が、死んだ。
青ざめた彼女の死に顔は
文字通り、一つの大きな役目を果たした達成感と安堵に、満ちていた。
the Fates
そして、うごきだす
「私……今でも、分からないの」
安定期にはいり、比較的落ち着いていた頃。背もたれに身体を起こしたは、ぼんやりと窓の外を見つめながら、そんなことをつぶやいた。
「あの人がどうして……あんなことを、したのか」
「……エメリーンが花を贈ってくれたんだ。彼女も仕事が忙しくてね、見舞いに行けなくて申し訳ないと」
「リーマス、聞いて」
はっきりと、相手に聞かせる目的でが声を発する。空っぽの花瓶を置きなおす振りをしていたリーマスは、観念してゆっくりと振り向いた。
「あの人……ジェームズたちの身に危険が迫ってるって知ったとき、困惑してた。自分が秘密の守り人になるから、だから私に別れてくれとまで……それを、」
「」
聞き分けのない子供にでも言って聞かせるように。辛抱強く、声をかける。
「お母さんが心配してる。あいつのことは、忘れるんだ。何があったとしても奴がジェームズたちを
君を、裏切ったことには変わりない」
涙に潤んだ瞳を大きく開き
やがてそれを、簾でも下ろしたように伏せながら、。
「……そうね。ごめんなさい」
「いや……君が謝るようなことじゃ、ない」
どこか後ろ暗いものを感じながら、彼は洗濯を終えたタオルを引き出しの中に仕舞った。まさか妻でもない女性の下着に触れるわけにはいかないので、そうした類はすべてに任せきっていたが。
「……でも、ね」
不意に届いたの囁きを、振り返りはせずに、捉える。
「もしも……って、思うのよ。もしもあのとき、私のお腹の中にこの子がいるって知ってたら
あの人はもしかして、戻ってきてくれたんじゃないかって」
「
」
「分かってるのよ?そんなこと言ったって仕方ない……もしもなんて、何の役にも立たないって。だってあの人はもう、ここにはいないんだもの」
たまらなくなって、リーマスは彼女のベッドへと歩み寄った。その縁に両手をついて、震える瞼を下ろす。
「……頼むから、あいつのことは忘れてくれないか。お腹の子はあいつのことを知らない。その子は、未来に向かって生きてるんだ。君がいつまでも、つらい過去ばかりにしがみついていたら」
「……リーマス」
無意識に伸びた手が、彼女の左手を掴んで引き寄せた。薬指に小さなクリスタルを嵌め込んだシルバーリングを戴いた、その左手を。
「僕が支えるから。僕にできることなんて限られてるかもしれないけど
僕が君たちのこと……支えるから」
彼女の答えを聞くのが怖かった。きつく目を閉じて、口を閉ざす。
「……ありがとう、リーマス」
そっと囁いた彼女の声を聞いて、リーマスは目を開いたが。彼女の言葉を聞くまでもなく、その瞳を見返すまでもなく。
分かりきっていたのだ
彼女の、答えなどは。
僕は彼女を、愛していたのだろうか。
思い返したところで、答えが出てくるわけでもない。誰が答えを導き出してくれるわけでもない。そもそも、愛とは何だ?あいつに噛まれてからというもの、頑なに拒み続けてきた『愛』とは。
学生時代、何度か女の子から告白されたことはあった。その度に、どうしようもなく歯痒さを感じたものだ。僕は彼女の想いに応えることができる
こんな身体でさえなければ。その手を取って、抱き合って。いずれは家族というものを持てたのかもしれない。彼らと同じように。僕にもそうするだけの権利は、あったはずだった。
何を言ったところで仕方がない。彼女の言う通り。もしも、だなんて、この世の何の実益にもなりはしない。僕はあの夜から、確かに誰もが恐れ、蔑む獣に成り下がった。ほんの例外は、あったとしても。
その『例外』すらも
腹の底では、一体何を考えていたのか。今となっては、もう分からない。誰の口からも。何を聞くこともできない。
その僕が。支えるだなどという大それたことを、知らず知らずのうちに口に出してしまっていたのだ。僕が君を、君たちを。支えていくからと。
ふざけたことを言ったものだと思う。唯一の救いは、彼女がそれを救いとしなかったことだ。彼女の答えは分かり切っている。ただ黙って、微笑んでみせただけ。
思い出せるのは
あのとき彼女の母親が見せた、自嘲的な眼差し。
激しい陣痛を訴えたは、近くの産婦人科へと担ぎ込まれた。はちょうどロンドンに必要なものを取りに戻っており、たまたま見舞いに来ていたエメリーンと二人で付き添う。分娩室の前で祈るように手を組み合わせながら、リーマスは扉の向こうから聞こえてくる苦悶の叫びにきつく瞼を閉じた。季節は、初夏。窓から差し込む陽光が、落ち着きなく立ち上がったエメリーンの影を、長く、長く回廊の先へと伸ばす。
刹那、分娩室のドアが開いて緊迫した面持ちの助産婦が姿を見せた。
「旦那さん、ですか?」
「え?」
困惑して、返答が遅れる。そうしている間にも、彼女はてきぱきとした動きで自分の出てきた扉を示し、声を潜めて、続ける。
「母子共に……危険な状態です。どうか、立会いを。励ましてあげてください」
「いや、でも、僕は……」
「リーマス」
