「あんなに嫌がってたのに、どういう心境の変化?」
「……一年だけだよ。あまりにお転婆なお前のことが心配だからね」
「あたし、リーマスがいなくったってちゃんと学生くらいできるよ」
「そうか、それは楽しみだな。頼むから私に減点させるような真似はしないでくれよ」
あたしはリーマスと一緒に、トランクを引きずりながら、キングズ・クロス駅九と四分の三番線ホームを歩いていた。リーマスは、見送りではない。父もまた、同じ列車に乗ってホグワーツに向かうのだ。
「、このへんで別れようか。ホグワーツまで父親と一緒では恥ずかしいだろう」
「え?でも……」
適当なコンパートメントを探して歩き回っているとき、振り向いたリーマスのいきなりの提案に正直なところかなり戸惑った。こんなところで可愛い娘を一人ぼっちにさせるわけ?
「心配要らないよ。誰かのコンパートメントに入れてもらえばいい。お前ならすぐに友達ができるよ」
「そ、そうかな……」
「そうだ。お前に渡しておきたいものがあるんだ」
そう言って父は邪魔にならないように壁に寄ってから、少しだけトランクの蓋をあけて中から一抱えほどの紙袋を取り出した。
「家を出る前に渡そうと思っていたんだがすっかり忘れていてね。こんなものは使わずにすめばそれに越したことがないんだが」
「なにそれ?開けていい?」
「開けてもいいがチョコレートだよ。早く仕舞っておきなさい、ずっと持っていたら溶けるよ」
チョコレート?なにそれ、どういうこと?折り目を広げて覗き込むと、リーマスの言った通り、板チョコらしい大きな箱が少なくとも十個以上は入っていた。
「な、なんで?何これ、おやつ?」
「おやつでもいいが、できれば『もしも』のときのために取っておいてほしい。まあ、もしも切らせるようなことがあれば私のところに来なさい。予備は用意してあるから」
「へ?なにそれ。こんなにチョコレート食べられるわけないじゃない」
「だから『もしも』のときのためだよ。いいかい、」
言いながら、リーマスは慎重に辺りを見回して誰も通らないことを確認してからそっとの耳元で囁いた。
「今年、例の脱獄犯対策でホグワーツには警備態勢が敷かれる。その警備に就くのがアズカバンの看守、ディメンターだ。彼らがどういう生物か、お前は知っているね?」
ディ、ディメンター?あの、人の幸せな気持ちを吸い取って心をカラカラにしちゃうっていう。唾を飲み込みながらこくりと頷いた彼女を見て、リーマスはさらにあとを続けた。
「本当は生徒全員に配ってあげたいところだが、あいにくそれだけの余裕はない。ディメンターで弱った心にはチョコレートが最も効果的だ。もしものときはこれを食べなさい。そして周りの友達に何かあれば、そのときにもこれを渡してあげなさい。約束してくれるかい?」
何それ、そんなに危ないことがホグワーツで起こるの?聞いてない!ホグワーツが警備されるっていうのは、ちらっと新聞で見たけど。
「心配要らない、ディメンターが警備するのは城の外だけだよ。普通に学校生活を送る分には何の支障もない。だからそれは、『もしも』のときのためだよ」
「……うん、分かった」
「よし、いい子だ。それじゃあ、。ホグワーツで会おう」
軽く右手を上げて、リーマスがトランクを引きずるゴロゴロという音と一緒に遠ざかっていく。途端に不安な気持ちになりながら、はきょろきょろと辺りを見回した。どうしよう、ひとりになっちゃった。リーマスはどこまで行くのかな。誰と同じコンパートメントに乗るのかな。
「あの……ひょっとして、一年生?」
急に後ろから肩を叩かれて、は飛び上がった。けれどもそれに驚いたのは声をかけてきたほうの女の子で、二歩ほど後退しながら唖然と目を見開いている。しまった……だからいちいち大げさだって言われるんだ!
