307.同僚


ならまだ帰ってないにゃ」

 明日は約束の日だったから、朝まで一緒に過ごしたいと思って仕事上がりにそのままアパートに来てしまった。チャイムを鳴らそうとしたところで、いつの間にか足元に来ていたサクが尻尾を一振りしながら教えてくれた。
 情報部はだいぶ前に出たらしいから、どこか寄り道でもしてるのか。

「入るにゃ?」
「いや……出直すわ。サンキュ」

 サクは平然と鍵を開けて俺を中に招き入れようとするが、さすがに家主の留守に上がり込むのは気が引ける。軽く手を振って、俺はサクに背中を向けた。
 早くと一緒に暮らしたい。が、焦らせたくはない。はようやく情報部の仕事が一段落し、これから家族のことに向き合おうというタイミングだ。邪魔はしたくない。ただ、そばにいたい。

 少し歩くと、杭の立つ更地が目に入った。もともとの家があった場所で、今も彼女の名義のままだ。は十八歳で家当主になった。そうするしかなかったから、そうなっただけだ。別に彼女が望んだわけじゃない。

 穢土転生の澪様と、何を話したのか。澪様は己の死の真相を、孫に打ち明けたんだろうか。
 は家族に心を許していなかった。それを今さら、母親の日記だなんて。そんなものを読んだところで、どうなるのか。の傷が、より深くなるだけなんじゃないか。

 だが、決めるのは俺じゃない。

 が立ち向かおうと言うのなら、俺にできることは、助けが必要なときすぐに手を差し伸べられるように、そばにいることだけだ。

 何となく、馴染みの川原に足が向いた。ガキの頃から何かあると、ここでと過ごしたっけか。大人になると部屋で過ごすことも多かったが、ここに来ると、初心に返れるような気がする。のために何かしたい、守りたいという純粋だった頃の気持ちに。
 ただ純粋なままではいられなかった。俺だって男だ。醜い嫉妬も、独占欲も、執着も、情欲も、全てに教えられた。そのことで何度も傷つけたし、俺だって何度も傷ついた。それでも俺たちは、結局のところ離れられない運命なんだろう。

 親父の言っていたことが、今になって少し分かるような気がした。

「あ、おじちゃん」

 明るい声がして振り向けば、ネネコだった。後ろには弟のオキナもいる。この間生まれたばかりだと思っていたが、オキナももうアカデミーの二年生だ。姉と違ってまだ爪楊枝だが、自信なさげな口元にも不知火の証が光っていた。

「なんだ、オキナ。姉ちゃんに修行付き合ってもらったのか?」
「うん、もう疲れちゃった。お腹ペコペコ」
「これから一楽行くんだよ~おじちゃんも行こうよ」
「お前……奢らせる気満々だろ。家帰って母ちゃんの飯でも食ってろ」
「だって母さん今日は友達んち行ってるんだもん!」
「そうかよ。お前も料理くらいもうちっと練習しろよ」
「えーーー」

 まぁ、長らく家政婦が家に張り付いていたから、家事を教わる機会に恵まれなかったのは仕方ない。が、だからって、それが料理を覚えない理由にはならない。

「しゃーねぇな。明日はちゃんと肉食えよ」
「え、別にこれから焼肉でもいいよ」
「たかるな。今日はラーメンだ、ラーメン」
「稼いでるくせに! けーちー」

 ブーブーと文句を垂れる姿に、かつての従兄の姿を思い出す。年長者のくせに、あいつもよく「俺より稼いでるくせに器が小さい」だの何だの、文句ばっかり垂れてたな。
 もう、あいつとしょうもない言い合いもできないんだな。

 オキナはまだ小さい。こいつが大人になるまで、俺たち分家が支える。これまでと同じことを、やるだけだ。
 同じこと――そう。ただ、それだけ。

 しばらく歩いて一楽が見えてくると、ネネコが大げさなまでに元気な声を出した。

「あ、ちゃんだ!」

 こいつは人より、目が良い。宵闇の中、思わず目を凝らすと、確かに屋台の客席にの後ろ姿が見えた。誰か、ベスト姿の女と一緒だ。

 俺たちが近づくと、いの一番にアヤメが気づいて軽快に笑った。

「あ、ゲンマさん! ネネコちゃん! いらっしゃいませ!」

 反射のように振り返ったの目元は、心なしか赤く腫れていた。


***


「お疲れ様です」

 保管庫で涙が涸れるまで泣きじゃくり、椅子にもたれかかって項垂れる私の耳に、静かな声が届いた。
 心臓が止まるかと思った。一体、いつから。保管庫の出入口に、ナギサが立っていた。

