315.越境


 十年ぶりの口付けから一週間もしないうちに、が再び俺のアパートに現れた。あの夜、俺の腕の中で泣き明かしてから、憑き物でも落ちたかのようだった。無論、三十年の重荷がたった数か月で消えるはずがない。またいつか思い悩むこともあるだろうが、肩の荷を下ろした感覚を掴めさえしたなら、また戻ってこられる。俺だって、何度でも迎えに行くから。

 は俺の部屋に入るや否や、子どものように飛びついてきて「結婚しよ」と甘い声を出した。前回のプロポーズとは全く趣が違うので一瞬呆気にとられたが、俺は思わず笑ってしまった。

「ひどい! 何で笑うの!」
「悪い悪い……素直なお前も、好きだよ」

 赤い頬を膨らませて渋い顔をするを抱き寄せながら、身を屈める。俺が表情を変えたのを見て、も俺に抱きついたまま少し居住まいを正したようだった。

「俺から、ちゃんと言わせろ。、好きだ。俺と結婚してください」

 が断らないことなんて、もう分かりきっている。それなのに、妙な緊張で喉が渇いた。
 の大きな瞳が、涙で揺らいで震える。

「……はい。ゲンマと……ほんとの、家族になりたいです」

 本当の、家族。

 ガキの頃から、何度も願った。家族のことで悩み苦しむが、本当は俺の妹だったらと。俺なら、俺たち家族なら、にこんな思いはさせないのに。
 の痛ましい過去に、意味があったとは思いたくない。愛されなかった記憶など、初めからないほうがいいに決まっている。

 は、妹なんかじゃない。

 これから、新しい家族になるんだ。

……愛してる」

 囁きながらゆっくり顔を近づけると、が我に返ったように慌てた様子で首を振った。

「あ、待って……」
「ん?」
「鼻水、拭いてくる……」

 涙目で恥ずかしそうにズルズルと鼻をすする姿に、愛おしさが溢れて止まらなくなった。

「んなモン、いいから」
「や、やだってば、汚い……」
「今更鼻水くらいでグダグダ言うな」
「ちょ、ゲンマ……!!」

 俺の口元を覆おうとするの手首を掴んで外し、潤んだ鼻の下ごと食むようにキスをした。

 ――なぁ、イクチ。

 やっぱ、「結婚しろ」は良くなかったよな。


***


 結婚の意思が固まったからと言って、トントン拍子というわけにはいかない。なぜなら、俺はに婿入りするつもりだったし、は不知火に嫁入りするつもりだったからだ。

「ゲンマがうちに入る必要なんかないよ!」
「あのな、お前が最後のだって分かってるか? お前がうちに入ったら、は終わりなんだぞ?」
「分かってるよ! でも私はゲンマと結婚したいの! の婿が欲しいんじゃない!」

 そりゃ、もちろんそうだろう。婿が欲しいだけならとっくの昔にどこの馬の骨とも知れない男と結婚していたはずだ。は、俺と家族になりたいだけだ。不知火として、俺の家族と家族になるつもりだろう。
 だが、事はそう単純じゃない。

。お前が家や家族のことでずっと苦しんできたのは知ってる。でも、お前が家当主としてこれまで大切に家を守ってきたことも分かってるつもりだ。今日明日で答えなんか出さなくていい。どうするか、二人でゆっくり考えよう。俺は、お前も、お前が守ってきたものも、大事にしてぇんだ」

 の部屋で一緒に飯を食ったあと、また結婚の話になった。は目を潤ませながら、何か言いたげに傍らの俺を見上げる。子どものようなその仕草を見れば、構い倒したくてたまらなくなる。
 が、が次に躊躇いがちに口にした言葉は、俺の脳みそを沸騰させるのに十分だった。

「だって……子ども欲しいんだったら、早いほうがいいでしょ。私、もうすぐ三十二だし……」

 子どものことを、考えなかったわけじゃない。幻術の中でも、と家庭を築く夢を見た。小さな赤ん坊を抱いて、柔らかく微笑む。俺の家族や、仲間たちに囲まれて。そこには当然イクチも、幼い頃に戦死した伯父の姿もあった。
 だが、はガキの頃から子どもを産むことを何よりも恐れていた。絶対に不幸にする、自分と同じ思いはさせたくないと。俺が幸せにするという思いは今も変わらないが、が望まないのなら、子どもはいなくていいと思っていた。

 のぼせ上がる頭を押さえて、慎重に言葉を選ぶ。

「欲しいんだったらって……お前は、どうなんだよ」

 するとはしばらくソワソワと目を泳がせたあと、思い切ったように顔を上げた。が、その声はいつもより随分小さかった。

「……ゲンマの子どもだったら、欲しいよ。ずっと、怖かった……子どもなんか産んでも、絶対幸せになんかできないって思ってたから。私と同じ思いさせるって。でも、今は……ゲンマとだったら、頑張れるって思うよ。もし、ゲンマがいなくなったとしても……愛って何か、ゲンマが三十年かけて教えてくれたから」

