うそ。なんで。どうして、こんなところにいるの。幻聴だと思った。幻影だと思った。こんなところに、彼がいるはずはないのに。けれども駆け寄ってきたその人影は、何度まばたきしても霞むことも消えることもなかった。彼は確かに、そこにいる。

「……

ずっと走ってきたのか、肩で大きく息をしながらこちらを見下ろしたシリウスがささやいた。うそ、夢じゃない。シリウス。ずっと求めていた    シリウス。

「な、んで」

座り込んだまま身動きひとつとれないの目の前で、さらに一歩、シリウスが近付いてくる。ほんの少し、腕を上げれば触れられる。距離。風に乗って流れてきたのは、汗に混じった彼の、匂い。

「ジェームズが」
「……ジェームズ?」

ジェームズ。だいすきな、ともだち。

「ソフィーが……ダイアゴン横丁で、お前のことを見かけたって。それで、ジェームズに」

ソフィー。誰だっけ。どうしても、思い出せない。

「リンドバーグが    襲われたって」

おそわれた。他人事のように彼の言葉を繰り返しながら、はシリウスの瞳を見上げて震える唇をひらいた。

「シリウ……ス」

彼の名前を口に出して呼んだ途端、右の頬を冷たい筋が伝って落ちた。目を見開くシリウスのほうに、ほんの少しだけ身を乗り出して。

「……フィディアス、が、」

どうしたんだろう。あのとき、流せるだけの涙は流したはずだった。それなのに。
止め処なく溢れ出る涙を隠しきれずに、また膝を抱える。ああ、わけが分からない。どうしてシリウスが。フィディアス。なんで、こんなことに。襲われた    一体、誰に?
嗚咽すら憚られて必死に声を抑えるの肩を、屈んだシリウスの両腕が、きつく、きつく抱き寄せた。どきりと跳ね上がる鼓動と、そこにある確かな温もりと。大きく、強い、シリウスの腕。
ああ、私にはこの腕が必要なんだ。

必死に名前を呼びながら、は目の前にあるその身体にしがみついて激しくしゃくり上げた。

A little prayer for you

ささやかな

気が付くと、またため息。ため息をつくとそこから幸せが逃げていくので、吐いた幸福はちゃんと口の中に押し戻すこと。教えてくれたのはディアナだった。すぐに唇に手のひらを押し当てて、吸い込む。これで、大丈夫。けれども彼女の心の内は、ちっとも大丈夫などではなかった。
どうして、こんなことになってしまったのだろう。がいて、彼女を大切にしてくれるブラックがいて。その相棒であるポッターもまた、本気で自分のことを愛してくれるのではないかという幻想を抱いた。派手に注目されるのが大好きで、お調子者の彼が、自分を見つめるときに見せるその真摯な瞳に、確かに惹かれかけていた。

それなのに、あんなひどいことができる人だったなんて。

は、彼が私を思うその気持ちだけは本物だと言った。でも、そんなことは関係ない。人として最低だ。情けない。あんな人に惹かれそうになっていた自分が。何も見抜けなかった自分が。そしてたまらなく悔しかった。大好きなが、自分よりもあんな悪行をやってのける彼らの肩を持ったことが。
分かっていた。彼らの絆が深いことは。自分が彼女と仲良くなる、そのずっと前から。とポッターの間に不思議な強い繋がりがあることも、が慈愛ともいうべき感情をもってブラックを思っていることも。全部分かっていた。分かっていたつもりだったのに。
正義感、道徳?もちろんそれもあるだろう。だがそれより何より    ただ、悔しかったのだ。

一度背を向けてしまった以上、もう振り返ることはできない。それほど私は素直ではない。さらにそれに、追い討ちをかけるかのように。

「リリー」

呼ばれて、彼女ははっと顔を上げた。薄暗い部屋の中、肘をついた机を離れて扉のほうへと向かう。そしてドアノブを引くと、目の前の廊下に仏頂面で立っていたのはいつまでも愛らしい妹のペチュニアだった。

「どうしたの、チュニー」
「……電話」

短く答えて、ぷいと脇を向く。彼女はきょとんと目をひらいて聞き返した。

「電話?誰から?」

すると妹は、口にするとそれだけで呪われると言わんばかりの形相でぼそぼそと呟いた。

「……あなたの素敵なお友達」
「素敵なお友達って、ねえペチュニア」

名前を聞こうと思ったのだが、妹はそのまま踵を返して自分の部屋に引っ込んでしまった。やれやれ、仕方がない。その口振りからして、ひょっとしてホグワーツの友人だろうかということは想像できたが、それにしても、一体誰が?大抵のことはフクロウ便を使えば事足りるので、電話番号を教えている友達はひとりもいないし、そもそも魔法界の人々は電話の使い方すら知らないだろう。マグル生まれで、わざわざ電話をかけてくるような……。
結局思い当たる人物は誰もいなかったので、首を傾げながら一階まで下りて外された受話器を持ち上げた。

