結局、話をすることもできなかった。
何ヶ月も前に用意していた誕生日プレゼントは、まだトランクの中にある。
古代ルーン語の試験にはあまり集中できなかった。いつもは間に何人もの生徒が入ってその姿は隠れてしまっているが、少人数のあの試験では前方に座る彼女の後ろ姿がよく見えたからだ。肩口より少し伸びたきれいな黒髪を、試験中は邪魔にならないようにひとつに括っている。遠目にも分かるその後れ毛を、すぐそばで掬い上げてうなじにキスしてみたいと思った。身をすくめる彼女の様子が、ありありと目に浮かぶ。
けれども考えれば考えるほど、興奮というよりはむしろ空しさが込み上げてきた。もう抱き締めることも、その透き通った瞳に俺の姿が映し出されることもない。あんなにも、幸せだと思っていたのに。
だが、口には出さない。あいつはすべて、自分の責任だと思い込んでいるから。
違う、違うんだ。俺が悪い。言い出したのは俺だし、あいつが引こうとしたときに引かせなかったのも俺だ。全部俺が悪い。俺はただ、あいつが苦しむのを見たくなかっただけのはずなのに。どこかでそれが逆転してしまった。人はそれを本末転倒と呼ぶが、もはや引き返すことはできない。
それは、俺の弱さ故か。
「シリウス、こっちよ」
キングズ・クロス駅のホームで、母はレグルスを伴ってロジエールの母親と話し込んでいた。母が決して好きでこの俺を待っているのではないということは、分かっている。こんな母親と一緒にいるところを見られたくなくて、友人たちとは毎年汽車を降りてすぐに別れることにしていた。
「……エバンは?」
どうでもよかったが、話題に困ったのでとりあえず聞いておく。ロジエールの母親はあいつのものと思しきトランクに手を添えて、まだごった返したホームをざっと見渡した。
「ええ、ちょっとお友達に用があったのを忘れてたって。すぐに戻ってくると思うけど」
「そうですか」
噂をすればというところか。どこからか不意に現れたロジエールが、上機嫌で母親のもとに駆け寄ってきた。
「待たせてごめん。なんだシリウス、いたのか」
「お前もな」
素っ気なく返すとうちの母親がさり気なく非難めいた眼差しを注いできたが、気付かない振りをして顔を逸らす。ロジエールの母親は困ったように笑いながら愛息子の肩に手を置いた。
「それじゃあ、私たちはお先に失礼するわね。ヴァルブルガ、オリオンによろしく伝えてちょうだい」
「ええ、あなたも、アルビテルに」
「じゃーな、シリウス、レグルス。また新学期」
何がそんなに嬉しいのか、にやにや笑いながらロジエールは母親と共にバチンと音を立てて消えた。やはりいつまで経っても、いけ好かないものはいけ好かないままである。
母はロジエール親子に向けていた笑顔をそのまま次男へと移し、そして気だるげな視線をほんの一瞬だけこちらに投げた。姿くらましをするために、そのどこか一部分に強く触れなければならない。仕方なく、レグルスが握っているのとは反対側の右腕を少しだけ掴んだ。
胃が捩れるような不快なこの感覚は、もしかすると自分の心の内を反映しているのかもしれない。
この瞬間に、この手を放してしまえばいい。そうすればこのまま、自由な空の下に飛び立てる。そう思っていつも、気付くとあの薄気味悪い扉の前に『家族』と並んで立っているのである。
今さら、期待などしていない。
けれどもこの手を放してしまえるほど、俺は勇敢ではなかった。
The Unexpected always happen
鏡の向こう
ロングボトムにしがみついて体験した人生初の姿くらましは、できることなら二度と味わいたくはない感覚だった。身体中を、胃から捻り、絞り出されるかのような違和感。うっぷと気持ち悪い息を吐きながら踏みしめたのは、紛れもなく数年前に世話になった聖マンゴ病院の受付だった。相変わらず、ぞっとするような姿形の人、奇妙な音を立てている人など様々な症状の患者がいて騒々しいが、ロングボトムはまったく気にした様子もなくの背を押して歩き出した。途中で出会った癒者と声を潜めて話をしながら、先へ先へと進んでいく。
そして、たどり着いたのは。
「ロングボトムさん……ここは、」
「ああ、先ほどの被害者
フィディアスといったかな、彼はこの病棟の三〇七号に運ばれたんだ」
