300.帰る場所
全て、終わった。大筒木カグヤは封印され、俺たちも元の世界に戻ってきた。
精神世界で、再びオビトと向かい合う。
「じゃあな、もう行くよ。リンを待たせてっから」
これで、本当に。
「……遅刻の言い訳は考えてあるのか?」
「お前を助けてくるって前もって言っといた」
「……そうか」
何を言えばいいか、分からなかった。俯き、黙り込む俺に、オビトが思い出したように声をあげる。
「あぁ、そうだ。最後に一つだけ」
そう言って歯を見せて笑うオビトは、あの頃のままで。
「のヤツ、また泣いちまうだろうからさ。かっこいい最期だったって、言ってやってくれよ」
それは、オビトを一度失ったときの約束と同じだ。
あのとき俺は、それさえも守れず。
「あぁ……伝えるよ」
今度こそ、必ず。
次に目を開いたとき、俺は現実世界に戻ってきていた。
写輪眼のカカシも、今日で終わりだ。
***
身体どころか、指先の一本にも力が入らない。
俺は、負けたのか。
どれだけ望んでも、夢には届かなかったと。
「生きている間にできることは知れてる。だから、託していかねばな」
柱間の顔も、もう、見えぬ。
瞼に浮かんだのは、ひとりの、子どもの姿。
いや。
子どもと呼ぶのも、違うか――。
「俺は……力があれば、世界を導けると思った」
柱間の腹の中が見えたと思い、共に里を創った。だが、柱間のような馬鹿ばかりではない。本当に腹の中を見せ合えるような、馬鹿ばかりでは。
うちはでさえ、俺に背を向けるようになった。いずれ迫害されるであろうことが、目に見えているのに。
「汀は……俺たち忍びを、憎んだ。だがそれは、多くが半端な力を持ったがために、驕りと争いを生み、憎しみが憎しみを生んだ。圧倒的な力を持てばそれが抑止力となり、争いは沈静化し、本当の平和が訪れると思った……イズナが俺に、遺してくれた道だ……」
「力も全て使いようだと、お前も翠から教わったはずであろう」
翠、か。あぁ。あの、小娘が。
己の一部を見ようとしたが、指も動かねば、目も開かぬ。
「俺は……その使いようを、模索してきたつもりだ。だが……結局、俺の道は間違いだったということか……」
「自身が強大な力により苦しんだ過去がある。その上で彼らは、力を使わぬ道を選んだ」
の、強大な力か。柱間に聞かされたことがあるだけで、どんなものかは知らないし、興味もない。
奴らのそばにいたのは、所詮、無力な畜生共ではないか。
思わず、浅く笑いがこぼれた。
「その末路が……結局、忍びの道を選んだとはな」
「たとえ形は変わろうとも、平和を信じ、祈り、見守る覚悟は翠と同じであろうぞ。は、その澄んだ瞳も面差しも翠そのものだ」
あぁ、だから。
だから無性に、腹が立ったのか。
思い返しても、実に可愛げのない小娘だった。
「翠はお前が里を離れたあとも、お前のために祈り続けておったぞ」
時が、止まった気がした。肺に溜まった空気が、行き場を失って凍りつく。
「……何を……言っている?」
俺は、あの里を捨てた。柱間に背を向け、奴の声も聞かず。
挙句の果てには里を襲い、逆賊として闇に葬られた。
柱間はあのとき、里を守るためならば友をも殺すと。
「本当だ。お前の死後も、翠はずっとお前のために舞い続けた。それはそれは美しかった」
「………」
声を出したつもりでいて、乾いた唇から漏れたのは、力のない嘲笑だった。だがそれは、一体誰に向けたものだったのか。
やっとのことで絞り出した声は、情けないほどに震えて潰えた。
「……愚かな」
「お前の目にどう映ろうと、翠は人間を愛した。闇を行く者がいれば灯火にならんとし、光を行く者には陰から寄り添った。お前も本当はずっと、繋がっておったのだ」
あぁ――頭に靄でもかかったように、ぼんやりと世界が白んでいく。
柱間の気配も、戦場の静寂も、遠い水の底のように消えていく。
「俺たちも今ならただ、戦友として酒を酌み交わせる。そのときまで――」
柱間。
薄れゆく意識の淵で、ふと、柔らかな風が頬を撫でた。
かつての、あの懐かしい里の陽光。片手に握った鈴を鳴らして、小さな娘が立っている。
