303.変わらないもの


 雷の国での一次照合を終えて里に戻ってきたのは、終戦から半月が過ぎた頃だった。作業は基本的に情報部地下の記録保管庫で、情報部員が分担して行うが、他里の共同編纂者を迎え入れる場合は、里の入口近くに仮設として建設された合同事務所ということになっている。膨大な資料を精査して記録。気の遠くなるような作業に、気が休まらないのが正直なところだ。
 仮設住宅の部屋に帰るのも、数日に一度。不規則な生活が続いている。もっとも、そんなことはこれまでにいくらでもあったし、手を抜いていい道理はない。

 私たちの記録には、連合軍の戦死者凡そ六万人の痛みが託されている。

 そんな中、母の日記に向き合う時間も、家のことを考える余裕もあるはずがない。

 ゲンマたち護衛部は里の治安維持や要人警護が主な仕事。情報部の様子をよく覗いているのか、はたまたサクが余計な世話を焼いているのか、ゲンマは絶妙なタイミングでよく部屋に顔を出してくれる。
 因みにゲンマは、元々住んでいたアパートが再建されたので、早々に仮設を出て行った。今、仮設に住み続けている人の多くは、家の再建が終わるのを待っている人たちだ。ゲンマの両親も、私の近くに住んでいる。コトネさんや、ネネコちゃんたちも。

 不知火本家はきっと、将来的にオキナくんが継ぐことになるだろう。

、いるか?」

 三日ぶりに帰宅した私がベストだけを脱いで布団に横になっていると、玄関からゲンマの声がした。
 ドキッと心臓が跳ねたけど、身体に力が入らない。全身が鉛みたいに重くて、瞼もまるで縫い付けられたように開かなかった。

 ただ、愛しい人の声が聞こえる。

​「……鍵、開いてんじゃねぇか」

 カチャリと音がして、サンダルが微かに砂を踏む音が続く。鍵、閉めなかったっけ。だめだ。何も、考えられない。
 ゲンマの気配が近づいてきて、なんだか美味しそうな匂いが鼻腔に届いたけど、私はそのまま泥のように眠りに落ちた。


***


 終戦から一か月。里は落ち着きを取り戻した――とは、言えない。

 確かに戦争は終わった。うちはマダラにオビトが死に、薬師カブトは拘束された。これまでの犯罪歴から、大蛇丸にうちはサスケも、木の葉の警務部にその身柄がある。が、大戦における功績や、今や世界の英雄となったうずまきナルトの嘆願により、サスケには恩赦が与えられる予定だ。大蛇丸やカブトも同様に、今後の処遇については慎重に検討されていると聞いた。
 大筒木カグヤという、忍びの始祖を超えた化物の話なんざ、眠っていた俺たちには関係のない話だ。

 里にはまだナルトへの面会希望に殺到する連中が後を絶たない。俺たち護衛部は今、基本的に里の治安維持を任されている。先日、五大国から影を迎え入れた際には、もちろん周辺警戒や警護。やることは山積みだが、情報部に比べれば、どうということはない。

 二日間という超短期決戦だったが、膨大な数の連合軍が死んだ。遺体が未発見のケース、判別不能のケース、変化した白ゼツなのか判断に時間を要するケースなど、まだ正確な数字も出ていない。それらの情報を正式な記録に残すこと。五大国と鉄の国が協働し、昼夜を問わず編纂作業に当たっている。
 も当然、その中のひとりだ。

 俺はさっさと仮設を出て元のアパートに戻ったが、は今も仮設住まいを続けている。住居をどうするか、そんなことを考えている暇はないだろう。
 仕事が仕事だ。誰も、の跡地が更地のままであることに口を出したりしない――今は。

