301.夜明け


 長い長い、夢を見ていた。とても、とても幸せな夢。

 目覚めると朝日が昇り、不思議なざわめきが耳を打つ。

ちゃん!」

 鈴のような声がして、私はゆっくりと顔を上げた。硬いけど、温かい何かに抱かれている。焦げた土の臭いと、これは――。
 愛おしい薫りに包まれて視線を上げると、目の前にいたのはゲンマだった。

 夢の続きかと思った。

ちゃん!」

 また名前を呼ばれて、ハッと目を見開く。私はしゃがみ込んだゲンマの腕に抱かれ、ネネコちゃんが私たちを覗き込むように見下ろしていた。
 目が合って、ネネコちゃんが涙目で太陽のように笑う。

「よかった! ちゃん!」

 ネネコちゃんは勢いそのままに私とゲンマに飛びついてきた。ぎゅっときつく抱きしめられて、ネネコちゃんともゲンマとも、びっくりするくらい距離が近い。煤けたベスト越しに、ゲンマの鼓動が聞こえそうなほど。
 不意に、彼女が赤ん坊のときのことを思い出した。

 夢の中の光景まで、ありありと思い出した。

「ネネコちゃん……」
「よかった! よかったよぉちゃん……」

 涙声で、洟を啜る音も聞こえる。愛おしくてたまらなくなったけど、腕がうまく上がらない。
 代わりに、ゆっくりと口を動かした。

「……どうなったの?」
「全部終わったにゃ。ナルトとサスケがやったにゃ」

 ひらりと現れたレイが、何でもないことのようにそう告げた。私は驚いて息を呑んだけど、もうゲンマたちの耳には入っていたらしい。ナルトくん、生きてたんだ。本当に、やってくれたんだ。
 ホッとしたら力が抜けて、私はそのままゲンマの胸に倒れ込んだ。

 生きてる。

 数え切れない命が失われた。何度も何度も、あわやという場面があった。でも、生きてる。
 ネネコちゃんもゲンマも私も、生きてる。

 目を閉じてゆっくりと息を吐く私の身体を、ゲンマがきつく抱き締める。
 安心したら突然今の状況を理解して、顔から火が出そうになった。

「あっ、その、ゲンマ……ちょ、離して……」
「嫌だ」

 ゲンマが即答して、また私を抱く腕に力を込める。すごくドキドキして、心臓が壊れそう。
 それに――周りの目も、気になるし。

「あっ、私、そのへんの様子見てくるね。ごゆっくり!」

 ネネコちゃんは満面の笑みでそう言い残し、あっという間に私たちの前から姿を消した。まるで時空間忍術かというくらい、鮮やかに。
 近くにいたはずのライドウやイワシたちも、気づいたときにはいなくなっていた。

 なんか、私たち、こんなところでまで、みんなに気を遣わせてる?

「ゲンマ、私たちも行かなきゃ……」
「この戦争が終わったら、絶対に伝えるって決めてた」

 その言葉に、一瞬、呼吸を忘れた気がした。

 私たち、もしかしたら、同じことを考えていたのかもしれない。

 恐る恐る視線を上げると、ゲンマの狂おしいほどにまっすぐな眼差しが私を見下ろしている。
 それだけで、胸が苦しくなった。

「お前がそばにいてくれれば、それ以上何も求めることなんかねぇと思ってた。でも……やっぱダメだわ。お前と一緒にいたい。ずっと。俺はお前と……家族になりてぇ。好きだ。好きだ……」

 ゲンマの声が、震えてる。その震えがそのまま、私の胸を打つ。
 ずっとずっとずっと、ゲンマは変わらない気持ちで愛してくれた。捻くれた私のちっぽけな心を、いつも温かく包み込んで。

 涙が、止まらなくなった。

「ゲンマ……好き、大好き……ゲンマ」

 私だってずっとずっとずっと、好きだった。

 ゲンマのいない人生なんて考えられないのに、ずっとウジウジして、ゲンマの気持ちを受け入れなかった。何度も何度も撥ねつけて、それなのにゲンマは、諦めないでずっと手を差し伸べてくれた。

 ゲンマから逃げ続ける人生なんて、もう、イヤなの。

 ゲンマの背中に腕を回して、きつく、きつく抱き締める。

……」

 名前を呼ばれるだけで、肌が粟立つくらい満たされる。
 子どもの頃からこうやってずっと、消えてしまいそうな私を繋ぎ止めてくれた。

 もう、離さないから。

 身体を少し離して、傷だらけのゲンマの顔を見上げる。そっと手を伸ばせば、少し荒れてざらついた頬には、驚くほどの熱がこもっていた。
 もしかしたら、私も同じように。

「私も、ずっとゲンマと一緒にいたい……ゲンマの帰る場所になりたい。だからゲンマも……ずっと私の、帰る場所でいて……」

 その瞬間、ゲンマの身体からふっと力が抜けた。私を支えていた腕が微かに震え、彼は視線を泳がせるようにして天を仰いだ。角ばったゲンマの喉仏が、ゆっくり上下するのが見える。
 再び私を見下ろしたとき、その瞳には、こらえきれない涙が溜まっていた。

