恋って、分からない。どうして好きな女の子のことを、あんなふうに呼べてしまうのだろう。いくらあんなに大勢の前で庇われて、恥ずかしかったのだとしても。あんな、ひどいこと。ロジエールに同じことを言われたときの、あのジェームズの反応を思い出す。
部屋や大広間で見かけても、リリーの様子はいつもとさして変わりなかった。でもあんなひどいことを言われて、それでもまだスネイプと友達でいたいなんて……思って、いるのだろうか。
分からない。遠くから見ているだけでは、判然としない。けれども。
何も聞くことはできないまま、とうとう夏休みを迎えることとなった。
Wake not a Sleeping Surpent
眠れる蛇、起こすべからず
すべての試験を終えたあと、夏休みまではあっという間だった。何もかもを注ぎ込んだ一年が終わり、嘘のように穏やかな日差しを享受する。スーザンたちは日向ぼっこに校庭へと出て行ったが、は例の騒動があった湖畔に近付く気にはなれず、ひとりで図書館に来ていた。実技でボガートが出なくて、よかった!
まっさらの羊皮紙を前に、広げた何通かの手紙をぼんやり眺める。この二年でフィディアスから届いた手紙は全部で十通を超えていた。何を聞こう。何を話そう。二年前に交わした約束の日は、すぐそこまで迫ってきていた。
「あ……。こんなところで何してるの?」
不意に聞こえてきたのは、聞き知った青年の声だった。紙面から顔を上げて見やると、腕に分厚い本を数冊抱え込んだピーターがふらついた足取りでこちらに近付いてくる。そしての机にどさりとそれを降ろすと、大きく息をつきながら汗のにじんだ額を手の甲で拭った。
「ピーターこそ。なに、その本?」
「え?あ、これは……試験用にいろいろ借りてたんだけど、結局あんまり使わなくってさ」
背表紙を見ると、確かに試験科目に関する本を万遍なく借りていたようだが、中でも薬学の参考書が一番多そうだった。さほど開いた形跡は見られないが。
「は何してるの?試験はもう終わったのに」
「私は
うん、試験とかもう関係なくて」
言いながら、は広げた手紙の山を適当に片付けた。
「ロンドンに戻ったらリンドバーグと会う約束してるの。だからなんとなく、今までの手紙を読み返してて」
「あ、そっか。お母さんの友達だったよね。へぇ……ずいぶんたくさんあるんだ」
「うん、そうだね。仕事の区切りがつくたびに送ってくれるみたいで。知り合ってそんなに経つわけでもないのに、家族が増えたみたいな感じ」
それは、本心だった。意地悪を言うこともあるけれど、本当は優しくて。一人っ子のにとって、突然できた兄のような不思議な存在だった。フィディアスはひょっとして、・の娘としか見てくれていないかもしれないけれど。私にとってそれが真実であれば、フィディアスは、確かに私の家族に違いないのだ。
「……ほんとは、シリウスも一緒に連れていきたかったんだけどな」
ぽつりと呟いた言葉は独り言でもよかったのだが、ピーターは予想以上に反応してきた。大きく開いた目をしばし虚空に向けて彷徨わせたあと、遠慮しているのか途切れ途切れに、聞いてくる。
「……シリウスとは、その……喧嘩、してるの?最近、シリウスもジェームズも……ちっとも、のこと話さないし、それに……」
「それに?」
「う、ううん……何でも、ない」
伏せ目がちに首を振って、ピーターはそのまま黙り込んだ。その先は少なからず気になったが、追及されて困惑するのは彼だろう。さり気なく窓の外に視線を逸らして、うめいた。
「シリウス、私のこともう何とも思ってないのかな」
「えっ?」
上擦った声をあげて、ピーターが目をぱちくりさせる。しまった、また困らせてしまった。ごめん、何でもないと一方的に話を打ち切って、は静かに席を立った。こんなこと、ピーターに愚痴ったって仕方ない。