ヤヌス・シッキー病棟の、三〇七号。ここは……あのときの。思わず立ち止まってまじまじとその扉を見つめてから、ようやくはそのノブに手を伸ばした。けれどもそれをロングボトムが素早く遮る。
「今は処置中だ。まだしばらく会えない」
「……そんな」
は反射的に切り返したが、ロングボトムの強い眼差しに気圧されて何も言えなくなった。伸ばしかけた手を力なく落として、そのまま通路のベンチに浅く腰かける。ロングボトムはしばらく病室のドアを見つめてたたずんでいたが、やがての隣にゆっくりと座り込んだ。
「君の名前は?ホグワーツ生かな」
「……はい。・、グリフィンドールの五年生です」
答えると、ロングボトムは一瞬だけ眩しそうに目を細めた。その光を瞼の下に隠して、あとを続ける。
「、よければフィディアスのことを聞かせてくれないか。彼は一体、何をしている人なんだい?」
「……はい。フィディアス・リンドバーグ、バジルドンのクロス・プレスに勤めています。二年前、ホグワーツで闇の魔術に対する防衛術を担当していました」
「リンドバーグ?」
繰り返すロングボトムの声に驚きがにじんだことに気付いては彼のほうを見た。だがロングボトムはばつの悪い面持ちですぐさまこちらから目を逸らす。
「なにか?」
「あ、いや……月刊クロス・プレスは時々読んでいるよ。面白い雑誌だ。そうか、クロス・プレスの……フィディアス・リンドバーグ」
彼は懐から取り出したメモにさっと書き留めながら、また聞いてきた。
「家族に連絡を取りたい。君は、リンドバーグの親戚かなにかかい?」
「……いいえ。フィディアスは、死んだ母の同級生だったそうです。それで何かと、気にかけてくれて……今日も、漏れ鍋で会う予定になっていました。彼の家族のことは……よく、知りません。でも、ホグワーツの
ダンブルドア先生とか、フリットウィック先生に聞いたら何か分かるかもしれません。レイブンクローの出身だって、言ってましたから」
彼のことをもっと、聞いておけばよかった。いつでも聞ける、そう思っていた。
いや、いつでも聞ける。何でも聞ける。フィディアスの目が覚めれば、いつだって
そして母のことを教えてくれると約束した。だって私は、約束を守ったもの。結果はまだだが、自信はある。
「そうか、ありがとう。早速ホグワーツとクロス・プレス社に問い合わせてみよう。それから、君の家族にも連絡しておきたい。お父さんは?」
「……父、ですか?父はマグルで……それに、日本にいます」
「日本?ひょっとして君は
漏れ鍋から煙突飛行を使っているという、あの?」
聞き返されて、は大きくひらいた目でゆっくりと瞬きした。どうしてそれを、見も知らない
さっき出会ったばかりの人が、知っているのだろう。
「魔法運輸部に同期の友人がいてね。煙突飛行ネットワークを管理している部署だよ」
こちらの疑問に的確に答えると、ロングボトムは書き込んだメモを手のひらに収めて立ち上がった。未だ反応のない病室をちらりと一瞥してから、呆然と見上げるに向きなおる。
「必要なところに報告を済ませてくる。、まだここにいてくれるね?」
「ま、待ってください」
踏み出しかけたロングボトムの腕にすがりついて、はかぶりを振った。
「ひとりにしないでください……ひとりになったら私、あのときの、あのときのこと、思い出しそうで……」
浮かび上がる髑髏、倒れたフィディアス。抱え上げてその熱を確かめるまで、最悪の結末を予測してしまった。
怯える彼女の目をまっすぐに覗き込んで
上半身を屈めたロングボトムは、そっと伸ばした手での頭を優しく撫でた。
「すぐに戻るよ」
それ以上すがることはできずに、力なく腕を放す。静かに微笑んだロングボトムが背中を見せて行ってしまうと、辺りは嘘のように静かになった。病室からも、何の物音も聞こえてこない。本当に処置中なのか、そもそも本当に人がいるのかすら疑いたくなるほどに。けれども立ち上がって扉を開けてみるだけの勇気は、なかった。おとなしくベンチに座ってじっと身をすくめる。思い出されるのはやはり、緑色の髑髏が見下ろすフィディアスの姿だった。あれは、一体なに?どうしてこんなことに。外はこんなにも暑いというのに、はぞくりと背筋を走る悪寒にきつく目を閉じた。いやだ、フィディアス
行かないで。目を、覚まして。
(なに?生きている?)
