影に陽は差し
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「それでも、祈ることをやめない」
が急に余所余所しくなった。
数回会っただけでまるで尻尾振った犬みたいに懐いてきたのに、イクチに会ってから突然動きも表情も固くなってしまった。それも一回限りの話ではなく、四日に一度見てやっている修行のたびに同じような状況になるので、ほとんど練習にならない。今までできていたことも覚束なくなる始末だ。順調に上達していたことを思うと、こっちが悔しい。
思い当たる節がないでもない。イクチは五歳年上の従兄で半年前に中忍になったばかりだが、同世代のくノ一からは顔がいい上に優しいと評判だそうで、俺はイクチ宛のラブレターの運搬を何度か頼まれたことがある。自分で渡せない程度の気持ちなら黙ってるほうがいいだろうに。
はイクチからすれば(俺もだが)赤ん坊に毛が生えた程度の子どもだろうけど、幼いからすればイクチは年の離れたかっこいい男に見えたのかもしれない。それならそれで別に構わないが、修行に支障が出るのはどうしたものか。
今日もは真面目に取り組もうとはしているが、気もそぞろという感じで的をかすりもしない。どう考えても精神的な問題なので、俺にできるのはここまでだった。
「、俺との修行はここまでだ」
当たりもしない手裏剣に苛立つの背中を見てそう切り出せば、彼女は弾けたように振り向いた。その目はまるで捨てられた子犬だった。
「な……何で? 私が下手くそだから?」
「違う。自分で分かってるだろ? 何で修行に身が入らなくなったか。これ以上続けても無駄だ」
言ってから、しまったと思った。もう少し言葉を選ぶべきだった。の大きな目が水たまりみたいに揺らいだ。俺は慌てて言い直す。
「これまでが無駄だって言ってるわけじゃない。今の精神状態で続けても意味がないって言ってんだ。分かるか? まずはお前が落ち着かねぇと」
「……落ち着くって?」
ようやくが絞り出した声は掠れて震えていた。まずい。これは、泣くやつだろ。
「えー……例えば、日記を書くとか」
「日記?」
「えー……手紙を書くとか」
「……手紙?」
「それから……なんだ、当たって砕けるとか」
「……ゲンマ、さっきから何言ってるの?」
そうだ、俺は何を言っているんだ。答えに窮してよく分からないことを口走ってしまった。今にも泣きそうだったの目が訝しげに細められる。
俺が次に何を言うべきか迷っていると、しばらく黙り込んでいたがぽつりと口を開いた。
「……当たって砕けて、いいの?」
「ん?」
意味が分からず聞き返す。はやはり涙で潤んだ目でこちらを睨みながら、
「ゲンマ、私との修行イヤだったでしょ」
「……は?」
何の話だ。突拍子もないことを言い出したを見つめ返すも、彼女は溜まっていたものを一気に吐き出すように矢継ぎ早に捲し立てた。
「ほんとは最初から私との修行なんかイヤだったんでしょ! めんどくさって思ってたでしょ! 私が集中できなくなったの口実にできて安心してるでしょ!! よかったね!!」
「は!? ちょ、お前、何言ってんだ」
何の話をしているんだ。わけが分からず、ただそれだけをやっとのことで言い返す。俺がいつ、お前との修行が嫌だなんて言ったよ。
声を荒げたら、感情が一気に溢れ出したらしい。はわんわん泣きながら、それでもなんとか喉の奥から声を絞り出していた。
「だってゲンマが優しくしてくれるのも、こんなに修行付き合ってくれたのも……私がばあちゃんの孫だからでしょ? だから断れなかっただけでしょ? 振り回してごめん……もういいよ……」
「いやいやいや、待て、ちょっと待て」
俺は壮大な思い違いをしていたらしい。
イクチとのやり取りで、の祖母の名前は確かに何度か出た気がする。それを聞いてどこかのタイミングでが勘違いしたのだろう。上の空だったのはイクチの存在そのものではなく、思い込みのほうが原因か。
俺は隠しもせずに大きく長いため息をついた。
「なんだ、お前、そんなことで……」
「そんなことって」
多分、これまでに何度も『澪の孫』としてプレッシャーや孤独に押し潰されそうだったんだろう。「そんなこと」と言われては少し表情を強張らせた。それでもあえて、繰り返す。
「そんなこと、だよ。言えよそういうことは。勘違いかもしんねぇだろ」
