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「それでも、祈ることをやめない」

影に陽は差し

第一部 (top)

39.祝福

 の修行を見てくれないかというシカクの申し出に私は驚いた。聞けば彼女は風の性質で、遁術の修行に関してはまったくの初心者。今は風遁の使い手はほぼ戦場に出払っていて、指導までできる者となればダンゾウの他には私しかいないという話だった。
 確かに私は時々アスマに風遁の修行をつけてやっている。その合間に、片手間でも良いから見てやってほしいと請われ、私はすぐに快諾した。澪の孫が、風の性質か。澪は数多の性質変化を使いこなすが、風だけはついぞ会得できなかった。不思議な縁だと感じた。
 はアカデミーの入学式や忍者登録証の確認、任務受付所などで幾度も顔を合わせているが、いずれも私は火影として、は忍びのひとりとして。こうして言葉を交わすのは初めてのことだ。
 が生まれたのはまだ春の芽吹きには早い頃。その数か月前に、私は三人目の子どもが生まれたばかりだった。
「あの凪が母になるとは。我々も年を取るはずだな」
 私の言葉を受けて、澪は曖昧に笑った。絶滅寸前の一族にとって、子を成すことは最重要課題だ。だが婿を取ることが慣例の女系一族で恋愛結婚は至難の業。その不確定要素に頼ることは血を絶やしかねないからだ。私の知る限り、家は二十歳になる頃には一族の決めた婿と祝言を上げるのが常だった。澪も凪も、そうして若くして結婚した。
 凪が他の男を愛していることは、澪も当然分かっていただろう。何度かふたりが口論しているのを見かけたことがある。それでも、百年を超える歴史の重みは無視できない。凪はやがて、口を閉ざすようになった。
 凪の妊娠が分かったのは、結婚から一年ほど経った頃だ。澪は少し安心したようだった。だが澪も凪も、あまり笑わなくなった。私は何もしてやれない自分に腹が立った。
 の誕生の一報が入ったとき、澪はちょうど私の執務室にいた。忍猫のセンが煙のように現れて、彼女に孫の誕生を知らせた。澪はほっと胸を撫で下ろしたあと、まるで後ろめたいような顔をして俯いた。
「何をしている。ここは良いから、早く行ってこい」
「……後で行く。先に報告書に目を通しておきたい」
「いいから今すぐ行けと言っている」
 私が強い口調で促すと、澪は恨めしげな顔をしてようやく部屋を出て行った。
 澪とはアカデミーの頃から一緒だった。澪とダンゾウと、共に切磋琢磨してきた仲間だ。澪はよく笑う明るい性格で、私とダンゾウの間でよく緩衝材になってくれていた。私が二代目様から三代目の指名を受けたときも、私たちの間で手を取り合ってくれたのが澪だ。
 澪もまた、結婚を境に笑顔が少し減ったように思う。だが彼女は気丈に振る舞い、一人娘を生み育て、仕事に復帰したあとも後進の育成に力を入れた。彼女のおかげで情報部はそれまで以上に存在感を増し、今では彼女の教えを受けた優秀な人材が様々な場所で活躍している。
 凪が澪に反抗するようになったのは、やはり思春期を迎えた頃だったか。澪も同じ頃によく血統への不満や疑問を口にしていたように思う。澪もまた悩み続けていた。そして凪の苛立ちに呼応するようにして、彼女自身も笑顔が陰るようになった。
「お前には分からないよ、ヒルゼン。私たちの孤独は」
 澪は一度だけ、そう言って私を突き放した。澪だけでも、凪だけでも、標だけでもなく、家のすべての者たちのことを言っているのだろうか。子どもの頃からずっとそばにいても、すぐ触れられる距離にいても、楽しそうに笑っていると思えても、彼女の抱える孤独は癒せない。誰にも、癒せないのだと知った。
 が生まれたあと、私は出産祝いを持って彼女の家を訪ねた。下手なものより先立つものが良いというビワコの意見に押され、仕方なく祝い金だけを包んで持って行った。夜泣きがすごくて眠れていないということで凪はちょうど休んでいて、忍猫たちに囲まれスヤスヤ眠る赤子を、澪はとても穏やかな顔で見ていた。まるで、昔の澪を見ているようだった。
 あのときの赤子が成長し、今、私の目の前に立っている。彼女の無垢な眼差しは、幼い頃の澪によく似ているような気がした。
「チョウザのところへはいつ戻る?」
「……一週間後です」
 が握り合わせた両手の間から、緑の葉が見え隠れしている。アスマと同じように、まずは木の葉を割くところからか。だが今の状態ではどうにもなるまい。
。自分が今どんな状態にあるか、それは分かっているか?」
「……焦って、います」
「その通りだ。焦っている状態で仮に何とかなったとしても、それは一過性のものに過ぎない。まずは離れてしまった心を自分へと引き戻す。呼吸法は習っているな?」
「……はい」
「では、やってみろ」
 己を律することは忍びとしての基本だ。無論、初めから完璧な者など誰もいない。アカデミーで呼吸法の基礎を知り、実践を通して徐々に自らのものとしていく。やアスマのように幼くして額当てを与えられた者たちは、任務をこなしていく過程で少しずつその重要性に気づくのだ。
 はアカデミーの教え通り、四秒息を吸い、四秒止め、四秒かけて吐く、をしばらく繰り返した。彼女の険しい表情が、確かに緩んでいくのが見て取れる。
「宜しい。まずは、常に自分の状態を把握すること。初めは分からずとも良い、何となくで良いのだ。焦っているのか、落ち着いているのか、怒っているのか、楽しいのか、悲しいのか、嬉しいのか。常に己を見つめることだ。今、お前はどんな状態にある?」
「……少し、落ち着きました。今は、目の前が見えるみたいです」
 充分だ。私は笑みを漏らしつつ、足元の木の葉を一枚拾い上げる。の目は私の手元を真剣に追いかけていた。
「まずはこれを真っ二つに切るところからだな。シカクは何と?」
「性質変化は、アスマから教えてもらってます。鋭く尖らせるイメージだって。やってる、つもりなんですけど……」
 なるほど、シカクらしい。人に教えることでアスマ自身も成長できるだろう。
 悔しそうに眉根を寄せるから視線を外し、私は雲ひとつない青空を見上げた。時折吹き付ける風が、汗ばむ肌に心地よい。もまた私の視線を追って空を仰ぎ見た。
、まずは風を感じることだ。五大性質のうち、風は唯一、目で見ることができない。それは最も自由な力だ。足元ばかりを見ていては気づけないものが、風を感じることで一気に可能性として広がっていく。まずはその感覚をつかむ。木の葉の修行はそれからでも遅くない」
 アスマのときは、我が息子ながら飲み込みが早かったため、この話はしなかったかもしれない。だがすでに家の重圧を感じているかのような思い詰めた顔をするには、技術よりも先に心の在りようが大切だと感じられた。はもしかしたら凪よりも標よりも、澪よりも――本質に気づく力が強いのかもしれない。
 私の言葉を聞きながら、が晴れやかな空をただぼんやりと見つめる。まだ七歳の少女だ。だがその横顔は、すでに同世代の誰よりも大人びているように思えた。