304.体温
満たされた心地で瞼を開けると、目の前で寝息を立てているのはゲンマだった。
一瞬ドキリとしたけど、すぐに安心する。そうだった。ゲンマ、来てくれたんだった。疲れてたからそのまま寝ちゃったけど、ずっと、一緒にいてくれたんだ。窓の外はもう明るい。私は今日休みだけど、ゲンマは仕事、大丈夫かな。
よろよろと身体を起こそうとしたところで、眠るゲンマと手を繋いでいることに気づいた。
ベストを着たままのゲンマは、私の手を握って床板に転がっている。季節は十一月。いくらゲンマが鍛えてるからって、布団も被らないで寝てたら、風邪ひいちゃう。
遠慮なんかしないで、布団、入ってくればよかったのに。
私たちは多分、付き合っているわけじゃない。私からはっきりした答えを聞くまでゲンマは何も言わないだろうし、恋人かって聞かれたら、私はきっと言葉を濁してしまう。
それでももう、誤魔化すつもりはない。私はゲンマのことが、大好きだって。
私の布団を掛けようとゴソゴソしていたら、ゲンマがうっすらと目を開いた。
「……起きたのか?」
「うん、おはよ。ゲンマ、風邪ひいちゃうよ」
ゲンマがこの部屋に来るのは初めてじゃないけど、いつもご飯を持ってきてくれて、一緒に食べたらそのまま帰っていく。恋人らしいことと言えば、抱き合って、ゲンマが私のおでこに軽くキスするくらい。
でも今日は寝惚けてるのか、ゲンマは勢いよく私の布団に転がり込んできて、私を布団ごと抱きすくめた。
びっくりして反射的にゲンマの身体を押し返そうとしたけど、何だか肩の力が抜けて、私はそのままゲンマの背中を抱き返した。
あたたかい。
「……好きだ」
「……うん。大好きだよ、ゲンマ」
抱き合って、ただ、素直に気持ちを伝え合う。
それだけのことで、疲弊しきった心も身体も、こんなにも満たされる。
この温もりを、ゲンマは三十年ずっと、惜しみなく注いでくれたのに。
どんなに好きと伝えても、きつく抱き合っても、まっすぐ見つめ合っても、きっとこの気持ちを全て伝え切ることはできない。
「ん?」
私があんまり見つめているせいか、ゲンマが小さく笑って目を細めた。その仕草を見るだけで、心臓がぎゅっとなる。
照れ隠しにその首にきつく腕を回しながら、私はゲンマの少しざらついた顔に頬ずりした。
「好きだなって思っただけ。好きなの。ゲンマのこと、大好きなの」
「……知ってるよ、アホ。俺のほうが好きだっての」
「私のほうが好きだもん」
「絶対俺だろ」
「私!」
こんな不毛な口論をすることも、増えた。しばらく言い合ってから、顔を見合わせて笑う。額を寄せ合って、不意に唇が近づいたとき――ゲンマはさり気なく顔を離して、角ばった指で私の頬を撫でる。
分かってる。ゲンマはきっと、こんな曖昧な関係のまま、キスしたりしない。
ほんとは、キス、したくても。それを止めているのは、私だ。
私がいつも、待たせてばかりで。
でも、もう、謝らない。
「……ゲンマ、大好き」
噛みしめるように囁いて、そっと頬に口づけると、ゲンマの切れ長の瞳が心底嬉しそうに緩んだ。
幸せだって、心から、思ってくれてる。
「……大好き」
何度も何度も伝えるのはきっと、ゲンマのためだけじゃない。
もう一度繰り返して、私はゲンマの胸にきつく、きつくしがみついた。
***
布団の中でぴったりとくっついて二度寝したあと、軽くシャワーを浴びてから、私たちはゲンマの買ってきたお惣菜で一緒に遅めの朝食をとった。ゲンマも今日は非番らしい。こんなにのんびり一緒にいられるの、何年ぶりかな。非番がかぶったとしても、こうして明確な目的もなくぼんやり過ごすことなんてほとんどなかったから、ひょっとしたら、子どもの頃以来かも。
「手伝うよ」
「いいから、お前は座ってろ」
さっさと洗い物を始めるゲンマの背中に声をかけたら、ばっさり切り捨てられた。思わず頬を膨らませてゲンマを睨んだけど、その後ろ姿を眺めているだけで、また、色んなことを思い出した。
「ゲンマ」
「ん?」
「またゲンマの親子丼食べたい」
「おう、いいぞ。つーか今日作って帰ってやるよ」
「ほんと? 嬉しい! あ、でも明日からまたしばらく帰れないから……夜、一緒に食べよ?」
「ん、分かった」
ゲンマはこちらに背を向けたまま、さらりとそう言ったけど。私からすれば夜まで一緒にいられる約束ができて、すごく嬉しいし、すごくドキドキする。三十年もそばにいたのに、今さらこんなことで喜んでいるなんて、私はどれだけゲンマが好きなんだろう。
夜までの時間、どうやって過ごそう。
「はい、終わり。いつまでも人の背中見てねぇで、歯ぁ磨いてさっさと寝ろ」
洗い物が終わったのか、そばのタオルで軽く手を拭きながら、ゲンマ。見透かされてドキリと心臓が跳ねたけど、私はまた不貞腐れて唇を尖らせた。
「さっきまで寝てたんだよ? やだよ、夜まで起きてる」
「アホ。作業続きでろくに寝てねぇんだろ? せっかくの休みなんだから、二日くらい大人しく寝とけ」
ゲンマの言っていることは分かるし、きっとそうすべきだということも分かる。頭では分かっているのに、もっとゲンマとくっつきたいし、いっぱい話したい。
もっともっと、そばにいたい。
折れない私を振り返り、ゲンマが呆れた様子で肩をすくめる。
「俺も疲れてんだよ。今日はオフ。ほら、寝るぞ」
「……はーい」
こうでも言わないと、私が言うことを聞かないってゲンマは分かってる。私たちは小さな流し台の前に並んで歯を磨いて、そのまま一緒に布団に戻った。
ゲンマといっぱい話したいって思ってたのに、気づいたら私は夢の中だった。やっぱりゲンマは、私よりも私のことをよく分かってる。次に目覚めたとき、窓の外はまた暗くなっていた。
隣にゲンマはいなかった。
「ゲンマ……」
反射的に情けない声が漏れたけど、すぐに出汁の香りに気づいて、部屋に備え付けの小さなキッチンを見やる。ゲンマは腕まくりして、ちょうど包丁を使っているところだった。
ゲンマが、いる。
それだけのことでこんなにも安心して、温かくて、溶けてしまいそうになる。