はっきりと強い眼差しでこちらを見やり、エメリーンが言ってくる。
「行ってあげなさい。このときほど不安になるものはないのよ、女っていうのは」
「………」
「さあ、こちらへ」
促され、ようやく彼は分娩室へと足を踏み入れた。まさか自分がこんなところへ立ち入ろうとは夢にも思っていなかったが。
下半身に大きめのタオルのようなものを被せられたは、青ざめた額に大粒の汗をいくつも浮かべながら分娩台の手摺りを握り締めていた。
「ブラックさん、旦那さんが来てくださいましたよ」
「
僕だよ、分かる?リーマスだ」
うっすらと瞼を開いたは、縋るようにして震える右手を伸ばしてきた。痩せこけた、皮のような指。それを握り返し、台の傍らに腰を屈めると、彼女は一筋の涙をこぼしながら別の名を口にした。
「……シリウス」
ふいに、心臓を抉られるような衝撃に叩きのめされるが
当たり前だ。自分に言い聞かせるようにその名を何度か繰り返しながら、彼は両手で彼女の手のひらを握り締めた。彼女の足元で忙しなく動く助産婦たちをちらちらと盗み見て、
「……
俺だよ、シリウスだ」
「シリウス……」
途端、彼女の握力がまるで別人かなにかのように強まった。そのことに意表を突かれながらも、涙混じりにうなずいて、告げる。
「……ごめんな、。傍にいてやれなくて……ごめん」
「……シリウス、シリウス……シリウス」
彼女は夢うつつのような眼差しで、ただひたすらにその名だけを呼び続けた。頭が出たという助産婦の声で、短い呼吸法へと移っていく。はいつまでも、目の前の男が自分を裏切った最愛の男だと信じていた。
「ずっと……寂しかったんだよ。ずっと一緒にいるって約束したのに……あなたはひとりで、いなくなった」
「……ごめん。ごめんな、」
「あなたが何をしたっていい。どれだけひどいことしたって……それなら、私も一緒に背負うから。二人で、背負っていこう。だから……だから、ずっと一緒にいて。私と、この子と……置いていかないで」
「……ああ。約束するよ、。心細い思いさせて、ごめんな……」
刹那、分娩室を甲高い産声が満たした。生まれましたよ、という助産婦の歓声と、薄く目を開いた彼女の、どこか穏やかな表情。
その頃にはすでに、あの男を演じることなど頭の中から消え去っていた。
「……よく、頑張ったね。女の子だよ
可愛い、女の子だよ」
彼女はそっと、左手を伸ばした。丁寧に拭き取った赤ん坊をタオルにくるみ、助産婦の一人が彼女のもとへと連れてくる。その姿を、心底嬉しそうに見つめたは、我が子に触れようとさらにその手を上げて。
そのままぱたりと、力なく腕を落とした。
あまりに突然のことに、ぎょっとして目を見開く。ただ赤ん坊の元気な泣き声だけが響く分娩室の中、安堵の笑みを見せた助産婦たちも一斉にその表情を強張らせた。そのうちの誰かが、大慌てで部屋を飛び出していく。
「先生!先生
」
「ブラックさん!ブラックさん
」
足元から飛んできた助産婦が、素早い手付きでの脈を取る。すっかり混乱したリーマスは、だが邪魔にならないよう脇に寄ろうとして、そんな彼女の右手を離してしまった。
もしもあのとき、あの手を離さなければ。今でも彼女を、繋ぎとめることができたのだろうか。
僕は今、彼女の墓前に立っている。十字を戴いた、彼女の眠る場所。
そっと、手を伸ばしかけ
思いなおして、やめる。彼女の墓石に触れるには、後ろ暗い思いがあった。
小さく息をつき、ふと、視線を上げる。
「リーマス!待ってったら!」
何列にも連なった墓石の間を潜り抜けるようにして、その身体には大きすぎるほどの花束を抱えた五、六歳ほどの少女がばたばたと駆け寄ってくる。彼女は不貞腐れたように頬を膨らませ、ぶつぶつと墓石に話しかけた。
「ねえ、ママ、リーマスったらひどいんだよ。か弱い女の子にこんなにおっきなの持たせて、自分はかるーいチョコレートだけなんて」
「自分が花の方がいいって言ったんだろう?自分の言葉には責任を持ちなさい」
「そんなこと言ったってさ、おばさんがこんなおっきなお花持ってくるなんて思ってなかったんだもん」
困ったように笑いながら、リーマスは屈んで少女の手から色とりどりの花束を受け取った。
「確かに、今日はずいぶん大きなのを用意してくれたんだな」
「そう。おばちゃんと、あとおばちゃんの友達の分もだって。なんだっけ……ええと、名前、忘れちゃった」
「へえ、そうか。また今度、聞いておくよ。それじゃあ、ママにお祈りしようか」
花束と、そして彼女の好きだったチョコレートの包みを墓石の前に揃えて置いてから。少女と並んで、静かに手を合わせる。
「よし、それじゃあ買い物でもしてから帰ろうか」
「ほんと?あのね、この前食べたパンがすごく美味しかったから、また!」
「この前のパン……ああ、マダム・ライアンの」
言うが早いかひとりで飛ぶように駆け出した少女に、彼は頭を掻きながら慌てて声をかけた。
「、あんまり急ぐと危ないぞ」
「へーきへーき!リーマスも早くー!」
まったく。ころころと機嫌を変えて。口元に苦笑を浮かべつつ足を踏み出したリーマスは、ほんの少しだけ振り向いて、つぶやいた。
「
また来るよ、」