つい先日まで健康的だった成人女性が、ある日を境にこうまでも壊れきってしまうものなのだろうか。僕がこうならないのは何故だ?一度に親友を    親友だと思っていた友人を四人も失い、絶望の淵に追いやられたはずなのに。
涙ひとつこぼれ落ちないのは、一体どうして?

が往診を頼んだロンドンの癒師が診察を終えて部屋から出てきたとき、廊下に出した椅子に浅く腰掛けて項垂れていたは跳ねるように起きてその癒師に詰め寄った。

「先生!どうなんですか、あの子の状態は    
「マダム、落ち着いて」

彼はの両腕を掴んでそっと外し、窺うようにしてちらりとこちらを見やった。

「……そちらは?」
「ああ……気にしなくていい。あの子の……ちょっとした、知り合いですよ。それより、あの子は……」
「そのことですが」

癒師は神妙な面持ちでそう切り出して、やはりこちらをちらちらと気にしながら、

「マダム、少しこちらへ」

張り詰めた様子のを促して、その抑えつけた声音がこちらに届かないところまで移動していった。

It's always darkest before the dawn

夜明け前がもっとも暗い

    下ろしなさい」

彼女のその言葉には。有無を言わせぬ、母親の強さがあった。
いや、むしろ    それは上から押さえつける、圧制者の姿か。

ノックしようにもそこに無遠慮に立ち入ることはできず、リーマスは夕食の盆を持ったまま、ただ扉の前に立ち尽くしていた。
返事はない。眠っているのか、それとも。

    いや」

聞こえた。ひっそりと、だが確かに。はっきりと、彼女の声が。はしばし黙していたが、やがて扉越しでも分かるほどに大きくため息をついた。うめく。

「……。よく、聞きなさい。あなたは……自分の身体さえ、持て余すような状態なのよ。そんな身体で、子供が産めると思ってるの?このままじゃ    あなた自身も、衰弱しきってしまう。あなたのためにも、子供のためにもならない」
「だから殺せっていうの?やっと    やっと、私の身体に、授かった命なのに」

反発する彼女の声には、これまで聞いたことのない緊迫した音が滲んでいた。思わず息を呑み、僅かに後ずさる。これが……子を持った女の強さか。これが。

「……。このままじゃ    あなたまで死ぬかもしれないのよ?あんな男のことは忘れて、何もかも棄てて、やり直すのよ。闇の時代は終わったわ。これから、あなたにはいくらでも新しい可能性がある」
「だから下ろせって?この子には、何の罪もないのに。この子は今、確かに私の中にいるのに!」

叫んだの声が。激しく鼓膜を打ちつけて、弾ける。勢いをそのままに、彼女は続けた。

「ママには分からないわ    一度もお腹を痛めたことのないママには、私の気持ちなんて分からない!」

リーマスは、自分の盆を掴む手が震えるのを感じた。彼女の悲痛に満ちた叫びに反響するように。
やがて彼女は、一転して今にも消え入りそうな声音で、呟いた。

「……ごめん、なさい」
「……いえ。そうね。あなたの、言う通りだわ」

が、凪のように静かに囁く。そして椅子の脚が床を擦る音がして、彼女はさらに言葉を続けた。

「だけど……今のあなたが、子供を産めるほど健康的な状態じゃないということは、覚えておいて。私はなにも、あなたが憎くて言っているわけじゃないのよ」
「……分かってる」
「自分のことを、もっと大事にしてちょうだい」

そして。
咄嗟に目の前のドアが開き、意表を突かれてリーマスはぎょっと目を見開いた。部屋から出てきたは胡散臭そうにこちらを一瞥し、さっさとその場を離れる。どぎまぎとその後ろ姿を見送ってから、リーマスはそっと部屋の中に入った。布団の中で横たわったまま、瞼を半分ほど開いたの瞳と、視線が交錯する。ごまかすように、彼は曖昧に微笑んだ。

「食事……持ってきたよ」
「……ありがとう。ごめんなさい、こんなことまで、してもらって」
「いいんだよ。どのみち騎士団の任務がなくなって、暇を持て余してたんだから」

言ってしまってから、はっとして口を噤むが、彼女はさほど表情に変化を見せなかった。ただぼんやりと天井を見上げ、静かに呼吸を繰り返す。

「さっきの……聞いてた?」
「え?な、何のことやら」
「ふふ。隠さなくたって、いいのよ」

微かに笑って、彼女の眼球がゆっくりとこちらを向いた。この一月で、まるで別人のように痩せ細った彼女。その笑顔さえ、どこか暗い影を落として翳りゆく。それを見ているだけで、胸を締め付けられるようだった。が。あの日、眩しく微笑んでみせた、彼女が。

「私……どうしていいか、分からない」
「……
「あの人……最後の最後まで、私に嘘をつきとおした?守り人になって、私と一緒に外国に行くんだって言ったのに。まずはフランスに渡って……巨人と交渉を続けてる魔法使いと、会うんだって」
「………」
「全部、演技だったのかな。『あの人』に、与するための。ジェームズとリリーと売って……それならどうして、私を生かしたんだろう。こんなめんどくさい女、さっさと始末すればよかった……」
、何を言ってるんだ    
「だってそうでしょう?ジェームズとリリーを……ピーターを、殺したんだよ。何で私を殺さなかったんだろう。それとも、私なんか殺す価値もないって思ってたのかな……」
、もういい、やめるんだ」

厳しい口調で言いやって、リーマスは彼女の左手を握り締めた。初めて触れた彼女の手は、力なく垂れ下がるばかりだった。振り切るようにかぶりを振って、

「でも……でもね」

彼女はそっと瞼を閉じ、空いた右手で愛おしそうに布団の上から自分の腹部を撫でた。新しい命の宿るという、その子宮。    シリウス、との。

「この子は、絶対に産む。私が育てる。父親がいなくても……この子はもう、この世に生まれてきたんだから。私の……子なんだから。この子がいれば、私は生きていける」
「………」

何を言えばいいのか。僕には皆目、見当もつかなかった。気の利いた言葉。そんなものは。
傍のテーブルに置いた盆を見て、水を忘れてきたことに気付く。はっとして、それを取りに戻ろうとベッド脇の椅子から立ち上がると    

「やめて    行かないで」

咄嗟に腕を掴まれ、戸惑う。彼女は弱い力ながらも懸命に彼の袖を掴んで、放さない。その眼は必死に訴えかけるものをもって、真っ直ぐにこちらを見上げていた。

「……
「お願い……行かないで。ここにいて。お願い」

の黒い瞳が、涙に揺らいで瞬く。だが彼女は、決してそれをこぼしはしなかった。
身体ごと振り向き、そっと彼女の手を握る。

「行かないよ    どこにも」
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(08.02.05)