 だがそれも、いつまでも保留にはできないだろう。

「あら、浮かない顔ね。せっかくの美人が台無し」
「こんなオッサン捕まえて、誰が美人だ」

 顔を見なくとも声で分かる。コマノは見るからに重そうな腹を抱えて、ゆったりとひとりで歩いていた。

「また出歩いてんのか」
「当たり前でしょ。病人じゃないのよ」

 紅も全く同じことを言う。コトネは、どうだったかな。多分、似たようなもんだったな。
 立派な父親だっつーのに、みんな、さっさと行っちまった。

 女ってのは強いな。涙ひとつ見せやしねぇ。

 それとも、のように――外では美しく笑ってみせて、裏ではボロボロ大泣きしてんのかね。
 それがもしかしたら、女って生き物なのかもしんねぇな。

 軽く立ち話をして、そのまま別れる。夫を亡くしたばかりの同期にかける言葉なんて、分かりたくもない。

 コマノも紅も、予定日は来月だと聞いた。

 新しい命。もう二度と、戦争のない世界で生きられることを心から願う。

『あなた方忍びが再び過ちを繰り返さぬよう、私たちはトキの魂と共に、末代まであなた方の行く末を見届けましょう』

 初代様の記憶は、きっと連合全ての人間に共有された。初代火影と、の約束。それは想像以上に重い、鎖のような錘に感じられた。
 彼女の瞳は、俺に、の母親のことを思い起こさせた。この世界を憎んでいると言わんばかりの、暗く、空虚な眼差し。

 オビトのように、がいつあんな風になっても、おかしくない世界だった。

 二度の戦争を経てもなお、彼女の瞳がガキの頃のまま透き通っていることに、俺はとてつもなく安堵した。

 それと同時に、絶対にひとりにさせてはいけないと、改めて強く思う。

 はきっと、を捨てられないから。

 気を抜くとすぐに、何でもひとりで決めてしまおうとするから。

 そのが、これからのことは、俺と一緒に考えたいと言ってくれた。嬉しかった。報われたくてやってきたことじゃないが、それでもこの三十年が報われたようで、涙が出るほど嬉しかった。

 お前が必ず戻ってくると分かっているなら、俺はいつまでだって、待つよ。
 もう、そばにいても、いいんだよな?

、いるか?」

 先ほど本部から出てくるを見かけた。きっとろくに寝ていないんだろう。すでに何度か仮設の部屋を訪ねたことがあるが、サクの助言で、ちょうど起床する頃を狙って差し入れを持っていくことが多い。だが今日は、俺もちょうど買い出しの帰りだったから、そのまま彼女のあとを追いかけるような形になった。

 返事はない。もう寝たのか? そっとドアノブに手をかければ、信じられないことにそのままドアが開いた。神出鬼没な忍猫たちがいるとはいえ、あのが鍵をかけ忘れるなんてな。

 通常のワンルームより、さらに一回りほど小さな造り。ヤマトの木遁がベースとなっているため、強度や防音性はそれほど悪くない。カーテンから漏れる月明かりに照らされたは、電気もつけずに、布団の中で丸くなっている。ベストだけは辛うじて、近くに脱ぎ捨ててあった。
 帰宅したばかりで、もう、夢の中か。代わってやれることなら、代わってやりたい。

 俺は買い物袋をキッチンに置き、そっと彼女の傍らに腰を下ろす。は目を閉じて、すでに眠っているようだった。よっぽど疲れてるんだろうな。惣菜もいくつか買ってあるが、何か作って置いておいてやるか。起こさないように、静かに作れるやつな。

 頭の中でレパートリーから適当にチョイスしながら、慎重にの頭に手を伸ばす。仕事中はのかんざしをつけていることが多いが、今は見当たらない。忙しいときは、時々忘れるようだった。
 そっと髪を撫でると、が小さく身じろぎした。

 起こしたかと、慌てて手を引こうとしたが、そんな俺の左手をが掴んだ。

 起きているのか、無意識か。俺はそのまましばらく待ったが、は右手で俺の手を握ったまま、静かに寝息を立てていた。
 寝た振り、じゃないな。どうやら、本当に眠っている。

 不意に、ガキの頃のことを思い出した。憔悴したアカデミー生のが、俺の手を握ってようやく眠りについた、あのとき。

 あの家はもうないし、を見守るクマのぬいぐるみもきっと消し飛んだ。それでも今、こうして変わらず、が俺の手を握り、安心しきって夢を見ることができる。
 変わってしまったものが、たくさんある。だが、変わらないものも、こうして。

 今のに必要なのは、何よりもまず、睡眠だろう。

「おやすみ、

 小さく囁いて、俺は身を屈めてその額にそっと口付けを落とした。