影に陽は差し
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「それでも、祈ることをやめない」
サクモおじさんの訃報を聞き、母さんはそのまま寝込んでしまった。ただでさえ前線での疲労が癒えない中、過呼吸の症状が出て収まらず、パニック障害の診断がおりてしばらく任務を外れることが決まった。母さんは大丈夫だと言い張ったけど、ばあちゃんが一喝して退けた。
「今のお前が出てったところで足手まといだよ。仲間を殺す気か」
部屋から聞こえてくるばあちゃんの声は厳しく、冷たい。私はドアの前でお盆を持ったまま立ち尽くした。
しばらくして、母さんの悲痛な声が耳に入る。
「仲間? その仲間を助けようとして……そのことを責められ、あの人の心は壊れてしまったのに? 何が仲間よ、そんなもの……」
言葉はそこで途切れた。荒い息遣いと、苦しそうな泣き声と。私が部屋に飛び込むと、背中に伸ばされたばあちゃんの手を、ちょうど母さんが払い除けるところだった。
息苦しそうに胸元を押さえる母さんに駆け寄り、私はゆっくりとその背を撫でる。母さんの身体は小刻みに震え、息は詰まるように浅く速くなった。
「ばあちゃん、あとは私がやるから」
「……すまないね、」
そう言ったばあちゃんの顔色は以前にも増してくたびれている。それは戦況のせいだけではないだろう。ばあちゃんは肩を落としたまま、黙って母さんの部屋を出て行った。
***
サクモおじさんの訃報を受けて発作を起こした母さんがしばらく入院しているとき、ばあちゃんが珍しくしっかり私の目を見て話してくれた。サクモおじさんはうちに出入りする忍びの中でも取り分け私に良くしてくれたため、私はおじさんのことが大好きだった。家族以上に同じ目線に立って向き合ってくれる、貴重な大人のひとりだった。
最後に会ったとき、言ってくれたじゃないか。私が大きくなって、一緒に戦えるのを待ってるって。
「サクモは優しすぎた。あいつは白い牙なんて呼ばれて他国にも名を轟かせた英雄だ。どんな任務も常に我々の期待以上にこなしてきた。任務の失敗はより多くの犠牲を生みかねない。あいつは完璧な忍びだった――あのときまではな」
ふう、と深く息を吐いて、ばあちゃんが呼吸を整える。ばあちゃんにとってもきっと、サクモおじさんの死は痛ましいことだろう。
「敵の奇襲でサクモの中隊に初めて負傷者が出たのさ。そいつが致命傷でね、一刻も早く後方に引いて応急処置の必要があった。サクモは仲間の命のために退いたのさ。戦場で死人が出るなんて当然のことなのに、あいつは部下の命を天秤にかけて任務を中断した」
「……死人が出て当然なんて。当然かもしれないけど、それを前線にも出ないでこんなところで頭だけ使ってるばあちゃんが言っていいことじゃない。サクモおじさんは間違ったことしてない」
ばあちゃんの言葉を聞いたら、身体中の細胞から怒りが噴き出すようだった。仲間の命を優先して何が悪い。目の前で死にかけている仲間がいたら助けたいと思う、そんなの人として当然のことだ。そう考えた途端――私は気づいてしまった。忍びになるということは、人を捨てるということだ。
ばあちゃんは顔色ひとつ変えずにじっと私を見ていた。その暗い瞳と、無言で見つめ合う。ばあちゃんはそんなこと分かっている。サクモおじさんだってきっと、分かっていた。
ばあちゃんの冷静な声が、やけに遠くで聞こえる。
「それが事実だよ。戦場では人が死ぬ。回避したいのなら、戦争を終わらせるしかない。そのために立ち回るのが本部だ。それぞれの役割がある。サクモの役割は、任務を遂行することだった」
「……おじさんが間違ってるって言いたいの?」
「そんなもの、戦争が終わるまで分かるものか。だが事実はここにある。サクモが隊を退いたことで、岩隠れとの間にある重要な拠点が落とされた。これが何を意味するか、お前にはまだ分かるまい」
怒りと同時に、とてつもない悔しさが全身を駆け巡った。私はまだ子どもだ。何が大事で何がそうじゃないか分からない。ばあちゃんの言っていることはきっと正しいのに、どうしてもそれを許せない自分がいる。
母さんも同じ思いを抱えているから、こうして、動けなくなっているんじゃないか?
大人だって悩み、迷う忍びの世界で、私はまだ何もできない子どもだ。無力感に押しつぶされそうになって、喉の奥から嗚咽がこみ上げた。泣いちゃだめだ。泣いたって何の意味もない。
「拠点が落とされたことの影響は大きい。任務を中断したことへの誹りを受け、サクモは悩み続けていた。サクモのおかげで一命を取り留めた部下でさえあいつを罵った。自分の命など、捨て置けば良かったのにと」
何も、知らなかった。おじさんが命懸けの決断をして、そのために仲間からも非難され、悩み苦しんでいることなんて。その姿を見てカカシが、どんな思いでいるかなんて。何も知らないでのうのうと笑って、カカシに追いつきたいばかりに修行をしていただけなんて。
サクモおじさんは優しすぎた。やがて心を病んで、自ら命を絶ったという。一人息子を残して。カカシをひとりにして。私の知っている、おじさんじゃないみたいだった。
でもそれが事実。
あの優しく笑うサクモおじさんはもういない。それが、事実。
居ても立っても居られなくなった私は勢いよく立ち上がり、外に出ようとした。だがすぐにばあちゃんの厳しい声が追ってくる。
「どこに行く気だい」
「どこでもいいでしょ」
「カカシのところならやめときな。お前に何ができる」
見透かされているのも腹が立ったが、決めつけられるのはもっと腹が立つ。私は歯噛みしながら振り向き様に怒鳴った。
「ほっといてよ! 私はおじさんが間違ってるなんて思わない! カカシは私の友達なんだから、ばあちゃんにあれこれ言われる筋合いない!」
カカシを初めて友達と呼んだとき、ずっと胸に燻っていたものの正体が少し分かった気がした。認めたくなかっただけで、私は本当はカカシと仲良くなりたかったんだ。カカシの力になりたいんだ。
ばあちゃんはそれ以上何も言ってこなかった。私は急いでサンダルを突っかけて外に飛び出す。カカシの家は知らなかったが、大体の方角は分かる。表札を見ながら走り回って――やっと、見つけた。
家並みの奥にひっそりたたずむ平屋を見上げて、門の前から声をかける。まったく反応がないので裏口に回り込むと、敷地を囲む茂みの隙間から中の様子が見えた。
そこに探している相手を見つけて私は息を呑んだ。カカシは縁側に座ってぼんやりと空を見上げている。覗いているこちらのことなど気づきもしていない。本来であればすぐにバレて「覗きか」とか言ってきそうなのに。
カカシの目はきっと、何も映してはいない。暗く陰ったその瞳を目の当たりにして、私はその場から動けなくなってしまった。かけようとしていた言葉もすべて、塵になって消えていく。
ばあちゃんの言うとおりだった。
私は何も、できなかった。