最後にもう一つだけ、済ませなければならないことがあるんだ。
そう言って、シリウスは再び『空飛ぶオートバイ』に跨って無数の星が瞬く夜空へと消えた。ノースウェストを離れる前に、もう一度お前の手料理が食べたい。そう、言い残して。
この日を目処に冷蔵庫はほとんど空にしてあったが、最後の料理を作るため、昼間に材料は用意しておいた。シリウスの好きな、コロッケ。次はいつ作ってあげられるか、分からない。
けれどもその晩、できあがったコロッケがすっかり冷えて、湿気を吸ってしまっても。
彼は、帰ってこなかった。
after the Stormy Night
嵐のあとに
『例のあの人』と呼ばれた闇の魔法使い、ヴォルデモート卿が忽然と姿を消してから、一週間が経った。ふと、傍らのカレンダーを見上げ、無音の息を吐く。十一月七日。昨日までの日を、空虚な×印でひとつずつ消し去ってきた。それはきっと、この先もずっと。
できあがったオートミールを盆に載せ、一杯の水を添えて彼女の寝室へと向かう。この一週間ですっかり慣れた途をたどり、行き着いた先のドアを彼は片手で静かにノックした。
「……失礼します」
返事はない。もとより期待していたわけでもない。彼はやはり音を立てずに扉を押し開き、中の光景がまったく変わっていないことに気付いて少しだけ落胆した。二つ並んだベッドのこちら側で寝息を立てる女性と、その傍らでスツールに腰掛け、項垂れるようにして頭を抱えた初老の魔女と。
「……彼女に、食事を」
「
あ……ああ、ありがとう。そこに置いておいてくれない?目が覚めたら食べさせるから」
「……あなたも少し、食べないと。昨日も結局、ほとんど食べていないじゃないですか」
眠っている彼女を起こさないように。だがきつく言い聞かせるつもりで告げると、物憂げに振り向いたブロンドの魔女は鬱屈に眉をひそめてみせた。
「この子がこんなにも苦しんでるっていうのに、私だけがのうのうと食事しろとでも?」
「
だからじゃないですか。あなたがしっかりしていないと、彼女は……は」
だがその先を続けることはできず、彼は唇をきつく引き結び、運んできた盆を隅の机に置いた。部屋を立ち去る直前にちらりと見えた魔女の姿は、二人が微塵も血の繋がりを持たない親子であることをはっきりと示していた。
けれども。それでも。
彼女たちは紛れもない、家族には違いない。きっと。
ジェームズとリリーが、死んだ。
騎士団に身を置くようになってからはずっと、常に『死』と隣り合わせだった。何人もの仲間が死んだ。重々しい空気を打ち壊し、いつも明るく振る舞ってみせるドーカスが殺されたとき、誰もがその死を嘆き悲しみ、己のことのように戦慄したはずだ。次は、誰だ。次に振り向いたそのとき、自分はまだこの世に生きていられるのだろうか。
だが、それ以上にきっと。僕は世界が暗転するのを見たようにすら思った。
ジェームズとリリーが、死んだ。
なぜだ。どうして。そんなことが、あってたまるか。
君が守り人だったんだろう、シリウス!
ヴォルデモートに執拗に狙われていたジェームズたちは、一時的にその身を隠すことを決めた。より確実な、そして絶対の方法。忠誠の魔法。秘密の守り人、シリウス・ブラック。知っていた。僕はそれを、知っていたんだ。旅立つ少し前、彼女が訪ねてきてくれた。しばらくイギリスを離れて外国での任務に当たる、次に会えるのはいつなのか。分からない。分からないけれど
必ずここに、戻ってくると。
彼女のことは、卒業するまでよく知らなかった。監督生会議でいつも一緒になるため、その繊細な優しさと、時折見せる眩い笑顔を記憶しているほどだった。話をしたこともあまりない。だから、彼女とシリウスが結ばれたことを知ったとき、どれほど驚いたことか。七年生に上がってから、シリウスが彼女を強く想うようになったことは知っていた。けれども彼女は、入学式の日に『最悪の出逢い』を果たしてからというもの、彼のことを激しく嫌っているものとばかり思っていた。
だが、よくよく考えてみれば、ジェームズとリリーも似たようなものだったか。強く惹かれ合うからこそ、激しく反発し合う。そうしたものなのかもしれない。僕には一生、分かるはずもないが。
そのシリウスが。彼女とスコットランドに移り住み、騎士団の仕事に従事しながらも穏やかな暮らしを享受していたはずの彼らが。秘密の守り人を引き受け、共に旅立つことを決めたはずだったのに。
知らせを聞いた僕は、真っ先にゴドリックの谷に駆けつけた。倒壊した家屋。静まり返った村。
力を失った身体でようやく次に向かったのは、一年ほど前まで何度か足を運んだことのある、ノースウェストの町だった。
!
彼女は先ほどと同じように、死んだように眠っていた。そしてその脇には、まったく同じ姿勢で彼女の養母が。ダンブルドアからシリウスのことを聞かされた彼女は、真っ先にここに飛んできて、娘をロンドンの実家に連れ帰ろうとしたらしい。だが彼女は狂ったように泣きじゃくり、ベッドにかじりついて梃子でも動かなかったという。そしてようやく、間に合わせで母親が調合した薬を飲んで眠ったところだった。
二人の結婚式でも顔を合わせた、彼女の養母
は、そっと娘の寝室を出、押し殺した声で囁いた。
「
殺してやる」
「……え?」
「シリウス・ブラック。奴がアズカバンに送られようがどうしようが、そんなことは関係ない。殺してやる……あの子にこんな思いをさせたあいつを、私が必ずこの手で」
「………」
何を言えばいいか、分からなかった。『まさか。待ってください。なにかの間違いです。あいつはそんなやつじゃない。』そんな台詞は、間違っても口からは出てこなかった。そうか?本当にそうなのか?現にジェームズとリリーは死に、奴はピーターまでも殺したじゃないか。
愛するを棄てて、闇の世界に堕ちてしまったんじゃないか。
それとも、同意すればよかったのか?『ああ、僕も是非ともそうしたい。奴を殺すのはあなたじゃない、僕だ。僕がこの手で始末をつけなければならないんだ。』
分からない。わからない。何を言えばいい。僕は。僕はどうしたい?僕は一体、どうすればいい?
「とにかくあの子は、何があってもロンドンに連れて帰る。いつまでもこんなところにいたら……忘れられるものまで、忘れられなくなるからね」
吐き捨てるようにそう言った彼女に、ようやく言葉を見つけた彼はどこか後ろめたい思いで半分ほど瞼を伏せた。
「それは……難しいと、思いますよ」
ぴくりと眉を上下させ、彼女が不可解そうに顔をしかめる。彼は小さく肩を竦め
だが決して茶化すようなそれではなく、告げた。
「彼女はここを離れないし、もし仮にあなたのところに戻ったとしても
彼のことは、ずっと忘れない。そんな気が……するんです」