ハリー・ポッター。それは多くの魔法使いにとって、大きな意味を持つ名前だろう。暗く悲しい時代を記憶している人々は多い。大切なものを奪われ、または得体の知れない何物かがいつ我が家のドアを叩くかという、恐怖。身を縮めながら暮らしていた。隣人も、あるいは家族さえも信じることができない。言ってみれば、異常な世の中だった。不意に訪れ、瞬く間に蔓延った闇。それをある日突然打ち破った
小さな小さな、英雄。
誰もが踊り明かして祝った。もう部屋に閉じこもっている必要はない。明るい日差しの下で、誰にも気兼ねすることなく伸び伸びと生きていける。小さな英雄、ハリー・ポッターの名を、この先もきっと人々は忘れないだろう。
けれども、本当に終わったのだろうか。この子
あのふたりが遺した幼い命を胸に抱きながら、思う。本当は、誰の中にも目には見えない闇があって。それがいつひょっこりと顔を出すかと、怯えながら生きているのではないかと。
なあ、。
願わくは、君だけは心穏やかに、健やかに育ってくれんことを。
LETTER FOR HIM
クリスマス・レター
「ねえ、リーマス!みてみて、おばさん今年はプライドオブポートレーのユニフォームくれたの、ほらー!」
「ほんとだ。いいなぁ、」
「リーマスにもプレゼントあるよ。はい、ソケールさんのところで分けてもらったの。スノードロップ!これリーマスにあげるね」
「ありがとう、」
クリスマスは、一年のうちで誕生日の次に大好き。プレゼントがもらえるから、クリスマスケーキが食べられるから。それもあるけど、だけどそれ以上に、クリスマスに鳴り響くあの教会の鐘の音が、好き。丘の下に広がるマグルの町は白一色に包まれ、人々は神様の誕生日を祝って誰もが海辺のあの白い教会に赴く。
彼女はいわゆる『キリスト教徒』ではなかったが、この日だけは父親を伴ってあの荘厳なミサに参加するのが習慣になっていた。
「リーマスはなにお祈りした?」
「うん?それは秘密」
今年もきらきら光る教会の中で、心の奥に直接触れるような美しい歌を聞いて。もっと小さい頃は、あの空間そのものが魔法でできているのだと信じて疑わなかった。マグルにも魔法が使えるんだ!
「えー、なんで、なんで!ずるい、教えてくれたっていいじゃない」
「だって言いたくないんだもーん。それじゃあは何をお祈りしたんだい?」
「べー。リーマスが意地悪だから教えてあげない」
「だって意地悪じゃないか。舌まで出すことないだろう」
「だってリーマスが意地悪なんだもん」
また、べーと舌を突き出しても。傷だらけのその大きな手を、放すことはない。
父の手をしっかりと握って、丘の上へと続く小道を長靴で踏みしめながらのぼっていった。振り返れば、一面の海。霞んで、やがては空と交じり合う。その境界は、曖昧にぼやけて。
本当はね、リーマス。
早くホグワーツに行って、たくさん友達ができますようにって。
うちのパパは、変わってる。朝起きても、顔を洗わない。
洗わないわけじゃない。きちんと洗うのだ、家を出る前には。でも起きてすぐは絶対に洗わない。それで眠い眠いとこぼすのだ。だったらさっさと顔洗えばいいのに、と言っても、いや顔は一番最後に洗うものだと言い張る。そのこだわりが分からない。もちろんあたしは起き抜けにしっかりと洗う。
うちのパパは、変わってる。その体質上、なかなか定職を得られないのは仕方がない。狼人間は昔から迫害され、種の平等が叫ばれる今の時代でも差別を受けることは間々ある(いっぱい本を読んで勉強した)。体質を隠して就職しても、月に一度必ず仕事を空けねばならない状況では秘密が知れるのも時間の問題だった。
それほど切り詰めねばならない生活の中で、卵だけはやたらとこだわるのだ。少し足を伸ばしてでも隣町の隣のちょっと割高な個人商店に行ってそこの生み立て卵を買ってくる。美味しい、確かに美味しいのだけれど、そこまでしなくても卵なんてそんなに変わらないだろうと思う。けれどもうちのパパは、健康な卵は健康な子供を育てると思い込んでいるらしい。確かにあたしは健康だ。でも……卵でしょう?
うちのパパは、変わってる。小さい頃はパパと呼んでも何事もなかったのだが、いつからかパパと呼ぶと妙な顔をするようになった。ああ、パパはお前のパパだがパパと呼ばれるとむず痒い。パパ、パパパパ……うん、やっぱりそうだ。パパ、なんだか語呂まで悪い。よし、こうしよう。パパの名前は『リーマス』だ。これからはリーマスと呼びなさい。
はい?