「ご、ごめん!うん、そう、あたしは一年生だよ」
するとその女の子はぱっと顔を明るくしてにっこり微笑んだ。
「よかった、私も新入生なの。ねえ、一緒に乗りましょうよ」
「ほんと?嬉しい、ありがとう!あたし、・ルーピンっていうんだ。よろしく」
「私はアイビス。アイビス・レイトン。よろしくね、」
よかった!急に身体が軽くなった。アイビス、かぁ。仲良くなれそう、よかった。
二人で空いていたコンパートメントに乗り込んで、出発までの時間をまだ見ぬホグワーツの話で埋め尽くした。アイビスのパパとママは二人ともレイブンクローで、きっと自分もレイブンクローかなとアイビスは言った。
「あたしもママはレイブンクロー。でもパパはグリフィンドールだから、どうなるか分かんないなぁ」
「そうなの?はレイブンクローとグリフィンドールだったら、どっちがいいと思う?」
「あたし?あたしは……じゃあその中間で、ハッフルパフ!」
なにが中間なのか自分でもよく分からなかったが、面白いほど自然な流れでそれはぽろりと口から飛び出した。アイビスは一瞬きょとんと目を丸くしたが、すぐに声をあげて笑いだした。
「って変わってるのね」
「そ、そう?パパにもよく言われるんだけど、あたしからしてみたらパパのほうがおかしいよ。だって朝起きて顔洗わないっておかしくない?いっつも家出る直前にやっと洗うんだよ」
「洗うだけマシじゃないかな?うちのパパは洗わないもの」
へぇ……アイビスのパパ、顔洗わないんだ。それはそれで嫌だけど……でも洗うなら洗う、洗わないなら洗わないではっきりしてほしいと思うのは事実だった。リーマスに言わせれば、「他人に会うまでには洗ってるんだからいいじゃないか」。だったらそれで眠い眠いってうるさくするのはやめてほしい。
「そうだ、さっきパパにもらったチョコレートあるんだけど、食べる?」
「ほんと?嬉しい、ありがとう!」
リーマス、ごめん。早速『おやつ』にしちゃった。
でも友達作りの大事な一歩だから、これくらいは許してくれるよね。
DEMENTOR SHOCK
チョコレートが出逢いを生む
リーマスが言った通り。いや、もしかしたらリーマスの言葉があったからかもしれない。後から寄せてくれとコンパートメントに入ってきた新入生たちと、はあっという間に打ち解けることができた。もしくは、近所のマグルの子供たちと遊んでいたせいか。同年代とお喋りすることには多少は慣れていた。
「私はハロウィンのご馳走が楽しみ!ママもずっとそればっかり楽しみにしてホグワーツに行ってたって」
「私もそれ聞いた!ホグワーツのご馳走はほんとにすごいって。一回クリスマス休暇に残ったことがあって、そのときのご馳走もまるで王室料理みたいだったってパパが」
「王室って何?」
通路側に座ったフランシスとニースが口々に『ホグワーツで楽しみなこと』を並べあげている。はマグルの世界とも接しながら生きてきたし、アイビスはパパがマグルボーンなので、ママがマグルだというフランシスの話も大半は理解できたが、完全に魔法社会の中で育ったというニースは、分からない単語が出てくればフランシスの話を遮って何度も聞きなおしていた。因みにあたしが一番楽しみにしているのは、クィディッチ・カップ。小さい頃から、故郷に最も近いところに本拠地を持つプライド・オブ・ポートレーを応援していてクィディッチには興味があった。選抜チームに入りたいとは思わないけれど、見るのは楽しみ!
キングズ・クロスを出発してからずいぶんと時間は過ぎ、激しい雨が打ちつける窓の外はもう真っ暗で、はすっかり飽きていたリーマスのチョコレートを暇潰しにまたかじった。
「そろそろかな?」
汽車が速度を落とし始めたことに気付いて、外の暗闇を眺めながらアイビスが言った。
「ほんとだ。早く着かないかな、もうお腹ぺこぺこ」
「あ……しまった。組み分けの後って宴会なんだよね。どうしよう、チョコ食べすぎたかも……」
「そうよ、ったらずっとそればっかり食べてるんだもん。ニキビができても知らないから」
「あ、それちょっとやだな」
もういい加減、やめておこう。残りの板を包みなおして、トランクの中に滑り込ませる。けれども再び窓の外を覗き込んだアイビスが、奇妙な顔をしてコンパートメントの中を振り返った。
「ねえ、なんだか変よ。まだホグワーツなんて見えないもの」
「え?でも、もうすぐ着きそうだよ」
言っているうちに、ピストン音がやんで汽車は突然ガタンと音を立てて止まった。この中はなんとか無事だったが、どこか遠くから、ドシン、ドシンと荷物棚からトランクの落ちる音と悲鳴が聞こえてくる。そして何の前触れもなく、列車内の明かりが一斉に消えた。
「ちょ、なに!停電?」
「停電ってなに!」
フランシスの困惑した声と、噛みつくようなニースの声。も反射的に傍らの窓枠を掴んでそちらに身を委ねたが、突如襲ってきた暗闇の中、どうしようもない不安と焦りにどんどん速まっていく鼓動を制御することができなかった。一体、何が起こったというのだろう?