だが背中を向けてすぐに、躊躇いがちなピーターの声が追いかけてきた。
「僕、あんまり詳しいことは知らないけど……でもシリウス、最近レイブンクローの子と仲良くしてるみたいだよ」
心臓にいきなり冷水でも流し込まれたかのようだった。けれども表情だけは少しひくつかせた程度に抑え込み、なんとか苦笑いだけを返す。悪いことを言ったと今さら後悔したのか、ピーターはひたすらごめん、ごめんと泣きそうな声で繰り返した。
「ううん……気にしないで。そりゃ、シリウスだって男の子だし、女の子とだって付き合いたいよ。私たち、付き合ってるわけじゃないもん」
「えっ?そ、そうだったの?」
「うん、だから……気にしないで。わたしも、気にしてない……それじゃ、またね」
気にしてない。気にならないなんて、うそ。ほんとは、今すぐにでもシリウスのところに行って抱き締めて、キスして。ずっと、離れたくないのに。そうか、シリウスはまたレイブンクローの女の子と。そうだよね、もともと私なんてタイプじゃなかったんだから。
どうにもできない。どうにもならない。シリウスのこともジェームズのことも、そしてリリーのことも。
大事なものはことごとく、壊れてしまった。
ううん、大丈夫。まだある。大事なものは。スーザン、メイ、マデリン、ニース……友達は、たくさんいる。リーマスだってピーターだって、それに家族も。父さん
そして。
すぐに会いに行くからね、フィディアス。
そのときは私の知らないこと、たくさん、たくさん聞かせて。
恋人へのプレゼントですか、と聞かれた。いえ、先日十六歳になったばかりの女の子に。娘さんですか。まあ、そんなものです。
なにが、まあそんなものです、だ。たとえば母親である彼女の前で
同じことが、言えるか?
「こちらなんていかがですか?」
ああ
いいかも、しれない。形に残ってしまうものを選んで満足している自分はきっと、純然たるエゴイストにちがいない。
丁寧に包んでもらった小箱と、コンパクトにまとめてもらった花束と。あの独特の香りが、ふと鼻腔をくすぐる。
彼女を彼女個人の人格として認められないのは、もしかしたら自分のほうなのではないかと。そのことを知られるのが、こわい。けれども、会わずにはいられない。そのことを証明するためにも。
彼女を忘れることはできない。忘れてはならないというのは言い訳に過ぎない。けれども、俺は。
(俺が今会いに行こうとしているのは……紛れもなく、お前なんだ、)
そして彼女の残像に、さよならを告げるために。
「花は嫌いではなかったのか、フィディアス」
不意に、名前を呼ばれて。振り返らずに、ただ歩みを止める。
振り向かずとも知れる。気配はなかった。けれども、分かる
その声、その口振り。
「……今さら、何の用だ」
「おいおい、久しぶりの再会にその態度か?両親の死に際に連絡ひとつ寄越さない薄情なお前をこうして迎えにきてやったのに」
「言わなかったか。俺はもうあの家とは決別したんだ。あんたのことももう兄だなんて思ってない」
「だったらその名を返せ。リンドバーグの名を汚すな。『フィディアス』
その名も、母さんが一ヶ月もかけてようやく考えたんだ。リンドバーグのすべてを棄てたというのなら、その名も全部リンドバーグの墓に返上しろ。偉大なるユンク伯の名を辱めるな。それが嫌ならリンドバーグなりの振る舞い方を覚えるんだな」
リンドバーグなりの、振る舞い方。くだらない、馬鹿馬鹿しい
そんなものに、いつまでも縛り付けられて。
「『フィディアス』?ああ、ご立派な名前だ。こんな大層な名前を考えるのに一ヶ月もかかるなんて。まったく大したもんだ。それじゃああんたの名前は二ヶ月かかったか?それとも半年か」
「……お前。ただでさえ母さんをさんざん泣かせておきながら、まだ足りないか。それ以上言ってみろ。まずはその右足が飛ぶぞ」
「できるものならやってみろ。そのときはお前の首が飛ぶ。一瞬で終わらせてやる」
