305.場所


 親子丼は、ゲンマが初めて作ってくれた料理。あのときも感動したし、悔しかったのを覚えてるけど、やっぱりゲンマのご飯は美味しいな。

 ご飯を食べて、温かいお茶を飲んで、ホッと一息ついていると、ゲンマが座卓の向かいで何でもないことのように口を開いた。

「お前、情報部の副部長の件、断ったんだって?」

 私はちょっとお茶をこぼしそうになった。

「あ、うん……聞いたの?」
「まぁな」

 そりゃ、同じ本部なんだし、耳に入るか。情報部はこの一か月、どの班もてんてこ舞いで、他部署を気にする余裕なんかなかったけど。

 いのいちさんが戦死して、情報部は副部長の烏丸キョウさんが新たな部長に就任した。アオバの遠縁で、諜報の師匠に当たる人だ。実力と人望で選ばれた人だし、戦後の膨大な任務を迅速に割り振る必要があったため、部内からも特に異論は出なかった。
 問題は、副部長の空席に誰を据えるかということだ。

 キョウさんは就任後すぐ、私のところにやって来た。部内の上忍複数の推薦がある、と。先輩方を差し置いて私なんか、と首を振れば、澪様は君の年には副部長だったと告げられた。

「穢土転生の澪様が現れたそうだな」

 穢土転生の記録も、重要な報告書のひとつだ。黙り込む私に、キョウさんは淡々と言ってくる。

「君が澪様に劣等感を持っていることは知っている。だが、君は澪様を超えた。もう引け目を感じる理由はないはずだ。君に私の補助を頼みたい」

 本当に、この人ははっきりと物を言う。いのいちさんとはまた異なるタイプで、ちぐはぐな情報部を繋いでいく。
 私は小さく息を吐いて、ゆっくり、話し始めた。

「違うんです。私は、祖母とは違う。今回の戦争でよく分かりました。私はこの十五年、情報のプロとして皆さんの下で学び、働かせてもらいました。情報を扱う以上、あくまで自分がフラットでいなければならない。そのことを肝に銘じて、職務に向き合ってきたつもりです」

 でも、とつぶやいて、一つ一つ、言葉を選んでいく。キョウさんは、黙って私の話を聞いていた。

​「二度、戦争を経験しました。先の大戦で、私は親友を失いました。仲間の手で命を落とすという、最も悲惨な形で。私も、そうさせた彼も、絶望の中でもがきながら、平和があると信じて突き進んできた。その先にあったのは、かつての仲間の変わり果てた姿だった」

 瞼に浮かぶのは、もちろんオビトの姿だ。冷たく残忍に笑う、大人になったオビト。かつて平和を願った彼が、愛する人を失い、変わってしまった。強大な力を持ったがために、世界を壊そうとした。それが平和だと、信じて。
 彼はきっと、純粋すぎたから。

「私は……どうすればいいか分からなかった。情報の力で、連合軍を支えることこそが自分のやるべきことだと分かっていたのに、私は、泣いて、縋って、ただ、祈ることしかできなかった。限界を感じたときに、私にできたのはただ祈ることだけ。かつての仲間のために、ただ、泣くことだけだった。私は、自分がフラットではいられないことに気づいてしまった。もう……情報部員としても、失格かもしれません」

 情報部を外されるかもしれない。特別上忍という立場も。それでも、仕方がないと思えるから。お前は笑っていてくれと言ったオビトに恥じない生き方をしたいから。
 キョウさんは、しばらく何も言わなかった。それからやっと、ぽつりとこう漏らした。

「かつて、澪様が言った。情報を扱う忍びである前に、私たちは人間である、と」

 それはいのいちさんやゲンマのおじさんたちからも、幾度となく聞かされてきたことだった。ばあちゃんは年を取って変わった。そう、頭のどこかで切り捨ててきた。
 でも、もしかしたら。

「邪魔をしたな。編纂作業は長期戦だ。下の者をうまく使い、他里とも協力して事に当たってくれ」

 キョウさんは私の肩を軽く叩いて去っていった。あれから一か月、情報部は副部長不在のまま、日々の任務を進めている。

「今の仕事が落ち着いたら、家建てんのか?」

 ゲンマはさらりとそう言ったけど、私は答えに窮した。そのうち考えなきゃいけないなって、結論を先延ばしにしていた。の土地は今、宙ぶらりんの状態だ。手放すか、引き継ぐのか。
 土地だけの問題じゃない。結婚するつもりはなかったし、は私で最後だってずっと思っていた。でも今は、ゲンマと家族になりたいって心の底から思ってる。それがどんな形になるのか、私たちはまだ何も話し合っていない。

 全部、過去にけりがついてからの話だ。
 今の段階では、何も、決められない。

「お前、あの土地のこと、呪いか何かだと思ってんだろ」

 黙り込む私に、ゲンマは軽い調子でそう言った。ドキリとして顔を上げると、ゲンマは呆れながらも優しい眼差しで私のことを見ていた。それだけで、ホッと肩の力が抜ける。

「登記だけ済ませて、とりあえずそのまま置いときゃいいだろ。そこに家建てんのか、手放すのか。どうするかは、それからゆっくり考えりゃいい。金なら俺だって出すから……もう、お前ひとりで背負わなくていいんだ」

 涙が出るほど、安心する。でも同時に、それでいいのか不安にもなる。

「……ゲンマは、どうしたいの?」
「俺は、お前と一緒にいられるならどんな形でもいいよ。の土地に新築するでも、全く別の土地でもいいし、お前がいいなら俺が今住んでるアパートでも」

 ゲンマは、いつだって軽やかだ。私がひとりで抱え込む重石も、大したことじゃないって思い出させてくれる。暗い視界が、柔らかく開ける気がする。

「お前が納得いく形なら、俺は何でもいいんだ。俺の望みは、お前のそばにいることだから」
「……いつか、私と一緒に住みたいって思ってくれてるって、思ってていい?」

 少し緊張したけど、恐る恐るそう問いかけると、ゲンマはびっくりしたように目を丸くしたあと、また呆れたように笑った。

「当たり前だろ。お前、家族になりたいって言ってくれたじゃねぇか」
「それは……そう、だけど」
「家族は、一緒にいたほうがいい。俺の帰る場所が、お前の帰る場所でもあってほしいって心底思ってる。と、家族になりてぇよ」

 それはあの日、ゲンマが戦場でくれた言葉。私も家族になりたいって答えて、私たちは三十年分の思いを確かめ合うように、ひしと抱き合った。
 同じ言葉なのに、やっぱり嬉しくて。じわりと込み上げる熱に思わず俯くと、ゲンマは座卓を回って私の隣に移動してきた。ぎゅっときつく抱きしめられて、涙が零れ落ちる。

「焦らなくていいから。お前のペースでいいんだ。大丈夫だから。な?」
「……うん。ゲンマ、大好き。ありがと、ゲンマ……」

 どうしてこんなに、幸せなんだろう。どうしてこの幸せを、拒み続けてきたんだろう。

 過去は戻らない。だから、これからのことを。

 小さな仮設部屋の中、ゲンマの首筋の匂いを鼻腔いっぱいに吸い込みながら、私はゆっくりと目を閉じた。