313.剥落


 が母親の日記を読み終えるのに、四か月かかった。

 放っておいたらまた勝手にひとりで消えてしまいそうな気がして、情報部のスケジュールを逐一チェックし、サクに頼み込んで休みを漏らさず把握することにした。は次第に、自分から休みを言わなくなった。時々、ひとりになりたいと思っているのが透けて見えた。

 それでも俺は、をひとりにはさせなかった。

 は日記の内容を一言も話さなかった。俺が後ろから強引に抱きしめるのを拒みはしなかったが、ひとりで黙って紙面を追いかけた。時々呼吸が浅くなるし、震えが止まらなくなることもある。だがそれも、あるときを境にほとんど見られなくなった。
 の中で、確かに何かが変わったらしい。

 日記を読み終えてしばらく、は仕事で慌ただしくしていた。そろそろ飯でも作りに行ってやるかと考えていたところに、のほうから突然訪ねてきた。

「急にごめんね。ごはん、食べた?」
「まぁ、適当に。お前は?」
「うん、軽く食べてきたよ。大丈夫」

 の「大丈夫」を聞くたびに、胸が奇妙に軋む。そうやって自分の傷を誤魔化すのが、すっかり癖になっているからだ。

 俺がコーヒーを淹れている間、は俺のクッションを抱いて、座卓の前に静かに座っていた。

「ゲンマ」

 コーヒーには手を付けず、がまっすぐに俺を見る。

「私と……家族になってください」



***


 ゲンマに初めてプロポーズされたのは、十五歳の冬だった。ばあちゃんを亡くして、標ばあちゃんとも喧嘩別れして、一人で生きて一人で死ぬと決めた私に、ゲンマが「大人になったら俺と結婚しろ」って言った。あれはきっと、壊れそうな私を繋ぎ止めるために言ってくれたんだろうけど、本当は嬉しかった。大好きなゲンマと生きる未来を、ほんの少しだけ想像した。でも私は、冗談だと切り捨ててゲンマに背を向けた。ゲンマを巻き込みたくなかったし、ゲンマが本当は本気だって、心のどこかで分かっていたから。

 母さんと一緒だ。受け止められないから、私は逃げたんだ。

 私は結局、紛れもなく母さんの娘なんだ。

 だけど、私は母さんとは違う。母さんは、自分から誰かを愛することはできなかった。ただ、淡い初恋に逃げただけだ。そうして、最後にひとり残ったサクモおじさんをあんな形で失って、今度こそ壊れてしまった。

 私には、愛する人がいるもの。

 もう、逃げないって決めたんだから。

「ゲンマ。私と……家族になってください」

 ドキドキした。喉の奥が息苦しい。でも、ずっと待たせてきたんだから。この一年――ううん、この十五年、ずっと。

 ゲンマは一瞬、虚をつかれたように目を見開いたけど、すぐに難しい顔をして私をじっと見つめた。その反応に、傷つかなかったといえば嘘になる。

。結論は急がなくていい。もっとゆっくり考えて、お前が納得したうえで答えを出せばいいんだよ。俺は、いつまででも待てるから」

 ――何で。何で、そんなこと言うの? しばらく喉に言葉がつっかえたあと、ようやく口に出せたのはまるで恨み言だった。

「……考えてないわけないじゃない。何でそんなこと言うの? ゲンマと家族になりたいって……私、ほんとに思ってるのに」
「俺だって思ってるよ。でも、そんな暗い顔してるお前のプロポーズなんか、俺は受ける気ねぇよ。もっとよく考えろ」

 そう指摘されて思わず次の言葉を飲み込んだけど、やっぱり湧き上がってくるのは恨めしさと悔しさだった。私の一世一代の告白を、何で素直に聞いてくれないの。
 絞り出した声が、情けなく震える。

「何で……私が、家族のことどう思ってたかなんて、ゲンマが一番分かってるじゃん……何でそんなこと言うの……私が、考えないでこんなこと言ってるわけ、ないでしょ……」
「だからだよ」

 ゲンマは静かにそう囁いて、私の隣に移動してきた。思わず退こうとした私の手を迷うことなく引き寄せて、まっすぐ覗き込んでくる。全部見透かされているようで、また息が苦しくなる。

