激しく駆ける足音が、静かな廊下に反響して近付いてくるのを聞いた。はっとして振り向くと同時、病室の扉が勢いよくひらく。そこに立ち尽くす長身の魔女は、息を切らせながら、ベッドに横たわるフィディアスの姿を呆けたように見ていた。
「ジェーン」
ベッド脇にたたずむマクゴナガルが、そちらを向いて弱々しく声をかける。ジェーンと呼ばれたその中年ほどの魔女はそこで初めて彼女の存在に気付いたかのように目を見開いた。
「……マクゴナガル先生」
「ジェーン……」
「
フランクから、報告は受けています。担当癒から……大体の、状況も」
彼女は恐れるように躊躇いながら、まず一歩、病室に右足を踏み入れて深く息を吐いたようだった。そしてようやく、出入り口の横に置かれた小さなソファに腰掛けるとシリウスに気付く。するとどういうわけか、彼女はまるで幽霊でも目の当たりにしたかのように青ざめて、ぎょっと目を開いた。何かに気圧されたように、じりじりと後ずさる。……どうしたというのだろう?
「倒れているフィディアスを見つけた、です。そして、友人のブラック。二人とも私の寮の生徒です」
「……そうでしたか。魔法法執行部の、ベンサムです」
ジェーンは軽く頭を下げて挨拶したが、決しての目を見ようとはしなかった。そしてこちらを避けるように回り込みながら、ゆっくりとベッドのほうに近付いていく。
こちらに背を向けたままフィディアスの顔を覗き込んだジェーンは、しばらく身じろぎもせずにたたずんでいたが。
「無様な姿ね
本当に」
ささやいた彼女の言葉に、かっとなって飛び出しそうになる。それを、シリウスが無言のままの腕を引いてとどまらせた。
そして、初めて気が付いた。マクゴナガルが支えた彼女の肩が、小刻みに震えていることに。
Stand by me
ここにいて
それから何人か、職場の上司や学生時代の友人という魔法使いたちが慌しく出入りしたが、仕事が立て込んでいるからといってベンサムと同様に程なくして病室を出て行った。ロングボトムは捜査要員として省に呼び戻されてもういない。ベンサムは彼の代わりに、すぐ控えの者を寄越すと言った。
「、あなたのお父様が来られるまで、私がここにいます」
部屋の前にいると言い残して出口に向かいかけたマクゴナガルを、は素っ頓狂な声で呼び止めた。
「父が来るんですか?」
「伝言を残してあります。省からお父様にも今回の件で説明があるでしょう。何かあれば呼んでください」
マクゴナガルが部屋からいなくなると、はベッド脇のスツールに移って相変わらず指一本動かさないフィディアスの顔を見つめた。こうして黙っていると、思っていた以上に端正な顔付きをしていたことに気付く。若い頃はきっとシリウスほどとは言わないにせよ、さぞや女子生徒の人気を集めたことだろう。何事にも無頓着な顔をして憎まれ口を叩くフィディアスは、どこか厭世観のようなものをにじませてその整った顔を意図的に歪めていたかのように思えた。
ロングボトムは立ち去る前、の目を見て犯人の逮捕を約束した。君の身の安全を考慮して、進展があれば逐一報告するといったことは約束できないが、一日も早く良い知らせができるように努めると。出会ってまだほんの数時間だったが、彼女はなぜか、その言葉を信じられるような気がして小さく頷いた。
「きれいな顔だな」
隣でささやいたのはシリウスだった。やはり引っ張り出したスツールに腰かけてじっとフィディアスの顔を見つめている。は微笑してベッドのほうに視線を戻した。
「シリウスほどじゃないよ」
特に思うところもなく軽い調子で言った。だがシリウスがしばらく何も言わないので、ひょっとして悪いことを言ったかもしれないと思い始めたところで彼はひっそりとの名を呼んだ。
「」
「……なに?」
恐々と左に向きなおると、シリウスの澄んだ瞳がこちらを見返している。彼はたっぷり躊躇の間を挟んだあと、言ってきた。
「あの……スニベルスの、ことなんだけどさ」
彼が言わんとするところを悟って、は諭すように首を振る。
「やめて」
「……?」
「何にも言わないで……今はただ、一緒にいて」
