影に陽は差し
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「それでも、祈ることをやめない」
奈良家の表札がかかった門をくぐると、落ち着いた庭先が見えた。敷地としてはうちよりも広く、小さな池には鯉でもいるらしい。水面がときどき揺れて、かすかな紋様を描いていた。
「こっちだ、入れ」
そう言ってシカク先生は玄関を無視し、庭から直接縁側に向かった。明るい日差しが注ぐ廊下に、将棋盤がひとつ置いてある。
シカク先生はサンダルを脱いで縁側に上がり、盤の前にどっかりと胡座をかいた。
「お前も上がれ」
「あ……はい」
一体何のつもりだろう。私が将棋盤をはさんで向かいに正座すると、シカク先生は盤上の木箱に手をやった。
「お前、将棋の経験は?」
「……ありません」
「そうか。ちょっと待ってろ」
シカク先生は徐ろに立ち上がり、奥のふすまを開いて中に入っていった。性質変化の修行……なんだよね? 何で私、こんなところにいるの?
シカク先生は一冊の本を持って戻ってきた。手渡された古いその本には、将棋入門と書いてある。
「今日はそれ見て基本的なルールだけ覚えろ。明日はひと通りやり方を教える」
「ちょ、ちょっと待ってください」
話は終わりとばかりにさっさとサンダルを履こうとするシカク先生に、私は慌てて声をかけた。
「せ、性質変化の修行ですよね? 何で、将棋なんですか?」
するとシカク先生はさも当然のように言ってくる。
「お前、今の自分にそんな余裕あると思ってんのか? いいから黙って俺の指示に従え」
有無を言わさぬ口振りに、私は歯がゆい思いで唇を噛んだ。チョウザ先生ならこんな言い方はしない。でも今、私が教えを請うているのは確かにこの人だ。
すでにこちらに背を向けたシカク先生は、ゆったりと歩を進めながら淡々と締めくくった。
「家のモンが帰ったら俺の指示だと言え。気が済むまでそこにいて構わん。明日は同じ時刻にここだ、いいな」
私の反論など端から聞く気がない。シカク先生は、先ほど初めて会ったばかりの私をひとり残し、早々に自分の屋敷を出ていった。
ざらつく本の表紙を撫でながら、独りごちる。
「……何なのよ、一体」
***
シカク先生が戻ってくるより先に、シカク先生の母親とおぼしき女性が帰ってきた。縁側にひとり座って険しい顔で将棋入門を読んでいる私を見ても、よくある光景なのか「ご苦労様、おやついる?」なんて呑気に聞いてくる。私は出されたお茶だけ口にふくみながら、空が赤らんでくるまで奈良家の縁側を陣取っていた。ルールはたぶん理解したけど、覚えたかと聞かれたら怪しい。
「すみません……この本、お借りしてもいいですか?」
恐る恐る台所を覗いて尋ねると、シカク先生のお母さんは気さくに「どうぞどうぞ」と答えた。
――そして翌日。シカク先生は宣言通り、基本的な駒の動きやルールを実演しながら解説してくれた。駒を盤上に載せ、ひとつずつ私に動きを確認させる。それがひと通り終わると、シカク先生は私に、詰将棋と呼ばれるパズルのような問題をいくつか出した。
「これは王を詰めるための問題だ」
シカク先生が示す盤面には、一手先で逃げるための位置に相手の王が置かれている。私は自分に充てられた駒を見つめ、頭の中で考えを巡らせた。なぜこんなことをさせられているのか、私はまだ納得できていなかった。
「えっと……まずはこの角を使って……」
思いつくままに、角を一マス下に移動させる。するとシカク先生は胡座をかいた太ももの上に肘をつきながら、まるで挑発でもするかのように目を細めた。
「本当にそれでいいのか?」
その表情にやや苛立ちを覚えつつ、もう一度盤面を見る。私は駒の動きを思い出しながら、角を元の位置に戻した。次に何を動かすべきか。強力な駒である飛車か? だが確信が持てない。シカク先生に見つめられて気持ちが急いてしまい、私は勢いで飛車を動かしてしまった。
「、焦るな」
伏せ目がちに見上げると、シカク先生はもう笑っていなかった。まっすぐにこちらを見据え、落ち着いた調子で語りかけてくる。
「もう一度だ。駒の動きには意味がある。それを理解するまで、無理に動く必要はない」
言われた言葉の意味を噛みしめながら、私は再び盤面に視線を戻す。駒を先ほどの位置に移して、思考をゆっくり巡らせていく。心の奥で逸る気持ちが、少しずつ凪いでいくのを感じた。
「――焦っていいことなんざ、ひとつもねぇんだよ」
***
それから五日間、私は奈良家に通ってひたすら詰将棋を進めた。前半の三日間はシカク先生の指導の下、アドバイスをもらいながら。そして後半の二日間は、教本を渡され「自分のペースでやってみろ」と言われた。その頃にはもう、私はなぜシカク先生が自分にこんなことをさせているのかをはっきりと理解した。
「お前はまるで香車だな」
夕日が沈むまで教本と盤面と睨めっこしていた私を見て、シカク先生は苦笑しながらそう言った。
「まっすぐ愚直にしか進めねぇ。気持ちばかりが先走ればあっという間に自分を見失う。時には立ち止まって、周りを見ることを忘れるなよ」
「……はい」
この人はすごい人だ。即座に私の弱点を見抜き、自分自身でそのことに気づかせ、対処できるように訓練する。もちろん、一週間やそこらで克服できたとは思わない。でも気持ちだけが離れていきそうなとき、それを自分の意思で引き戻す感覚を知ることができた。知っていれば、また思い出すこともできるかもしれない。
「よし。では明日より性質変化の修行に移る。辰の刻に第九演習場に集合だ」
「了解です。宜しくお願いします」
いよいよだ。シカク先生に深々と一礼して、私は奈良家をあとにする。どんな修行が始まるかは分からない。でもシカク先生の指導なら信じてついていこう。チョウザ班に戻るとき少しでも何かつかめているように、私は明日からの修行に全力を尽くすことを誓った。
もちろん焦らず、ひとつずつだ。