そんな当たり前の環境がないのかもしれないと。そう思ったら、親父があれだけ尊敬する『澪様』は、実は大したことないんじゃないだろうかと俺は密かに考えるようになった。
 今の俺は『澪様』なんかじゃなく、『』そのものに興味があるし、これからも関わっていきたいと思う。この二年、妹のように感じて繋がりを持っていたいと願い、相手もそうだと感じられるほど互いに親しくなった。本当は俺、妹が欲しかったんだなと気づかされた。が俺の名前を呼んで、甘えてくっついてくるのがくすぐったいが心地良い。
 だからこんなところでが駄目になるのは、嫌だ。
「……元気になれよ」
 何がここまで彼女を追い詰めたのか。俺は少しでも、の力になれているのか。それならひとりで抱え込まずに、俺に話してくれたはずじゃないのか。グルグル考え込んだところで仕方ない。俺は小さく息を吐いて、の手をほんの少しだけ強く握り返した。
 玄関の方から音が聞こえたのは、そのときだった。 

***

、お友達でも来てるの?」
 聞こえてきた声は恐らく、の母親だろう。やましいことはないのだから、普通に顔を出せばいい。だが何だか緊張してしまって俺がの部屋でグズグズしていると、部屋の扉がゆっくりと開いた。
 母親の顔を一目見て、誰がこの家の『病人』なのかを瞬時に理解する。によく似た目鼻立ちのその人は、よりひどい顔色で驚いたようにこちらを見ていた。この青い顔で、仕事に行ってるっていうのか。
「お友達……?」
「はい、お邪魔してます。不知火ゲンマです」
 急いで立ち上がろうとしたが、寝ているがしっかり手を握っているので、離すのに手間取ってしまう。俺がモタモタとベッド脇に降りると、の母親は俺ととを交互に訝しげに見ていた。
「そう……いらっしゃい。は寝てるの?」
「はい、かなり疲れてたみたいで。俺、雑炊くらいなら作りますけど」
 それを聞いて母親は目を丸くした。突然家に押しかけてきた見知らぬ子どもがそんなことを言うのだから当然だろう。だが恐らく今の食事担当はで、この人が病気なのだとしたらこの状況で飯を作るのは俺しかいないだろう。
 だがの母親は力なく笑って首を振った。
「ありがとう。でもそんなことしてくれなくていいわ。食事くらい何とかするから」
「……何とかなってないから、おばさんももこうなってるんじゃないですか?」
 躊躇いながらも、俺ははっきりとそう言った。の母親が愛想程度に浮かべていた笑みを消し、冷たくこちらを見据える。俺の心臓は緊張で弾けそうだったが、このまま放置しておける問題でもないと思った。このままでは、が潰れてしまう。
「……が何か、君に話したの?」
「何も話しませんよ。話せないって。でもがこんなに疲れてるのに、友達なら、放っておけないでしょう」
 何様なんだと自分を罵る声も脳内で聞こえる。こんなことをして、あとでが叱られでもしたらどうする。そう思っても止められない自分の未熟さに嫌気が差した。
 の母親は気持ちを落ち着かせるように長く息を吐きながら目線を落とした。しばらく沈黙したあと、
「……そうね。心配かけてごめんなさい。でも本当に、大丈夫よ。今日は私が作るから」
 これ以上食い下がっても仕方ないだろう。の母親とは今会ったばかりで、俺を警戒するのも無理はない。この様子ではきっとから俺の話を聞いたこともないのだろう。今日は大人しく帰ることにした。
 先ほど手を解いたので、不自然にこちらに伸ばされたの左手を、布団の中に戻してやる。は身じろぎすることもなく、静かに寝息を立て続けていた。目が覚めたとき、俺がいないことに気づいたらまた泣くかもしれない。だがこれ以上、留まることはできそうになかった。
「お邪魔しました……また来ます」
「不知火くん、だったかしら」
 傍らを通り過ぎて部屋を出たとき、後ろからの母親に呼び止められた。
「はい」
に親切にしてくれてありがとう。でも、あまりこの子に関わらないほうがいいわ」
 俺は驚いて、母親の顔を穴があくほど見つめた。この人は一体、何を言ってるんだ?
 彼女は俺をガラス玉みたいな目で見据えて、淡々と続ける。
「いつかお互い、つらい思いをするでしょうから。深入りしないほうがいい」
「……何を言ってるか、分かりません。俺が誰と親しくするかなんて、俺が決めますよ」
 イライラする。いきなり突拍子もないことを言って、俺を二度とに近づけさせないつもりか? そりゃお世辞にも第一印象が良かったとは思えないが、そんな妙な言いがかりをつけられて素直に聞けるかっていうんだ。俺はの母親が『病人』だということも忘れて胸中で悪態をついた。
「失礼します」
「いつか」
 さっさと背を向けて立ち去ろうとするも、の母親はまだ何か言いたいようだった。どうせろくな話ではないが、耳に入るのだから仕方がない。
「いつか私の言葉を思い出したら、そのときでも遅くはないから。忘れないで」
 冗談じゃない。俺は答えず、そのまま足早に玄関に向かった。外はすでに薄暗く、軒先から部屋に入ってきているアイとサクが話しかけてくる。
「ゲンニャ、帰るにゃ?」
「だからそのあだ名やめろ!」
「イライラにゃ」
「せっかちな男は嫌われるにゃー」
「うるせぇよ、じゃあな! のこと頼んだぞ!」
「えーーーー」
 この家はまともなやつがいない。いや、が一番まともだ。『澪様』に会ったことはないが母親があの調子では期待できないだろう。
 やはり放っておけない。
 食事の差し入れに、声かけ。話を聞いてやること。なんなら家で寝させてもいい。過保護と言われても知るか。俺が必ず元気にしてやる。