 ナギサもまた、同じ年に情報部に配属された同期のひとりだ。

「資料を取りに来ただけです」

 聞いてもいないのに、ナギサはきびきびとそう言って私の横を素通りした。ナギサが奥から戻ってくるまでの間に、私は急いで涙と鼻水を拭いた。
 ナギサは、感情に引っ張られることがない。他の班員が情に絆されそうになるようなときでも、冷静に事実だけを見て全体を分析する。分析班の中でも、昔から一目置かれる存在だ。それが故に、とっつきにくいと評されることもある。

 でも、本当はそうじゃない。ナギサは誰よりも周りをよく見て、誰よりも人に心を砕いている。それを見抜いていたのも、やっぱりいのいちさんだった。

「今日は上がりですか?」

 戻ってきたナギサは古い資料をいくつか小脇に抱えていたけど、急ぎの仕事じゃないんだろう。片手に見覚えのある小さな紙を二枚握っていた。

「久しぶりに、ラーメンでも行きませんか?」

 そういえば何年か前、リクと三人で屋台に寄ったとき、何かのお祝い事でトッピング券をもらったな。私はとっくに使っちゃったけど。
 笑おうとして答えた声は、自覚していた以上に情けなく震えた。

「うん、行きたい! 行こう行こう!」

 ニコリともせずに、ナギサは私に背中を向けた。


***


 ナギサは余計なことを話さない。テウチさんもアヤメちゃんも、過度な干渉はしないでそっとしておいてくれる。そんな静かな一楽で大好きな塩ラーメンをすすっていると、不思議と胸が温かくなった。
 でもふとした拍子に、もう隣にリクが並ぶことはないんだと思ったら、胸が潰れそうになった。

 オビトやリンが死んだとき、私、どうやって慣れていったんだっけ。慣れなかったんだっけ。母さんや、ばあちゃんのときは。

「あ、ゲンマさん! ネネコちゃん! いらっしゃいませ!」

 きっと、心の準備をさせてくれようとしたんだ。アヤメちゃんはいつもより大きな声で、店先に明るく声をかけた。
 ハッとして振り向くと、ゲンマにネネコちゃん、それにオキナくんの三人が近づいてくるところだった。

 先頭のネネコちゃんが、アヤメちゃんに負けないくらい元気よく返事をする。

「アヤメさーん! お腹すいた! 塩ラーメン一つ! トッピング全部!!」
「お前、欲張るな、せめて二つにしろ」
「せこいこと言わない! オキナ、あんたも好きなの頼みなさい」
「えーと、じゃあボクは醤油ラーメンで、味玉とチャーシュー載せてください」
「お前ら……はぁ、もういいわ。好きにしろ」

 やいやい賑やかに言い合いながら、不知火の一行が狭い座席に次々と腰を下ろす。
 ネネコちゃんにグイグイ押されて、ゲンマは私の隣の席に収まった。

 肩と肩が軽くぶつかって一瞬ドキリとしたけど、赤くなっているはずの目元を、今はゲンマにだって見られたくなかった。

「じゃあ、私はお先に失礼します」

 私より先に食べ終えていたナギサが、お金をカウンターに置いて立ち上がる。えっ、と思わず縋るような声が出てしまった。

「もう行くの?」
「はい、明日も早いので。ごちそうさまでした」

 テウチさんたちに頭を下げたナギサが、今度はゲンマに向き直って、いつものように淡々と口を開いた。

「ゲンマさん」
「ん?」
のこと、よろしくお願いします」

 私もゲンマも、びっくりして言葉を失った。十五年の付き合いの中で、ナギサは私とゲンマのことを茶化すどころか、言及することすら一度もなかった。リクとは対照的に、余計なことは本当に何一つ口にしないタイプだ。
 そのナギサが、シャープな眼鏡の奥から、真面目くさった顔でまっすぐにゲンマを見ていた。

「この人、自分のことはいつも後回しなんですから。危なっかしくて見てられないです」
「ちょ、ナギサ!」

 いきなり、何言い出すのよ。ネネコちゃんたちだっているし、何もこんなところで今そんなこと言わなくても。
 でもネネコちゃんは、不思議そうにこちらを覗き込もうとしているオキナくんの目元を覆い隠しながら、一足先に提供されたラーメンをもう片方の手でいそいそと食べ始めた。トッピング全部載せはかなりボリューミーだった。

 ゲンマはしばらく黙っていたけど、徐に千本を外して、ゆっくりと話し始めた。

「心配かけて悪い。でも、こいつは大丈夫だ。こいつは自分の守り方を知らないわけじゃない。仲間の思いを大切にして、今すべきことに全力を出し切る――そういう生き方を愛してるんだ。疲れたときには、俺が支えるから。これからも仲良くしてやってくれよ」

 ゲンマの言葉が、じわじわと染み渡った。私のことを信じて、見守ってくれている。
 でも、何もこんなところで、言わなくてもいいのに。身体の奥から熱が込み上げてきて、顔から火が出そうになった。

 眼鏡のブリッジを中指で上げながら、ナギサはすげなくこう締め括った。

「私はただの、同僚ですから」