309.呼吸


 日が暮れる前に、俺たちは里に戻った。にはとても耐えられないと判断し、俺が半ば無理やり連れ戻ったのだ。

 サクに案内されて入った隠し部屋は狭く、かび臭い石造り。サクの指示でが印を結ぶと、奥の壁が動いて小さな隙間が現れた。
 の母親の日記は、そこにあった。

 全部で九冊。どれも年月を感じさせる色に褪せていた。子どもが使うようなノートから、小さな手帳、いかにも日記らしい装丁のものまで。
 日記の下には、古びた本が一冊置かれていた。

「これ……自来也さんの」

 手に取ったそれらの中から、は一番にその本を取り上げた。背表紙には確かに、自来也という名前がある。ド根性忍伝。読んだことはないが、自来也様の処女作だと聞いた。
 ほとんど擦り切れたその本には、隅が折られたページが無数にあるようだった。

 はしばらく、本の表紙を黙って見つめていた。

「これ……私も読んだ。子どものとき、自来也さんにもらって……シスイと、この本の話もした」

 その言葉を聞いた瞬間、胸が否応なく奇妙に脈打った。シスイは生前、と親しかった。多忙を極めて苛立っていた俺が、二人の仲を勘ぐってしまうほどに。そしてシスイが死んだあと、塞ぎ込んだは、俺がいれば自分は弱くなると言って、俺から離れていった。
 シスイが本当に事故死したのか、俺には分からない。ただ、シスイもイタチも心から平和を望んでいた――イクチからは、そう聞かされた。

 本を掴むの手は、小刻みに震えていた。見開いた目はざらつく表紙に釘付けになり、また息が浅くなってきている。

、もういい。一旦置け」

 俺が本を取り上げようとすると、は不安そうな眼差しで俺を見上げた。

「やだ……読まなきゃ。母さんが何を考えて、何を残したのか」
「読まなきゃなんて思わなくていい。どっちでもいいんだ。お前が読みたいなら読めばいい。読みたくないなら、読まなくていいんだよ」

 するとの大きな瞳に涙が浮かんで、まるで俺を拒絶するかのように必死に頭を振った。絞り出した声も、震えていた。

「そんなこと言わないでよ……読みたくなんかないよ。母さんは私のことなんか愛してなかった。家族のことなんか考えてなかった。やっぱりそうだったって知るのが怖い。でも、知らなきゃ……本当にそうだったって分かったら、今度こそさよならできるから。もう、忘れられるから。じゃないと私、やっぱり家族なんかってまた思っちゃいそうだから。だから……読まなくていいなんて、言わないで。ただ、そばにいて……」

 縋るようなその声に、心臓がギュッと締め付けられた。お前にそんな顔をさせたいわけじゃないし、そんな風に泣かせたいわけじゃない。
 の肩を横から抱き寄せて、少し甘い香りのする髪に唇を寄せた。

「分かった。でも、とりあえず外出るぞ。ここは空気も悪い。明るい場所で、ゆっくり読めばいい」

 石造りの地下室の空気は重く、今にも泣き出しそうなの背を押し潰しているようにさえ見える。
 このままここにいれば、が窒息する。

 が掴んだ本はそのままに、俺は彼女の左手を引いて階段を上がった。

 朽ち欠けた本殿の縁側。四月の暖かな風が吹き抜け、ようやくの呼吸が少し穏やかになる。俺は隅にを座らせ、後ろから包み込むようにしてその小さな身体を抱きしめた。

「ゲンマ……」
「見られたくねぇなら見ない。見てほしいところがあったら一緒に見る。だから、ここにいさせろ」

 の身体から、ほどけるように力が抜けていく。そのことに俺自身安堵しながら、壊さないように、だがしっかりと彼女の前に腕を回して抱き寄せた。

 がぎこちない指の動きで、少しずつページを捲っていく。見ないようにしようと思いつつ、彼女の頭越しに不意に目に入ってしまう。隅が神経質そうに折られた紙面を、は息を詰めて読んでいるようだった。

 三十分ほど経っただろうか。どうやら最後らしいページに、ぼんやり掠れかけた筆跡が一行、走っているのが見える。

 それを読んだ瞬間、が息を呑むのが分かった。

「……?」

 しばし固まってしまったにそっと呼びかけると、彼女は慌てた様子で本を閉じた。

「何でもない。私……日記、取ってくる」

 本能的に、ひとりにしてはいけないと思った。立ち上がろうとするの手を引いて腕の中に閉じ込めようとしたが、は小さく笑って首を振った。
 ひとりで内に閉じこもろうとするときの、あの、卑屈な笑い方だった。

「大丈夫だよ。ちょっと行ってくる」

​ 掴んだはずの手が空を切り、の温もりが指先からすり抜けていく。

 大丈夫――その言葉が、どんな嘘よりも深く俺の胸を抉った。

「あいつは本当にアホだにゃ」

 縁側の少し離れたところでサクと一緒に日向ぼっこをしていたレイが、めんどくさそうに顔だけを動かして、そう呟いた。


***


 母さんが、自来也さんの本を読んでいた。そりゃ、同級生だったんだし、母さんは自来也さんと平和について語り合ったこともあると聞いた。自来也さんの『ド根性忍伝』を読んでいたって、何の不思議もない。

 でも、どうしてここにあるの? ばあちゃんは、何で日記と一緒にこの本を隠したの?

 この角の折り方は、ばあちゃんじゃない。まず間違いなく母さんだ。きっと、数え切れないほど読み込んだんだろう。時代を感じさせる色合いや紙質――だけじゃない。指先が、何度も何度も紙面を滑ったであろう、微かな凹凸。

 物語の最後のページには、どこか覚えのある筆跡で、こう記されていた。

『ナルトが一人いたところで、世界は変わらない』

 世界は、変わったよ。

 自来也さんが託した予言の子、ミナト先生の息子のナルトくんが、確かにこの世界を変えたよ。

 また、争いは起こるかもしれない。でも、私たちは変わっていけると信じさせてくれる。ナルトくんには、そういう不思議な力がある。

 だけど。

 母さんの残した一行を見て、ドキリとした。

 私は確かに自来也さんの信じた世界を信じた。信じようとした。でも。

 結局、私は母さんの娘なんだと、絶望的なまでに思い知らされた。

 酸素が、うまく吸えない。