。昔から言ってんだろ。中途半端すんな。俺は、お前になら何されてもいいんだよ。思ってることがあんなら、全部言え。ちゃんと吐き出せ。俺になら、何言ってもいいから。お前のことなら、全部聞くから。だから俺の前で、そんな顔すんな」

 それがどんな顔かなんて、分からない。でも。

 ゲンマの顔を見ていたら、知らない間に喉の奥から熱がせり上がってきて、掠れた音がこぼれた。
 涙が、止まらなくなった。

 どうして。どうして、私――こんな。

 誰にも、言うつもりなんかなかったのに。

 ゲンマにだって、絶対に言わないって。

 それなのに――勝手に気持ちが溢れて、止まらない。

「私……やっぱり、愛されてなかった。母さんは私を愛そうとしたけど……父さんがいなきゃ、それもできなかった。愛し方が分かんなかったから……ばあちゃんもそうだったから。もし、父さんが生きててくれたら……そしたら私、こんな風になってなかったのに……」

 ゲンマは、怒るでも悲しむでもない。ただ、そうかって受け止めてくれてる。昔からずっと。
 昔から、ずっとそうだ。

 これまでのこと――ゲンマのこと、家族のこと、ゲンマの家族のこと。オビトのこと、リンのこと、カカシのこと、サクモおじさんのこと。
 あんなにいっぱい書き出したのに、また、頭がぐちゃぐちゃになる。

 何も、まとまらない。

「……褒めてほしかった、遊んでほしかった、修行も付き合ってほしかった、話聞いてほしかった、心配してほしかった、こっち見てほしかった……」

 泣きながら勝手に溢れ出した言葉が、あとからジワジワと自分の胸を締め付ける。ずっと蓋をして、見ないふりをしてきたんだ。

 母さんに、大好きだよって言ってほしかった。生まれてきてくれてありがとうって言ってほしかった。
 でも、無理だよね。だって母さんは、そう思ってなかったんだから。

 心臓が、痛くてたまらない。

「……母さんに……笑ってて、ほしかった……」

 いつも、疲れた顔をしていた母。父がいなければ、オビトのおじさんやおばさんがいなければ、サクモおじさんがいなければ、母は笑えなかったんだ。
 一人娘の私がいたって、母さんを笑顔にすることはできなかった。

 私は、無力だ。

 産み落とされた母にだって、愛されなかった。

 私がこんな風になったのは、母さんのせいだよ。ばあちゃんのせいだよ。

 十五年もずっと、ゲンマの気持ちから逃げ続けるしかなかったのは。

「ゲンマ……私、ほんとはずっとずっとずっと、ゲンマのこと好きだったよ……なのに、怖くて……私、何もできないと思って……ゲンマの気持ち、受け止めるのが怖くて……ゲンマは他の人と幸せになったほうがいいからって……私、ゲンマのせいにして……」
「ん」
「時々……全部イヤになる……そうやって母さんやばあちゃんみたいに、私だっていなくなっちゃうかもって……だって私、ばあちゃんから……母さんから生まれてきたんだもん……だからいつか、私だって……時々、いなくなればいいんじゃないかって……」

 自分でも、何を言っているか分からなくなる。ただ勢いに任せて捲し立てる私を力強く抱き寄せて、ゲンマが「馬鹿野郎」って低く唸った。
 心臓が、ぎゅっとなった。

「お前が何言っても全部受け止めてやるけど……それだけは駄目だ。絶対に駄目だ。ここにいてくれ。今更いなくなんかなったら……絶対許さねぇからな」

 私の肩を抱くゲンマの手が、震えてる。鼓動も、壊れそうなくらい。
 ゲンマは二十年以上ずっと、こうやって私を繋ぎ止めてくれた。

「ゲンマ……ゲンマ、ゲンマ……ゲンマ……」

 もしゲンマがいなくなったら、私は母さんみたいに壊れるんだろうか。

 それなら、最初から愛さないほうがよかった?

 違う――これまでの三十年を、否定なんかできない。

 ゲンマのことが、リンのことが、オビトのことが大好きだった三十年。

 私は確かに、ここにいる。

 境界が分からなくなるくらいきつく抱き合って、私はゲンマの腕の中、声が嗄れるまで泣き喚いた。