「もしもし、リリーです」

電話の相手がその正体を明らかにするまで、しばらく不自然な沈黙があった。
「お前がダイアゴン横丁で、闇祓いに話を聞かれてるとき……ソフィーがそこに居合わせてたんだ。ソフィー、お前のこと覚えてて、それで」

なんで、なんでと繰り返すの肩を抱いて隣に座りながら、シリウスは優しく言ってきた。ちがう、私が聞きたいのはそんなことじゃない。けれどもうまく言えずに、無難なことを、聞き返す。

「……ソフィーって、誰だっけ」
「あ?覚えてないか。ケバブ・バーの、ほら、ジェームズんとこのおばさんの」
「……あ」

そうだ、昔ジェームズがシリウスと一緒に連れていってくれた、裏通りのケバブ・バーの。ジェームズのママの、ともだち。
シリウスは深刻な面持ちで目の前の扉を一瞥してから、恐々と聞いてきた。

「リンドバーグの容態は?」

その頬に額を摺り寄せながら、小さくかぶりを振る。

「分かんない。処置中だって……まだしばらく会えないって」
「……そうか」

消え入りそうな声でささやいたが、シリウスはの髪に指を通して頭を撫でながら、微かに笑ってみせた。

「心配するなよ。あの人、見るからにしぶとそうだろ。そう簡単には    
「そんなこと、軽々しく言わないでよ!」

反発するように身体を離しながら、叫ぶ。はっとした様子で目をひらくシリウスを見やって、は咄嗟に後悔した。俯いて、つぶやく。

「ごめん」
「……いや。お前の、言う通りだ。悪かった……何も、分かってないのにな」

ちがう、ちがうちがう。あなたにそんな顔をさせたかったわけじゃない。胸が苦しくなって目を逸らしたところで、は右手から静かな足音が響くのを聞いた。歩み寄ってきたロングボトムの姿を認めて、シリウスはこちらの肩に残った左手を離してさらに心持ち座位置をずらす。だが二人のすぐ手前で足を止めたロングボトムは、軽く手を上げて苦笑混じりにそれを制した。

「いや、邪魔をするつもりはないよ。私のことは気にしなくていい。だが    君は?この病棟には許可がなければ入れないはずだが」

そうだったのか。は驚いてシリウスのほうを見た。彼は少なからず恐縮しながら、目の前にたたずむロングボトムをじっと見上げる。

「俺は……シリウス・ブラック、の……同級生です。ダイアゴン横丁の知り合いが事件現場に彼女がいたって連絡をくれて、それで……」
「ブラック?ああ……なるほど、分かった」

どういうわけかロングボトムはそれだけで納得したらしく、苦々しげに眉をひそめるシリウスの向こう隣に腰を下ろした。まさか例の、『ブラック家』効果?

「私は闇祓い局のフランク・ロングボトム。この事件で現在、魔法法執行部のバーティミウス・クラウチから彼女のことを任されている」
「……そうですか。あの、リンドバーグは……」
「今その個室で専門の処置を受けている。だが楽観はできない。何しろ見たことのない症状だから」

そんな情報は初めて聞いた。見たことのない症状?それは、一体……。

「ロングボトムさん」

シリウスの向こう側にいる闇祓いを覗き込みながら、は思い切って問いかけた。

「フィディアスは……誰かに、襲われたんですか?あの髑髏は一体何なんですか?彼は、助かるんですか?」

髑髏。それを聞いたときのシリウスの表情に鋭い何かが走るのを見たように思ったが、ロングボトムがさほど間を置かずに答えてきたのでそれについては何も聞くことができなかった。

「現在リンドバーグの職場やアパートを調べているが、彼の杖が見当たらない。ここ何年か謎の集団が国内で殺傷事件を起こしていて、その犯行現場にはあの髑髏の印が打ち上げられているんだ。だからフィディアスも、その同一集団の人間に襲われたものと我々は考えている。杖も恐らく、犯人が持ち去ったんだろう。彼が助かるかという質問には    現状では、何とも答えられない。待つしかない」
「そんな……なんで、なんでフィディアスがこんな目に遭わなきゃいけないんですか。謎の集団って何ですか、なんでこんなこと……なんで……」
!」

新たな声の闖入に、はわけが分からず目を回しそうになった。何もかも目まぐるしく過ぎ去っていく、まるで脳みそを素手で掻き回されているような。思わずシリウスの肩に縋りながら、顔を上げる。ロングボトムやシリウスが現れた方向から、取り乱した様子で駆け寄ってくるのは、彼らの寮監であるマクゴナガルその人だった。

「……先生」

どうして、どうして先生がここに。ホグワーツで見る格好そのままの姿で近付いてきたマクゴナガルはシリウスを見て驚いたようだったが、すぐにの前で足を止めてずり落ちた眼鏡を鼻の上に載せなおした。