 俺は、いなくなったりしない。そんなことは、口が裂けても言えない。
 イクチも、伯父も、そして一度は父も――生きたいと願っても、死んだ。

 それでも、絶対に帰らねばと心を強くすることは、できる。

「……分かった。でも、だからって焦んな。少しでも後悔しないように……お前にとって、にとって、子どもにとって、何が最善か……俺だって今は、自信ねぇ。ちゃんと時間かけて、一緒に考えたい」

 その小さな身体を抱き寄せながら言い聞かせると、は少し不服そうに眉をひそめた。

「ちょっと待って。ゲンマにとって、不知火にとって、が入ってない。それに、ゲンマが子ども欲しいかまだ聞いてないよ」
「………」

 まったく、お前ってやつは。

 いつの間にか入っていた肩の力がフッと抜けて、口元まで緩む。
 誰よりも繊細で、誰よりも脆くて、誰よりも頑固で、誰よりも優しく、誰よりも愛おしい――そんなお前のことが、俺はガキの頃から、ずっと。

「……欲しいに決まってんだろ。お前と家族になって、この先も命を繋いでいきてぇ。火の意志なんて大層なもんじゃなくても……お前が俺から愛を教わったって言うなら、その愛を、お前と未来に――」

 話している途中に、がまるで体当たりのような勢いで俺の身体にしがみついた。痛いほど強く抱きつかれて、互いの鼓動がありありと伝わるのが分かる。
 俺の首元に顔を押し付けながら、がすすり泣いた。

「うん……好き。ゲンマ、好き……ゲンマとの子ども、欲しい……できるかは、分かんないけど……」

 年齢のことを、気にしているのか。自信なさげに項垂れるの頭を、あやすように撫でてやる。気にしなくていいと言ってもは気にするし、焦るなと言っても焦るだろう。その度にこうして、お前がいてくれればいいと伝えていけたら。
 ――だが今はそれよりも、喫緊の課題がある。

、お前……ちょっと、離れろ」

 そうとしか言えず、やっとのことでそう絞り出すと、はやはり傷ついた顔をした。

「……なんで?」

 何で。こいつ、やっぱ何にも気づいてねぇ。
 こっちは必死にこの熱をやり過ごすための方法を模索しているというのに。
 何とか腰を退こうとしても、これまでにないくらいしっかりとしがみつかれていて、逃げようと思えば無理やり振り解くしかない。

 ほとんど沸きかけた頭でなんとか知恵を絞ろうとしたが、無駄だった。

​「お前……モロ、当たってる……」

 言葉を選ぶ余裕さえない。はしばらく訝しそうに俺を見つめていたが、突然火がついたように赤くなって慌てた様子で視線を落とした。

 そこで初めて、布越しに自分の腰に当たる生々しい感触を意識したようだった。

「あっ、え、あっ……ご、ごめん……!!」

 何がごめんだ。これまで散々散々散々散々、人のこと煽っておいて、今更何がごめんだ。咄嗟に頭の中に恨み言が浮かんだが、そんな自分に嫌気が差した。それがだ。それが、俺の惚れてしまったという女だ。そんなに、俺はこの三十年、数え切れないほど惚れ直している。
 そうだ。妹なんかじゃない。きっと俺はガキの頃から、この女にずっと惹かれてたんだ。

 気づいてなかったのはきっと、俺たちだけだったんだろう。

 だが――は今や、俺の熱を知ってしまった。

「ゲンマ……ほんとは……」

 絶妙に距離を取ったが、だが両手は俺の胸に添えたまま、窺うように見上げてくる。その視線だけでも焼け付きそうなほど下腹が燃え上がったが、俺は小さく息を吐いて、一瞬だけの唇を塞いだ。
 ビクリと肩を震わせたに、告げる。

「そろそろ寝るぞ。明日も早いだろ?」
「……でも、ゲンマ」
「俺は、待つから。お前が無理して合わせることねぇんだよ」

 この状況で、果たして一緒に眠れるか。だがここでをひとりにして帰るのも気が引けるし、何より、俺が少しでも長く二人で過ごしたい。
 俺が我慢すれば済む話だ。これまで通り。

 だがは、もどかしそうに唇を引き結びながら、赤い顔で不自然に目を泳がせた。
 それから視線を落とし、消え入りそうな声でこう呟いた。

「……無理してないよ。私、ほんとは前から……ゲンマと……」

 その瞬間、身体の奥で何かが弾け飛ぶ音が聞こえた気がした。

「やめろっ!! それ以上はマジでやめてくれ!!」
「……なんで?」

 また、が悲しげに眉根を寄せる。からすれば精一杯の勇気を振り絞って自分の思いを伝えてくれているんだろうが、正直、俺の気にもなってほしい。マジで、これ以上はまずい。
 思わず目元を覆って、呻いた。

「…………アホ、言わすな。ゴム持ってねぇんだよ……ンな無責任なことできっかよ……」
「あ……ご、ごめん……」

 とうとう、が静かになった。真っ赤な顔で青ざめるという器用な芸当をこなしながら。その様子を見れば、熱を帯びた苛立ちがあっという間に鎮まって、自然と笑みがこぼれる。
 本当に、憎めないやつだな。

 落ち込むの耳元に、俺は静かに唇を寄せた。

「次は準備しとくから」
「ばっ……!! 言わなくていいっ!!」

 これでもかというほど赤面したが、子どものような勢いで怒鳴り上げた。