​「……当たり前だろ。ガキの頃からずっと……俺はそのつもりだったぞ」

​ 吐き出された声は掠れていて、ゲンマは震える唇を引き結んで力なく笑った。
 三十年近く一緒にいて、初めて見るその表情に、どうしようもなく胸が締め付けられた。

 ゲンマはそのまま、今度は壊れ物にでも触れるように、ゆっくりと私を胸に引き寄せた。
 温かい鼓動。大好きな、ゲンマの匂い。

​「……今さら、他に行く当てなんかねぇよ。全部、お前に置いてきちまったからな」

 その言葉を聞いて、私は思わず笑ってしまった。本当に、ゲンマは、子どものときからずっとそう。いつもいつも、私のことばっかり。
 少しムッとした顔で、ゲンマが唇を尖らせる。

「笑うなよ」
「だって……他のとこ行く時間なんか、これまでいくらでもあったじゃん」

 思わずそう口走ったけど、ゲンマはさらに深く眉間にしわを刻んで、ズイと私の顔を覗き込んできた。
 血と泥と、饐えて乾いた、鼻をつくにおい。

 全部――生きている、証。

「お前が危なっかしいから、目が離せなかったんだよ。ほんっとに……世話の焼けるやつだな」

 その目は、本当に馬鹿だなって笑ったときと同じ、すごく、優しい眼差し。
 身体が燃え上がって、息が苦しくなる。

「うん……ごめんね。めんどくさいやつでごめん……諦めないでくれて、ありがと。もう逃げないよ。ゲンマと……ほんとの、家族になりたい」

 ものすごく緊張したけど、ずっと言いたかった言葉。やっと――やっと、言えた。
 ゲンマはまるで狐につままれたような顔をして固まったあと、茹でダコかってくらい耳まで赤くなって口ごもった。その顔を見たら、私も輪をかけて恥ずかしくなってしばらく声が出なかったけど、やっとのことで口を開いた。

​「……でも。もうちょっとだけ、待って」

 涙を浮かべたゲンマの瞳が、不意を突かれたように見開かれる。言い訳でもするみたいに、少し早口になってしまった。

「実は……ばあちゃんに会ったの。穢土転生されて、私の前に」
「……澪様が?」
「うん……私、ほんとは忘れようと思ってた。過去なんか忘れて、これからはゲンマと一緒に、前向いて生きていくんだって。でも、ばあちゃんと話してみて分かった。ばあちゃんのことも母さんのことも、全部なかったことにしたって、きっとずっと過去に引っ張られる。だから、ちゃんと向き合って……それから、先のこと考えたいの。ゲンマと一緒に、ちゃんと話し合って。……ダメ?」

 窺うように視線を上げると、ゲンマは少し難しい顔をしていた。
 そう……だよね。これまで散々待たせた挙げ句、もっと待てって言ってるんだから。

「向き合うって……どうする気だよ」
「凪の日記があるにゃ」

 いつからそこにいたのか。

 私たちのすぐ隣に座り込んだサクが、あっけらかんと口を挟んだ。

「澪がいいって言ったにゃ。ボクが案内するにゃ」
「凪って……の母親か? 澪様がどうしたって?」
「澪は凪が死んだあとに凪の日記を見たにゃ。それを神社に隠してから死んだにゃ」

 サクはいつものように、淡々と語るだけ。

 そうだ。サクが日記の隠し場所を知っているということは、ばあちゃんの最期だって当然、知っているはず。
 ばあちゃんは、母さんの日記を読んで、死んだのか。
 全部、自分のせいだと思い詰めて。

 死んだりしないで――話して、ほしかった。

?」

 ゲンマの落ち着いた声が、私を現実に引き戻した。知らず知らず震えていた私の肩をそっと抱いて、ゲンマが優しく目を細める。

「分かった。でも、一人で無理はすんな。俺もいる。お前ひとりで向き合う必要はねぇんだ」

 ゲンマは全部、分かってくれてる。私がどれほど、家族のことで怯えて、心を閉ざしてきたか。
 母の日記なんて、パンドラの箱を開けるようなものだろう。

 それでも。

「うん……ありがとう、ゲンマ。ありがと……」

 声は、掠れてしまった。ごまかすように下を向いたけど、ゲンマはまた私の背を抱き寄せて、ポンポンと軽く叩いた。子どものときと、同じように。

「十年以上待ったんだ。今さら多少それが延びたところで俺の気持ちは変わんねぇよ」

 落ち着いていた涙が、また溢れ出した。

 ゲンマは――本当に本当に本当に。

「……ばか」
「お前に言われたくねぇわ」
「…………ばか」

 この先、何があったとしてもきっとゲンマは私を離さない。
 そんなの、この三十年で嫌というほど分かってる。

 私だってもう、ゲンマ以上のバカになっていい。

 もう――絶対に絶対に、離さないから。

「あー……お取り込み中悪いんだけど、そろそろいい? 怪我人の収容もあるし、動けるなら手伝ってほしいんだけど」

 不意に背後からカカシの声がして、私たちはこれでもかというくらいびっくりして飛び上がった。