「ロングボトムに連絡を受けて、あなたのお父様が留守にされているということでしたので私が参りました。、大丈夫ですか?怪我はありませんか?」
「わたし……ですか?わたしは、なにも……」

私のことなんて、どうだっていいのに。けれどもマクゴナガルは心底安堵したように表情を緩め、今にも泣き出しそうな顔でこちらの肩を撫でた。なんで、わたしのことなんか。なんで。けれどもなぜかまた涙が込み上げてきて、は両手で顔を覆って嗚咽を漏らした。マクゴナガルが両手を伸ばして、そっと優しく抱き締めてくれる。ひょっとして母がいたら、こんなふうに包み込んでくれたのかな。
目の前の病室のドアが開いたのは、突然だった。

「これは……マクゴナガル先生」

部屋の中から出てきたのは、緑色のローブをまとった二人の癒者だった。まだ若い魔法使いと、もうひとりは初老の魔女。本当に処置を施していたらしい。額に浮かんだ汗を袖で拭いながらマクゴナガルに声をかけたのは、若いほうの癒者だった。

「先生が、どうしてこちらに」
「第一発見者は私の寮の生徒です。それに被害者は    数年前、私の同僚でもありましたから」

そうでしたか、といって軽く頭を下げた癒者の前に、立ち上がったロングボトムが進み出た。

「闇祓い局のロングボトムです。容態は」
「それは……」

言いながら、癒者がちらりとこちらを見やる。そして気まずそうにロングボトムに目配せした。ロングボトムもまたに視線を向け    しばし見詰め合ったあと、癒者のほうへと向きなおる。

「どのみち分かることです。ここで」
「……分かりました」

深く息をついて、腹を決めたように口をひらく。

「呪文性疾患であることは間違いないのですが……こんな呪文は見たことがありません。考えられうるあらゆる手は打ちましたが」
「それ、どういう意味ですか」

聞き返したのはだった。マクゴナガルの手を離して、ゆらゆらと立ち上がる。、と不安げに呼んだシリウスの声も、彼女の耳には届いていなかった。

「考えられる手は全部打ったって……それで、どうなったんですか。フィディアスは、助からないんですか?」
、滅多なことを言うものではありません。リンドバーグは、比類ない強さを持った魔法使いです。必ず目を覚まします    必ず」

比類ない、強さ。倒れていたフィディアスを目の当たりにした彼女にとって、そんなマクゴナガルの言葉はただ空しく響くだけだった。たまらなくなって、癒者の脇をすり抜けて病室へと飛び込む。
記憶に鮮明なその部屋のベッドに横たわる男は    どう見ても安らかに、眠っているようにしか見えなかった。

「フィディアス、」

その傍らに歩み寄って、震える手をそっと伸ばす。けれども触れることはできずに、そのまま空虚な右手できつく空気を掴んだ。

「フィディアス……わたし、約束まもったよ。防衛術なんか、ひょっとしたら『O』くらい取れてるかも。わたし、一生懸命やったよ。ねえ、約束したじゃない、それなのに……ねえ、今日会おうって言ったよね」

声をかけても。眉ひとつ、動かさない。やっとのことで触れたその頬は、オーツ通りで抱き締めたあのときよりもずっと冷えてしまっていた。ぞっと身震いするも    息は、あるのだ。呼吸している。でも、それだけ。

「こんなの、会ったって言わないよ。ねえ、なんか言ってよ。ねえ」

何も言わない。目を開けることもない。

「フィディアス、」

動かない。

「こんなのって、ない」

叩きつけるような心地で。こらえきれずに、は身じろぎひとつしないその肩を掴んで思い切り揺さぶった。ねえ、目を覚まして。フィディアス。ねえ、こんなのってひどすぎる。

「フィディアス……嘘だよ、こんなのってない。ねえ、起きてよ、ひどいよ、母さんのこと教えてくれるって言ったのに!約束まもってよ、ねえ、フィディアス!やだ、こんなのやだ    
!」

縋りついて、がむしゃらに揺さぶるの肩を誰かが後ろから引き上げた。涙で歪んだ視界の端に、シリウスの瞳を捉える。苦しげで、今にも泣き出しそうな。けれどもしっかりとこちらの肩を掴んで、フィディアスから引き離した。
その優しすぎる眼差しに捕まって    抑えていたものが、一気に溢れ出して言葉を詰まらせる。

「だってフィディアス……フィディアスが、」

それ以上、何も言うことはできなかった。強引に手を引かれて収まったシリウスの腕の中、決して逃れられないほどに強く抱き締められたから。
激しい嗚咽を漏らしながら、は必死になって相手の背中にしがみついた。目まぐるしい感情がぐるぐると頭の中を巡って、そして結局は彼の胸の中に収まってしまいそうな。

この数ヶ月の空白をまったく感じさせないほどに、シリウスの腕の中は温かく、そして優しかった。
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(08.08.04)
タイトル『構成物質』さま