『パパ』のどこが語呂が悪いというのか。『リーマス』ならばいいのか。うん、まあ、悪くはないんだけど。
下の町には顔を合わせれば遊び回る程度のマグルの友達が何人かいたが、パパをパパと呼ばないのはあたしくらいだった。ねえ、パパってパパって呼ばれるの恥ずかしいのかな?そんなものなのかな?そんなことないんじゃない、だってパパなんだもん。それもそうか。うん、やっぱりうちのパパは変わってる。
「どうしたんだ、ぼーっとして」
「え?ううん……リーマスって変わってるなーって思って」
「なんだい、藪から棒に。外に出てごらん、私なんて比にならないほど世の中にはいろんな人がいるよ」
「リーマスみたいに変な人いっぱい?」
「……私は比較的常識人だよ」
「自分で言ってるのが嘘くさい」
「そんなことはないよ。エメリーンおばさんを見てごらん、彼女の眼鏡の趣味はここのところどんどん……その、個性的になってるだろう。私は間違ってもあんな眼鏡はかけられないよ」
「だってリーマス眼鏡なんてしないじゃない」
「あれは伊達だよ、。彼女は眼鏡なんかなくても百ヤード先の人の目の色を言い当てられる」
「えー!そうなの?すごい、すごいあたしももっと遠くまで見られる練習する!それでおばさんみたいな眼鏡かけてみたい!」
「やめなさい、頼むから」
エメリーンおばさんはリーマスの友達。満月の晩とか、リーマスが仕事で帰れない夜とかはあたしの様子を見にきてくれる。おばさんも仕事は持ってるけど、比較的融通の利く仕事なんだって。おばさんがママだったらいいな、と思ったこともある。けれどもそれをリーマスに話したら、彼女は家庭持ちだよとあっさりと却下された。
あたしにはあたしのママがいるのは、知ってる。年に数回はお墓参りにも行く。・ブラック。あたしのママの名前。リーマスと籍は入れなかったみたいで、あたしの苗字でもある『ルーピン』は名乗らなかったんだって。
一枚だけ、リーマスがママの写真を見せてくれた。ホグワーツにいた頃の。ふたりとも監督生で、監督生会議かなにかのときに、みんなで撮った集合写真。
「……何これ。他にないの?もっと、ほら二人で撮った写真とか、一緒に暮らしてたときのとか」
「あいにく彼女は写真が嫌いでね。私もそこまでこだわっていなかったから」
「えーなにそれ!だってこれじゃあリーマスとママが付き合ってたかどうかも分かんないよ。ねえ、この頃からもう恋人だった?」
「……さあ、どうだったかな。多分まだじゃないかな、はい、おしまい」
「多分!多分ってなによ、男の人ってそういうことも覚えてないの?」
「はい、おしまいおしまい。もっと大きくなればお前にも分かるようになるよ」
なにが?恋人と写真なんてあんまり撮らないってことが?それとも男の人がそういうことにこだわらないってことが?ママのことになると、すぐにそうやって流そうとするんだから!
あたしはリーマスに渡されたその写真をじっと食い入るように見つめた。ホグワーツには四つの寮がある。リーマスは勇気のグリフィンドール、ママは英知のレイブンクロー。写真には総勢二十人以上の監督生が映っていて、厳密にではないが、大体は寮ごとに固まっていた。もちろんリーマスとママも離れたところに立っているので、二人がどんな関係だったかはこの写真を見る限り判然としない。リーマスはむしろ、その隣に立つ赤い髪の女子生徒と親しそうに見えた。
「リーマス、この人、友達?」
問いかけると、広げた新聞をぼんやり見ていたリーマスはあたしが指差した箇所をめんどくさそうに覗き込んだ。そして、ああ、と声をあげる。
「同じ年に監督生になったグリフィンドールの同期生だよ」
「ふーん。なんか仲良さそうだね、ひょっとして付き合ってたの?」
「まさか。彼女は他の同級生と結婚したよ。ホグワーツに行けばお前も分かると思うが、寮はひとつの家族のようなものだ。その中で親しくなっただけだよ」
「ふうん……この人、今なにしてる人?」
そのとき、後ろでコツコツというガラスを叩くような音がしてあたしは振り返った。見やると窓の外で、脚に手紙を括りつけたふくろうがぱたぱたと羽ばたいて猛アピールしている。リーマスが立ち上がるよりも先にあたしは椅子から飛び降りて、急いでその窓を開けてやった。
「ありがとう、見たことないね、君。どっから来たのかな」
こちらの肩におりて人懐っこそうに擦り寄ってくるふくろうの脚から手紙を取り外して、裏返す。そこに書かれてあった差出人の名前を見てあたしは飛び上がった。
「ねえ、ねーねーリーマス!ホグワーツの校長先生からだよ!あたしじゃなくて、リーマスに!」
そうだ、時期的に言っておかしい。来年の今頃はよっぽどのことがなければあたしはめでたくホグワーツだが、入学許可書が届くまでにはまだ半年以上も早すぎた。けれども確かに、ホグワーツからの手紙。しかも
リーマス宛に。
リーマスもまったく思い当たる節がないようで、何度か不思議そうに瞬きしてからその手紙を読み始めた。訝しげなリーマスの顔付きが、次第に困惑したものへと変わっていく。
「なに、なになに?ダンブルドアがなんて?」
アルバス・ダンブルドア。歴代校長の中でも最も偉大で、最も型破りといわれる魔法使い。その程度の知識なら、今のあたしにもあった。
リーマスが呆然と口をひらくまでには、まだしばらく時間がかかった。