その隙に空いた右手で杖を引き抜きながら、やっとのことで振り返る。数歩踏み込めば、その懐に飛び込める程度の距離。一方、相手は杖を出しもせずにあっけらかんとした様子でこちらを見返していた。傍らにそびえる壁に遮られた陰の中で、その着込んだ黒いローブが溶け込んで今にも地面へと消えてしまいそうな。
男
かつては兄と呼んだその男は、適当に伸ばした前髪の割れ目からにたにたと暗い光を覗かせながら低く笑ってみせた。
「しばらく見ないうちに、ずいぶん危なっかしい台詞を吐くようになったな」
「台詞だけじゃない。俺にはそうできるだけの呪文がある」
「お前がホグワーツの防衛術枠に招かれるほどの使い手だということは知っている。だが、所詮はそれだけのことだ。お前に俺は倒せない」
「どうだろうな。あんたの言う通り、俺はガキの頃の『フィディー』ではないんだ」
「いや、分かるさ。お前は永遠に、俺の唯一にして最高の弟だからな」
唯一にして、最高の。
よくもまあ、そんなにも白々しい台詞が吐けるものだ。
男は小さな動きで左の手首をポケットから覗かせると、そこに光る銀細工に目線を落としてにやりと笑った。
「そろそろだな……キングズ・クロス駅にホグワーツ特急のご到着だ」
なんだって。はっと目を見開いて、左の腕に抱える花束と箱をきつく抱き寄せる。
「……それがあんたと何の関係がある」
「いや。俺には関係のないことだ。だが
お前を行かせるわけにはいかないな」
どうして。こいつは一体何者で
どこまでそれを、知っている。
男は軽く袖を振って両手をまたポケットの奥に仕舞いながら、まるで世間話のような口振りであとを続けた。
「会うんだろう。あの子供に
・」
「な……どうして、あんたがそれを……」
「一度だけ聞いてやろう。俺と一緒に来ないか。これから革命が起こるんだ
それにはあの子供が必要だ。だが、今はまだ早い。『すべて』を語って聞かせるには、まだしばらく時間が要る」
「……まさか。あんたが、まさかそんな……」
噂は、聞いたことがあった。だが、まさかそんな。本当に。
いくら見切りをつけた家族だとしても、それだけはないと思っていた。信じていたなどというのは
あまりにも、馬鹿げているとしても。
「……そこまでとは、思ってなかったよ」
呟きながら顔を上げたその瞳に、涙はない。だが確かに揺らめくそれを浮かべながら、彼ははっきりと告げた。
「だが、これでよく分かった。あんたとはもう決して相容れないということが」
「フィディアス、」
「俺はあの子をあらゆる悪意から護る。あの子が自分のために生きる人生を誰にも奪わせたりはしない。お前たちが彼女と同じようにあの子までもを利用しようというんなら、俺はこの場であんたを潰す」
「なにか誤解していないか。あの女は自ら進んで俺たちのところへ飛び込んできたんだ。俺たちが巻き込んだわけじゃない」
「だが近い将来そうならざるを得なかった、そうだろう!彼女は家族を護るためにそうするしかなかったんだ!お前たちはそんな彼女を利用するだけ利用して殺した
俺は絶対に許さない。あいつの命だけでは飽き足らず、今度はあの子の人生まで!」
今度こそ覚悟を決めて、かざした杖をしっかりと構える。男はやれやれと肩を竦め、影の差したその唇で薄く苦笑してみせた。
「そうか。残念だな。お前とは、良いパートナーになれると思っていた」
「ほざくな。あの子は絶対に渡さない」
「彼女はお前のものじゃない。それを決めるのはあの子供自身だ、そうだろう?」
「大層な自信だが
あの子は、お前たちのものにはならない。決して」
それを契機にというわけでもなかろうが、男が瞬時に杖を抜いたのを見て、彼もまた突き出した杖を振るう。
互いに放った光線が空中で激しい熱波を発して煌いたその瞬間、左腕に抱えた花束が、かすれた音を立てて地面に落ちた。