スネイプのことなんてどうだっていいの。今はただ、シリウスに傍にいてほしい。彼はしばらく黙り込んでいたが、やがて腕を伸ばしてまた力強く肩を抱き寄せてくれた。押し寄せる不安を、その温もりで溶かしてくれるような。フィディアス、本当は私、このシリウスと一緒に会いにきたかったんだよ。シリウスも、あなたと話がしたかったんだって。ねえ、帰ってきて。三人で、ゆっくり話そうよ。
父が現れたのは、窓の外がうっすらと暗くなり始めた頃だった。部屋に飛び込んできたときは、スツールに座ったままシリウスの腕の中でうとうとしていたときだったので、二人して慌てて身体を離しながら立ち上がった。父は初め病室で娘が見慣れぬ男に抱かれているのを見てただただ呆然としていたが、恐縮しきったシリウスが姿勢を正して急に良家のお坊ちゃまらしい挨拶を返したので、ぽかんとしながらも曖昧な英語で頭を下げた。
「お父さん……忙しいのに、ごめんね。こんなことになっちゃって」
「……いや、それはいいんだ。お前のせいじゃない……お前が無事で、良かったよ」
言いながらも、ちらちらともどかしそうにシリウスのほうを見やる。ははっとしてシリウスのほうを示した。
「ねえ、お父さん。シリウスだよ、あのシリウス。分かる?私が入院したときにも、来てくれた……」
「あ……ああ、覚えてるよ。ずいぶん……立派に、なったね」
すらりと伸びたその長身を上まで眺めて、父が独り言のようにつぶやく。シリウスは心底情けないと言わんばかりに瞼を伏せた。
「いいえ……俺なんか」
その声には、深い自嘲の音が含まれていた。
やがてベッドのそばに近付きながら、フィディアスの顔を覗き込んで青ざめた父がうめく。
「フィディアス……」
「え?お父さん、フィディアスのこと知ってるの?」
「ああ。いや、名前を聞いてやっと思い出したんだ。が
お母さんが、何度か連れてきたことがある。お前のことも、こっちにいた頃は可愛がってくれたよ」
……そんな。フィディアスが、子供の頃の私を知っていたなんて。どこかこそばゆいものを感じながらフィディアスに向きなおると、収まっていたものがまた溢れ出てきた。
やっぱりあなたはまだ、私に教えてくれてないことがたくさんあるんだね。
ねえ、早く目を覚まして。
あなたの知ってるお母さんのこと、何でも話して。
ロングボトムの代わりにやって来たのはページという若い魔法使いで、そのまったくの事務的な口調はどちらかというとあの『部長』を思い起こさせた。彼はロングボトムがたちに与えたものと同等の情報を父に伝え、可能性としては低いが犯人がフィディアスの息の根を止めにやってくることも視野に入れて、しばらく闇祓いが交代で見張りにつくことを告げた。
「そこであなた方にお願いがあるのですが」
お願いというには多少なりとも威圧的な響きで、ページがたちをざっと見渡す。
「もしものとき、あなた方がこの場にいては守り切れないかもしれません。我々としては早急に引き揚げていただければ非常に助かるのですが」
そんな。は縋るように傍らのシリウスを見上げ、その手がそっと背を撫でてくれたことに勇気付けられて、眼前の若き闇祓いに向きなおった。
「すみません。でも私、フィディアスの目が覚めるまでここを離れるつもりは、ありません。それは……省からの『命令』では、ないですよね?」
戸口に立つ父が困惑した顔でこちらに視線を投げるが、気付かない振りをしてあくまでページを凝視する。彼はあからさまに気分を害したようだったが、顔をしかめただけで声は落ち着かせたまま言った。
「ええ、見舞いを制限する権限まで我々は有していません。ただし、省として忠告はしましたのでそのおつもりで」
「……」
ささやきかける父の声を遮るように咳払いしながら、ページは素早く踵を返した。父に軽く会釈してその扉に手をかける。外にいますと言い残して出て行こうとした彼の背中に、ははっとして声をかけた。
「あの、ページさん」
「何ですか」
気だるげに振り向いて、ページ。
「フィディアスの家族は……誰か、来ないんですか?」
問いかけると、ページは嘆息混じりに肩をすくめた。
「リンドバーグに家族はいません。両親はすでに他界、兄弟がひとりいるはずですが行方知れずです。時間を見てベンサムがここに立ち寄ることになっています」
「……ベンサム?魔法法執行部の、ベンサムさんですか?どうしてあの人が」
「彼女はリンドバーグの元女房です。現段階で考えられうる、被害者に最も近い人間です」
元、女房。あの人が?
