312.最後のひとつ


「凪、身体は大丈夫なのか?」

 顔を合わせる度に、サクモは気遣わしげに声をかけてくる。心配性ね、とは言えない。息子を産んでひと月もしないうちに、サヨは体調が戻らず亡くなったからだ。
 サクモはサヨを深く愛していた。子どもの頃からすごく面倒見の良いお兄ちゃんだと思っていたけど、もしかしたら、あの頃から。

「大丈夫。いつもありがとう」

 サヨの両親はすでに他界。サクモもお母さんを残すのみだから、前線からの帰還中はサクモがカカシくんを抱っこして散歩する姿もよく見かけた。よく泣く元気な子だった。

「ほんっとに最近トイレ近くてさぁ。腰は痛むしマジでダルい」
「分かる。夜中もすぐ目ぇ覚めちゃうし」

 アカデミー同期のうちは葉月とは、予定日が半月違い。叔母がを出てうちはに嫁いでから、祖母はうちは家をまるで仇のように疎んでいたけれど、祖母亡き今、時を同じくして妊娠した私たちは、以前よりも親しく付き合うようになった。もちろん、サヨもその内の一人だった。

「まさかサヨがこんなに早く逝っちゃうなんてね」
「……そうね」

 サヨはいつから、サクモのことが好きだったのか。結婚から、たったの一年。もともと身体が弱かったわけでもない。何が起こるか分からない――戦争も出産も、そういう意味では何も変わらない。

「あんたも後悔しないようにやりたいことはさっさとやっときなさいよ? 我慢して溜め込んじゃうタイプでしょ」
「………」

 何も言えずに黙り込む私に、葉月は「やっぱりね」とばかりに肩をすくめた。

 やりたいことなんて、分からない。やりたいことを望んだとして、それが叶うのか。叶わないのなら、初めから望まないほうがずっといい。
 ささやかな初恋さえ、諦めるしかなかったのに。

 ただ静かに愛する人を思ってひとりになることもできないなら、心なんて、殺したほうがいい。争いばかりのこの世の中で、誰かを殺しながら、それでも平和を願い続ける矛盾にもがき苦しむくらいなら。

 そう、思っていたのに。

「俺が、必ず幸せにするよ」

 ハクト――かつての同級生のひとり。ただ、それだけ。

 いや、むしろ失望さえしたかもしれない。人畜無害な人だと思っていたのに、結局、私を『』として見ていたんだ。澪の娘だと。
 甘い言葉なんて要らない。血を捨てられないのなら、後継ぎを産むという作業を淡々とこなせばいい。儚いが望むのは、純粋な種だけ。

 忍びが治めるこの醜い世界の中で、心なんか、重荷になるだけなんだ。

 そう信じていたのに、徐々にハクトとの生活を苦痛に思わない自分に気づいて愕然とした。

「凪はいいよ、俺がやるから座ってて」

 私が当然のようにしようとする家事を、率先して引き受けようとする。少し調子が悪いなと思ったら、誰よりも早く気づいてくれる。これ好きだよね? って、よく屋台の甘いものを買ってきてくれる。
 身体を重ねるときいつも、痛くないか、嫌じゃないか、私の気持ちばかり優先しようとする。

 私たちが結婚したのは、の血を遺すためだけなのに。

「ハクトがこの前、うちに来たよ。どういう心づもりが必要かって、ソワソワしててね。カカシのおしめを替えてもらったんだけど、とても上手だったよ」

 仕事でサクモがうちに来たとき、私の顔を見て嬉しそうにそう言った。でも私は、居心地が悪くて何も答えられなかった。
 もし仮に、ハクトが私を愛していたとしても。私は誰も、愛せない。

 私に誰かを幸せにできるはず、ないもの。

 私はあの母の、娘なんだから。

 ――これは、契約なんだから。


***


 母の日記を全て読み終えたのは、朝晩の風が少し冷たくなってくる九月のことだった。

 その間、ゲンマはずっと私の休日に付き添ってくれた。絶対に仕事の調整で無理をしたに違いないのに、そんなことはおくびにも出さないで、そばにいてくれた。朝から私が疲れているときには、今日は休もうと言って、出かけようとする私を強引に布団に引きずり込んだ。過保護だよって反発したときもあったけど、結局私はゲンマの腕の中で、安心しきってやがて眠ってしまった。

 きっと父も、ゲンマみたいな人だった。母を、本当に愛していたんだと思う。

 でも、私と同じように、自分が血を遺すためだけに生まれた存在だと信じていた母には、その愛を受け入れることが難しかった。

 私が生まれた日、母は娘が無事に生まれたことに安堵した。同時に、怖くてたまらなくなった。娘をどうやって愛せばいいのか、分からないと。

 でも、任務から戻ってきた父が、母と私の顔を見て、泣きながらこう言ったそうだ。

「ありがとう、凪。君はもう、命懸けで一番偉大なことをやってくれた。もう大丈夫。あとは俺の仕事だよ。君がどれだけ迷っても悩んでも、俺がいるから。俺が君たちを守るよ。だから君は、君のままでいてくれればいい。ありがとう、凪。……生まれてきてくれて、ありがとう」

 父のその言葉を聞いて、母は、自分が常に怯えて生きていたことに気づいた。自分のままでは、愛されない。認められない。戦うことが当たり前の忍びの世界で、忍びが治める里そのものへの疑問を持つ自分は、異質なのだと。
 初めて、自分の腕の中で泣き喚く赤ん坊を、愛せるかもしれないと思った。

 だけど、父は私が二歳のときに戦争で帰らぬ人となった。

 このとき母は、きっと心を壊した。それを繋ぎ止めてくれていたのは、オビトのおじさんとおばさんだったんだと思う。サクモおじさんだって母さんのために心を砕いてくれたと思うけど、私がミナト先生への気持ちをまっすぐ持ち続けられなかったように、純粋におじさんの厚意を受け取るには、母はあまりにも内に閉じこもりすぎていた。

 母は、主体的に愛することができなかった。

 父がいなければ、自らが産み落とした娘でさえ、愛せなかった。その術を知らなかったから。祖母は私が母に愛されていたと言ったけど、そうじゃない。愛そうとしたけれど、愛し方が分からなかった。

 それはきっと、ばあちゃん自身がそうだったからだ。

 愛そうとしたことが、愛したことと同義だと信じていた。

 でもばあちゃんは、母の日記を読んで、それが間違いだったって気づいたんだろう。

 同じことを私にしてしまわないように、自ら命を絶ったのかもしれない。

 でも、それもまた間違いだったんだよ。ばあちゃん。

 ひとりにしないでほしかった。

 もしもゲンマがいなかったら、きっと私は。

「……ゲンマ」

 私も日記を書いた。いや、そんな大層なものじゃない。頭がぐちゃぐちゃになったとき。全部投げ出したいとき。母や祖母への恨み言。子どもの頃から、色んな人に会って、色んなことを教えてもらって、色んな気持ちになったこと。

 最後に残ったのは、やっぱりひとつだけだった。

「ゲンマ」

 九月十五日の夜、私はゲンマのアパートを訪ねた。

「私と……家族になってください」