「本当に、行ってしまうんだね」
「……ごめんなさい。ずいぶんお世話になったのに、挨拶がこんなにも遅れてしまって」
「いや。僕は何も、していない。それより……くれぐれも、気を付けて」
「ありがとう。リーマス……あなたも」
彼は風が吹けば今にも消えてしまいそうな儚い笑顔で、軽く右手を挙げ。
数歩足を進めた彼女がふと振り向いたときには、見送ったはずの彼の姿はすでに見えるところにはなかった。
THE ROAD TO RUIN
さ よ な ら
「リーマスに、会った?」
身の回りの整理と称して外出していたシリウスは、帰宅するや否や彼女の話を聞いて眉をひそめた。それがあまりにも露骨なものだったので、は我知らず反発の声をあげていた。
「どうしてそんな顔するの?いいじゃない、ひょっとして……しばらくは、戻ってこられないかもしれないんだから」
「……だからって、何であいつなんだよ。何で一言俺に言わなかった」
「何でそんなことまで言わなきゃいけないの?あなたの言うように、騎士団員じゃない友達には会わなかったわ。しばらくここを離れるってことも言ってない。それなのに、何で団員のリーマスにお別れを言いに行くってことまであなたに
」
「あのな……よく、考えろ」
強い口調で遮られ、は息を呑んだ。振り向いた彼の眼が鋭く細められ、低い温度で燃え上がっている。責められる理由を思いつけずに立ち尽くす彼女に、シリウスは嘆息混じりに言った。
「……言っただろう。こちら側に、あいつらの情報を流してるやつがいるって」
「ま、まさかそれが、リーマスだっていうの?」
「あいつらの居場所を知らされていたのは、ごくごく身近な人間だけだ」
「そんなこと!どこかから漏れたのよ
だって、彼がそんなことをする理由なんて」
「俺だって疑いたくなんてない!それでも……他に、考えられないんだ。他に……」
消え入りそうな声で、呟いて。沸き上がった憤りを掻き消すように、彼はの背をきつく抱き寄せた。震える声で、言ってくる。
「……悪い。でも
信じられなくなってるんだ。何も……どこから、何が襲いかかってくるか。今度は何が、降ってくるのか」
「……シリウス」
その戦慄を、しっかりと身体で受け止めて。彼女はシリウスの頭を、そっと優しく撫でた。
「ううん……私も、ごめんなさい。心配させて」
ゆっくりと顔を上げた相手の眼に、笑いかける。
そしてその頬を、伸ばした右手で空気にでも触れるようになぞった。
「私はあなたを、信じてるからね」
涙に濡れた、その瞳を瞬かせ。
もう一度、強く強く、シリウスは彼女の痩躯を全身で抱き締めた。
秘密の守り人の話を、ポッター夫妻は激しく拒絶しようとした。その提案は予言の話を聞いたシリウス自身がひとりで思いついたもので、彼は何があっても秘密は守り抜くと言い張ったが、ジェームズは決して首を縦に振ろうとはしなかった。それで僕らが護られるとして、君たちはどうなるんだ。忠誠の魔法が使われたと知れたら、奴らはすぐに君たちを血眼で探し出そうとするだろう。僕らの間柄なんて、誰だって知ってる。守り人が特定されるのは時間の問題だ。よく考えろ、シリウス。これはお前ひとりの問題じゃない。お前はを護りきれるのか。
ジェームズ、と声をあげたのはだった。五度目の引っ越しを終えた彼らの仮の住まいにて。
「そのことは、私たち二人で十分に話し合った。決めたの。お願い、私たちを信じて」
「信じてるさ。でもそういう問題じゃない!君は知らないんだ……奴の恐ろしさを。奴は人の命なんてなんとも思ってない。君たちを危険に晒すわけにはいかないんだ」
「それじゃあこのまま延々と逃げ続けるの?どこから情報が流れてるかもはっきりしないこの状況で、そんなことに意味がある?」
早口に捲くし立て、彼女はジェームズが切り返すよりも先にそのあとを続けた。
「そんなの、あの子……ハリーのためにも、良くないわ。子供ってきっと、一所で落ち着いた暮らしをさせてあげることが大事なのよ。だから……あなたたちがいつまでも住居を転々としてるより、少しでも身軽な私たちが動いた方がいいでしょ?」