リーマス
たすけて。
そのとき、混乱によって生じたこの喧騒の中でも、確かに彼女の耳に、コンパートメントのドアがやたらとゆっくり開く音が聞こえてきたような気がした。同時、凍えるような冷たい風が心の奥にまで吹き込んでくるような。氷のような何物かの手が、皮膚を滑り抜けてそーっと心臓を撫でるような、……。
「大丈夫か!」
刹那、ぱっと車内が明るくなった。いつの間にか、隣のフランシスのほうに倒れ込んでしまっていたらしい。重い、とうめくフランシスの上から彼女を引き上げたのは、額に冷や汗を浮かべたリーマスだった。よかった……たすかった……。
「リーマス……あたし、あたし、」
「大丈夫だ、もう奴はいない。みんなも大丈夫かい?」
の手を放してリーマスはコンパートメントの中を見渡したが、みんな青白い顔をしながらも呆気にとられた様子でぽかんと口を開けたまま何も言わない。『だれ?』
みんなの頭の中に、その同じ疑問が浮かんでいることは一目瞭然だった。
「リ、リーマス……今の、まさか」
「ああ、アズカバンのディメンターだ。まさか抜き打ちでこんなところまで入り込んでくるとは……私は、運転手と話をしてこないと。、チョコレートは持っているね?」
「うん……さっきいっぱい食べちゃったけど、まだある」
「それじゃあ、みんなに分けてあげてくれ。できれば、この辺りにいる他の生徒たちにも。私は行くよ、また後で」
擦り切れたローブを翻して去っていくリーマスの後ろ姿を見送って、は震える手で先ほど仕舞ったばかりのチョコレートの包みを取り出した。自分もその一部を頬張りながら、まだ目を真ん丸にしている友人たちに、大きく砕いたものを渡していく。
「みんなも、食べて。これ食べたら……また、元気になるから」
「な、何だったの?なんでディメンターが……ううん、それよりさっきのおじさん、誰?」
おじさんって……いや、ニースが正しい。リーマスは、立派な『おじさん』だ。継ぎ接ぎだらけのローブに(ごめん、その四割くらいは幼いあたしの悪戯心のせい)、白髪の混じる頭。むしろ初老と呼ばれなくてありがたいほどかもしれない。
「さっきのは、ええと……先生。今年新しく、闇の魔術に対する防衛術の先生になる、『ルーピン先生』」
「先生?だってあなた、さっき……うん?『ルーピン』って、ひょっとして」
「……そう。うちの、パパ」
えええええ!と素っ頓狂な声をあげるニースの口に無理やりチョコレートを突っ込んで席を立つ。ぽかんとしているフランシスとアイビスにも同じくらいの欠片を渡してから、は残りの板チョコを全部持って通路に出た。みんなにもチョコ配ってくるね、と言い残して他のコンパートメントを次々と訪ねていく。ディメンターの力はやはり強力で、まだ座席や床に突っ伏してゲホゲホいっている生徒たちが多くいた。あたしがこの程度ですんだのは、きっとそれまでにやたらとチョコレートを食べ続けていたためだろう。リーマスはまさか、こうなることを予測していたのだろうか。
いくつかコンパートメントを回ってそろそろチョコレートが底を尽きかけた頃、通路の向こうからフラフラした足取りで歩いてくる男子生徒を見つけてはハッとした。いけない、あの人、危ない!
「だっ、大丈夫ですか!」
知らず知らずのうちに駆け寄って、声をかける。どうやらかなり上級生らしいその人物は、脂汗の浮かぶ額に手を添えて気だるげにこちらを見た。けれどもこちらに不安を与えないためだろう、明らかに無理をして笑いながら口をひらいた。
「ああ、ありがとう。君こそ大丈夫だった?」
「あ、はい!あたしは大丈夫です!それより、あの、これ食べてください!元気になりますから!」
最後のひとかけらを、は何も考えずにその人の前に差し出した。すると青年はきょとんとした顔をしてみせたが、やがてありがとうといって受け取ったそれを口にふくんだ。見る見るうちに、その顔に赤みが戻っていく。よかった、たすかった!
「あ……不思議だな、本当に元気になってきた。チョコレートが効くんだね、知らなかったよ。どうもありがとう」
「いえ、よかったです!それじゃあ、あたしはこれで!」
チョコ、全部終わってしまった。あんなにたくさんもらったのに、みんなに配ることはできなかった。ホグワーツって、ほんとにたくさん人がいるんだな。それにしてもさっきの人、すごくかっこよかった!またどこかで会えるといいな……あ、しまった!寮がどこか確認するの忘れた!
同じ寮になれたらいいな
そんなことを考えながら、は友人たちの待つコンパートメントへと戻った。動き出した列車の窓の外には、もうホグワーツ城の明かりが見えていた。