毒づいたつもりだったが、口元が微かに緩むのを止めることはできなかった。
なぁ、柱間。
この音色を頼りに進んだ先に、俺たちの帰る場所があるんだな。
***
「何をしている」
声をかけると、女は弾けたように振り向いた。女、といっても、年の頃は十歳ほどか。川辺に何か動く塊がある――その程度の、つまらない存在。
女はこちらの顔を見ると、ぎょっと目を剥いて飛び上がった。
「まっ! マダラ様っ!」
「貴様……か?」
柱間が木の葉に連れてきたというは二人。先ほどの生意気な汀は、俺たちより一回りほど年上らしい。年長者は敬えと柱間は俺によく説教をするが、年長者というだけで愚かな女に遜るほど俺は落ちぶれてはいない。
汀には確か、娘が一人いたはずだ。
立ち上がったところで、女が片手でへし折れそうなほど非力な存在であることに変わりない。
「はい! 翠です!」
「貴様は一人か。猫はどうした」
汀の肩にはよくあのいけ好かない猫が載っている。翠は曖昧に笑って首の後ろを掻いた。
「あはは……私は信用されてないんで」
「信用? そんな曖昧なものを当てにするから貴様らは何もできんのだ」
まるで母親に似ていないと感じた翠の卑屈な笑い方が、なぜかやはりあの母親に見えた。
無性に腹が立った。
「マダラ様は、柱間様に信用されてるじゃないですか。信頼……って言ったほうがいいのかな」
「知ったような口を利くのは母親にそっくりだな」
虫唾が走る。だが見開かれたその大きな目に真正面から見つめられたとき、これまでに感じたことのない居た堪れなさに俺は息を呑んだ。
「私が……母に?」
翠は純粋に驚いているようだった。考えたこともなかった、と言わんばかりだ。
それは此奴がまだ子どもだからか、それとも――。
この年頃まで生きられなかった兄弟のことを、思い出す。
俯いた翠は所在なげに指先を動かし、見覚えのある独特の所作をなぞり始めた。
それは汀が呪詛を込めて舞う、あの重苦しい儀式と同じ動きのはずなのに。この娘が指先を揺らすだけで、澱んだ川風が、清らかな旋律を帯びて吹き抜けていくように感じられた。
初めての、感覚だった。
「……何を、している」
「えっ? あ、すみません。私、考え事をしてると、つい手が動いちゃうんです。母に『器がないなら、せめて型だけでも覚えろ』って、毎日毎日叩き込まれたから」
翠は照れくさそうに笑い、その指先を固く握りしめて後ろ手に隠した。
だが、その一瞬の型が、なぜか俺の目に焼き付いて離れなかった。
「私、母になんか似てませんよ。あんなに毅然と伝統を背負うことも、誰にも頼らずに生きていくことも、私にはできません。私は、一人でいるとすぐに心細くなって、誰かの背中を追いかけたくなっちゃうんです」
一人では、いられぬと。まるで子どもだ。俺たちが貴様の年には、疾うの昔に命の奪い合いをしていたというのに。
だがそのとき、あの崖の上で柱間と青臭い理想を語り合った日のことを思い出した。
久しぶりに、思い出した。
「ならばこのような所で腐っていないで、街に降りてはどうだ」
柱間が翠をアカデミーに誘ったことは知っている。だが、年齢が少し上だということと、忍びの作った学校だということで汀が拒絶したらしい。
一人ではいられぬほど弱いというのに、里の営みからも離れて暮らしている。
「そう……ですね」
翠の横顔が小さく翳り、また光を求めて視線を上げる。
誰かに、似ていると思った。
「いつか、みんなの暮らす街に住んでみたいです」
「できぬ道理はなかろう」
短く告げると、女はまた少し驚いた様子だった。すぐに笑って、どこか甘えるようにこちらを見上げてくる。媚びるようなその仕草が、なぜか慣れない懐に触れた。
ひどく、居心地が悪かった。
「マダラ様、また来てくださいますか?」
「言ったはずだ。貴様が来いと」
毒気を抜かれた女の顔が一体誰に似ているのか、そのときはっきりと分かった。
「分かりました。会いに行きますね」
あぁ――そうだった。これは、夢。
これは無限の夢か、それとも。
『マダラ様、遅いですよ』
どこかでシャンと、鈴の音が聞こえた気がした。