するとは驚いたように目を見開いた。正直こんなこと口にするつもりはなかったが、この際、致し方ない。
「そりゃ最初は、お前が『澪』の孫だから気になってたよ。昔からずーっと親父がお前のばあちゃんの話ばっかりしててさ。その人の孫かーどんなやつなんだろうなーって」
その人物がすぐ近所に住んでいるということは知っていた。彼女の家から出てくる小さな女の子が、足元に忍び服を着た猫を連れていることも。いや、連れているというより、連れられているというほうが正しいか。
俺が四年に上がった年、その女の子がアカデミーに入ってきた。学内にもよく猫がついてきているが、忍猫は他の一般的な口寄せ動物とは異なり、日常的に自由気ままに里と彼らの住処を行き来しているらしい。先生たちもそのことは知っているから、授業の妨げにならなければ特に何も指摘することはない。
ある放課後、俺はが校舎の隅でひとりオロオロしている姿を見かけた。彼女の見ている方向には、三年のつるむしか能のない集団と、それと対峙する一年がひとり。
その一年は入学前から噂が広がっていた、木の葉の英雄・白い牙の息子、はたけカカシだ。
しかしまぁ、めんどくさそうなことになってるな。
は恐らく、それを止めに入るかどうするか悩んでいるのだろう。が仮にそれなりに強いとしても、多勢に無勢。俺は気づいたらの肩に手を添えていた。
「大丈夫、任せとけ」
といっても、まともにやり合うつもりはない。時間と体力の無駄だ。俺がちょっと教師の居場所と規則の一部を教えてやると、三年の集団は一目散に逃げて行った。
それが俺との出会いだ。
家が徒歩五分という近距離なので、その後の再会はすぐだった。それまでも道で何度もすれ違ってはいるが、は俺を知らないだろうから、こちらも素知らぬ顔をして通り過ぎるしかない。再会したときはいきなり忍猫に殴られ散々だったが、思いがけず一緒に修行をするような間柄になった。そこにはもちろん、打算もある。
「でも今は違う。お前が上達するのが俺も嬉しいし、お前と過ごす時間は楽しいよ。じゃなきゃこんなに修行に付き合ってねぇ。俺だってそこまで暇じゃない。でもお前がまた元気になるなら修行だって続けたいと思ってる。つーかそもそも嫌なら最初から断ってるよ、時間の無駄だろ」
はまだ泣いていたが、その目は『捨てられた犬』から『怒られた犬』くらいに変わっていた。とにかくこいつは、猫使いの家のくせに表情が犬っぽい。
「……ほんと?」
「これが冗談だったら、さすがに死ぬほど恥ずかしい」
こんな誤解が起きなければ、言うつもりもなかった。自分の気持ちを素直に口にするって、めちゃくちゃ恥ずかしいもんだな。
はしばらく何も言わずにジッと俺の目を見ていた。ここで目を逸らしたら、また変な誤解を生む可能性が高い。俺は羞恥心に負けず、の気が済むまで彼女の黒い瞳を見つめ返した。
やがてが、赤く腫れた目のまま、あのくしゃっとした笑顔を見せる。その笑顔を見たら、俺も緊張が解けてほっと安心してしまった。
「よかった。私も楽しい。ゲンマといると、すごく安心する」
それは確認するまでもなく、が心から言っているのだと分かった。泣き出しそうな笑顔で、消えてしまいそうな儚い声で。
その様子を見たら、俺の口から知らず知らずのうちにある提案が飛び出した。
「今度、うちに飯でも食いに来いよ。母さんも喜ぶし」
するとは少しびっくりしたあと、行きたい! と嬉しそうに笑った。その瞬間、俺の心もほのかに温かくなる。
俺はあんな誘いが自分の口から出たことに驚いた。今まで親の確認も取らずに他人を家に誘ったことなど一度もない。いつも明るい彼女の、時折顔を出す孤独を目の当たりにしたとき、何かしたいという衝動が湧き上がるのを感じた。
「とにかく、今日はもう終わりだ。また四日後、最初の復習からやるから覚悟しとけよ」
「はーい、ゲンマせんせー」
「それやめろって」
俺が顔をしかめると、は楽しそうに笑う。まだ目は少し赤く腫れ上がっていたけど、彼女は軽やかに俺の隣を歩いていた。どこからか現れた忍猫がふたり、の足元で跳ねる。横目でその姿を見ていると、自然と笑みがこぼれた。
いつか一番高いアイスを奢ってもらえる日は来るのだろうか。
そう思いながらも、俺は明日にでも高級アイスのラインナップを確認しに行こうと心に決めた。