耳の奥に響くのは、冷たい男の声。それがことさら不吉なものを呼び起こすようで、は必死に耳を押さえてそれを遮断しようとした。けれども当然、それは外から聞こえてくるものではない。不意に思い出したのは、ニーナの言葉だった。暗い
大きな、影。
まさか!関係ない。あんなもの。占いなんて、何の役にも立たない。
やだ……やだ、早く。フィディアス
早く、目を覚まして。あの意地悪な顔で、微笑んで。
「
!」
ベンチの上で膝を抱えてうずくまっていたは、額をスカートに押し付けたままで閉じていた瞼を開けた。自分の名前が呼ばれるのを聞いたような気がしたのだ。そしてそれは、ロングボトムのものではない。
(……そんな、はず)
ない。あるはず、ない。こんなところに、いるはずない。それとも彼を思うあまりに、幻聴でも聞こえたのだろうか。だとすれば
私、どうしようもない。そんなことを思いながら、ゆっくりと顔を上げた。
見つめる廊下の、ずっと先に。見慣れたはずの人影がひとつ、息を切らせて立ち尽くしている。
ああ、私はついに、幻まで見えるようになってしまった。
ベッドにどさりと倒れ込むと、すべきことはまったくなくなってしまった。あとは夕食に呼ばれるまで、こうして横になっているしかない。実に退屈だ。ピーターとふたりきりでいるより退屈だ。だが退屈だと言えるだけましなのだ。厨房に下りればそこにあるのは退屈ではなく、愛すべき家族の無関心だから。それとも、食事に呼ばれるだけまだましだと言うべきだろうか?呼びにくるのは、あの陰気なしもべだが。
いつか分かり合える日がくると、彼女は言った。けれどもそんなことはもういいのだ。彼女を失った今、この湿っぽい家の中がどうなろうと知ったことか。所詮は無駄な望みだったのだ。それでもここを離れないのは、単にきっかけを掴めないからに過ぎない。
そして俺は、このままずるずるとこの屋敷に縛られ続けるのだ。
ため息を、ひとつ。うんざりと瞼を下ろして、なんとなく寝返りを打った。手を伸ばしてみても、そこにはいない。握り返してくれたあの温かい手を失くさせたのは、他でもなくきっと。
もっと抱き締めて、キスしておけばよかった。めちゃめちゃにしてしまいたいほどに愛しい。けれどもそうできなかったのは、かえって大切に思いすぎたから。彼女のすべてを知りたかったのに。心も身体も、なんて、くさくてとても言えたものじゃないが。だがそんな台詞も言えてしまいそうなほど、彼女のことを知りたいと思った。
五年だ。丸五年。それだけの時間を共に過ごして、俺は一体どれほど彼女を知ることができた?
嘆息混じりに起き上がって、彼はベッド脇に置いたトランクを引き寄せた。蓋をひらいて、真っ先に現れた小箱を取り上げる。薄いブルーのリボンで彩られたそれは、ホグズミードで購入したものだった。
本当なら今頃、ここにあるはずはないのに。
かなり、どきどきしながら店に入った。こんなものは今の今まで買ったことがない。なんと言って渡そうか必死に考えていた。いや、言うべきことはひとつ、誕生日おめでとうだが、こんなものを渡すのは早すぎないかと思ったのだ。こういうものは好みもある。もしも気に入らなかったら。重いと受け取られたら。ずいぶん昔だが、彼女が友達と話をしているとき
確かモリンズだったか?
が上級生にネックレスを贈られたどうしようと言うと、それは絶対マデリンに気があるのだ、男が女にアクセサリーを贈るのはそれくらい重要な意味を持つなどと、そのときはまだ恋愛経験のひとつもないくせに力説していたのがなぜか記憶に残っている。それとも、俺の知らないところで誰かと付き合っていたのだろうか?もちろん軽い気持ちで買ったわけではないが、それにしても重すぎると思われたら、引かれてしまったら。
だがそんな悩みも、すべて無駄になってしまった。誕生日おめでとうと友人たちに祝われているその後ろを、何も言えずに通り過ぎるしかなかった。
またひとつ、ため息。手のひらの小箱を空ろな思いでぼんやり眺めて、彼はまた仰向けにベッドに横たわった。
と。
「……ウス、シリウス!」
はっとして、彼は身体を起こした。どこからか、名前を呼ばれている。その正体に気付くまで、さほど時間はかからなかった。慣れている。両面鏡、ジェームズだ。
慌ててトランクの中から、タオルにくるんだ鏡を取り出した。淡く光るそれを軽く指先でこすると、そこにジェームズの顔が現れる。彼は目に見えて焦燥していた。興奮した様子で捲くし立てる。
「遅いじゃないか!さっきからずっと呼んでるのに!」
「なんだよ、怒るなよ。ついさっき帰ったんだ」
ついさっきというのは嘘だったが、面倒だったので適当にあしらっておく。ジェームズは苛立たしげに頭の後ろを掻いた。ただでさえくしゃくしゃの髪が、無造作にぴんぴんと跳ねる。
「そんなことどうでもいい。それより聞けよ、が
」