意図したわけではないにせよ、その言葉に含まれたものを感じ取ったジェームズは何も言えずに口を噤んだ。は静かに微笑んで、告げる。
「それに、私、旅って昔から好きなの。知ってるでしょう?」
「……」
「それから逃げ足だって自信あるんだから。きっとあなたたちにも負けないくらい」
は向かいのジェームズと、傍らに座るシリウスとを見て、含み笑いをしてみせた。シリウスは一瞬だけ泣きそうな顔をしてから、なんとか情けない笑顔を作った。
「あなたたちのことは、シリウスが護る。シリウスのことは、私が護ってみせるわ」
が発したその言葉を受け、シリウスは首を捻って驚いたように彼女を見た。それには気付かない振りをして、彼女は正面に座るポッター夫妻を見据える。
ジェームズは厳しい顔をして唇を引き結び、リリーの大きな瞳からは、溢れ出た涙が頬を伝って一筋だけこぼれ落ちた。
別れは、淡々と。いつの日かまた、出逢えることを信じて。
「……平和な世界で、また会いましょう」
抱き合った肩口から、涙にかすれたリリーの声がした。リリー。リリー・ポッター。エバンス。監督生会議で顔を合わせると、いつも楽しい冗談を言っては周囲を和ませていた可愛らしい女の子。今ではすっかり大人になって、一児のママに。父親は、あの、ジェームズ。ジェームズ・ポッター。
二人がうまくいくことを、願っていた。けれども誰が見てもそれは、甚だ絶望的であることは明々白々だったはずだ。それでもは、二人の進展を願った。彼があまりにも、一途な思いを抱き続けていたから。
「」
リリーから離れると、待ち侘びていたように両腕を広げたジェームズがこちらに近づいてきた。素直にそれを受け止め、彼の大きな背中を抱き返す。シリウスのものとはまた違う男らしさが、確かにそこにはあった。
「ありがとう、……本当に、すまない」
「やめて。謝らないで。これでやっと、借りが返せるかな」
悪戯っぽく微笑んで、彼女はジェームズの肩から僅かに顔を上げた。彼はあの頃のように茶化すでもなく、ただただ真っ直ぐにこちらを見下ろしている。
「ありがとう、ジェームズ。あなたに出逢えて
本当に、良かった」
やがて、そのはしばみ色の瞳を涙に揺らしながら。だが決してそれをこぼすことなく瞬きを堪えたジェームズは、解くように唇を緩めた。
「僕の方こそ……君に出逢えて、本当に嬉しかったよ」
それは結末を予感した言葉だったのかもしれない。
誰もがそれを感じ取り、そして口を閉ざす。
「……本当に、いいのか。これで」
「ああ」
「ねえ
やっぱり……こんなの。納得できない!ひどいわ、こんなの……ひどすぎる……」
「やめるんだ、リリー」
耐え切れずに立ち上がったリリーを、彼は鋭い口調で止めた。
「……勝手な言い分かもしれないけど。でも彼女にとってもそれが、一番いい道なのかもしれない」
「そんな
そんなはずないわ!だって……だって彼女は……」
「この国は、あまりにも危険すぎる。誰ひとりとして、『安全』を保証された人間なんていやしない。僕がシリウスでも……同じことを、考えたかもしれない」
「そんな
私の記憶を、消して?」
はっきりと衝撃の音を響かせた彼女の言葉は無視して、彼は向かいの友人に向き直った。友と呼ぶことすら笑えてしまうほど、身近になりすぎてしまっていた存在。
「……本当に、すまない。こんなことに、なってしまって」
「やめろよ。もう言わない約束だろ」
拒絶のつもりで相手の台詞を遮り、シリウスは握り締めた自分の拳を見つめた。赤い。熱い。彼女の触れた手のひら。今も脈打つそれは、一体いつまで
。
「……あいつには、平和な世界で生きていってほしいんだ」
勝手な理屈だ。分かっている。けれどもそれらもすべて、俺の記憶とともに忘れてくれたならば。
立ち上がったジェームズは、壁に掛かる時計を見上げて頭を掻いた。
「遅いな
ワームテールのやつ」