別れた恋人の話を聞いたことはあった。でも。
私は本当に、あなたのことをまだ、ちっとも、何にも知らないんだね。
ページが立ち去った病室の中、ゆらゆらと近付いてきた父は当惑しきった顔をして口をひらいた。
「、お前が彼を慕っていたという話は聞いた。どうなるか、先のことがまったく分からない状態で……不安だとは思うが、お前までもし巻き込まれることにでもなったら……。、父さんと一緒にひとまず帰ろう。何か変化があれば、そのときにまた来ればいい。そうしよう。シリウスくんも、家族が心配するだろう。今日はもう、帰ったほうがいいと思うよ」
父の言葉で、はたと気が付いた。そうだ、シリウス……きっとジェームズからの知らせを受けて、何も考えずに飛び出してきたに違いない。そう思うと泣きたくなるくらい嬉しくて、同時に申し訳なさが込み上げてきて。苦しげに目を細めたシリウスを見上げて、告げた。
「そうだよ、シリウス。シリウスは……帰ったほうが、いいよ。私、もう大丈夫だから。来てくれて……すごく、嬉しかった。ありがと」
「
」
何か言い返してこようとしたシリウスの言葉を遮って、父に顔を向ける。
「でもお父さん、私は残る。私だって魔法使いだよ。もしものときは、逃げることだってできる。危険なことはしないって約束するから、もうしばらくフィディアスの……傍に、いさせて。このまま帰ったって……心配で心配で、私きっと何にも手につかないと思う」
仮にも闇の魔術に対する防衛術の教授を務めたことのあるフィディアスをこんな目に遭わせた犯人から、私なんかの魔法で逃れられるとは思わないけれど。だが実に情けない顔をしていた父は、やがて肩を落としながら、疲れたように瞼を伏せた。
「父さんは……仕事の都合で、今夜もう戻らないといけない」
「あの
お父さん」
神妙な面持ちで、シリウスが口を挟んだ。なぜかどきりとしたこちらの胸中など知る由もなく、父に向きなおる。父は虚を衝かれたように目を丸くしてシリウスのほうを見た。
「お父さん、俺が……一緒にいます。俺じゃ頼りないかもしれませんけど、でも……が言い出したら聞かない子だって、お父さんもよく知ってるんじゃないですか?」
「シリウス、そんな……いいよ。私のことは気にしないで、早く家に帰ったほうが」
「俺、が好きです」
唐突に聞こえてきたシリウスの声に、息が詰まりそうになった。今、なんて。なんで、こんなところでそんなこと。言われた父のほうも、呆気にとられた様子で何も言えないでいた。
シリウスは真っ赤になりながらもなんとか平静を装いながら、あとを続ける。
「のこと……大切に思ってます。だから彼女が気の済むまでここにいればいいと思うし、しばらくすれば、俺が責任を持って日本に帰らせるようにします。だから彼女の思うように、させてあげてくれませんか。がリンドバーグをとても慕ってたこと……俺は、知っています」
「……シリウス」
あのシリウスが、こんなにも一生懸命になって。たまらなくなって彼のシャツの裾を掴んだは、しばらくして小さく息をついた父が改めてシリウスに向きなおるのを見た。
「は、素敵な男性に巡り合ったようだね」
「……いえ、俺なんか」
「ありがとう、シリウス。しばらくのことを頼むよ」
そう言った父は、程なくしてその横顔に影を落として付け加えた。
「ただ、君はもう少し親の気持ちというものを考えてみたほうがいい」
が顔を上げたときには、父はもうこちらに背を向けてドアノブに手をかけていた。ページさんに話してくると言い残して、すぐに病室を出て行く。急いで傍らを見上げると、シリウスは苦しげに唇を噛んで目を閉じていた。呼びかける。
「……シリウス?」
「あ、いや……ごめんな、。勝手に……あんなこと、言って」
「ううん、謝らないで。シリウスがあんなふうに言ってくれて……私、嬉しかったよ」
彼の正面に回りこんで、俯くその頬に手を伸ばす。
「でも……ほんとにいいの?今日だって、どうせ何にも言わずに出てきちゃったんでしょう?お母さん……心配するんじゃない?」
「……お前まで、まだそんなこと言うのかよ。俺のことなんか何にも気にしちゃいないよ、あの人は。気になるのは体面だけだ。俺だってお前のこと放ってこのまま帰れない」
「だけど、」
言い返そうとしたの唇を、少し強引にシリウスのそれが塞いだ。思わず身をすくめて、伸ばした手を相手の肩に落とす。シリウスはすぐに唇を離して上からまっすぐに彼女の瞳を覗き込んだ。
「口答えすんなよ。お前だって、お父さんの言うこと聞かずにここに残るんだろ。だったら俺だって俺の好きでお前と一緒に残る。文句あるか」
「文句とか……そんなこと言ってるんじゃ」
咄嗟に反駁しかけたが、彼女は結局自分の求めていることに気付いておとなしく口を噤んだ。シリウスの腕をそっと掴んで、ささやく。
「……ありがと」
私はやっぱり、シリウスと一緒にいたい。