「ここに書いてあるように」
試験前、最後の変身術の授業で、マクゴナガルは黒板に書いた試験の日付と時間割を示してはきはきと言った。
「皆さんのOWLは二週間にわたって行われます。午前中は理論に関する筆記試験、午後は実技です。天文学の実技試験は、もちろん夜に行います」
ここのところ少し視力が落ちたらしいとぼやいていたスーザンが、三日目の午前中は何かと小声で聞いてきた。
「警告しておきますが、筆記試験のペーパーにはもっとも厳しいカンニング防止呪文がかけられています。自動解答羽根ペンは持ち込み禁止です。思い出し玉、取り外し型カンニング用カフス、自動修正インクも同様です。残念なことですが、毎年少なくとも一人は魔法試験局の定めたルールをごまかせると考える生徒がいるようです。それがグリフィンドールの生徒でないことを願います」
肘をついてぼんやりしていたは、前方のピーターがぎくりと身を竦める後ろ姿を見た。
O.W.L.
怒涛の二週間
試験第一日目の朝、五年生と七年生はやたらと口数が少なかった。ただグリフィンドール寮には数少ない例外がいて、テーブルの向こう端に座っているジェームズとシリウスは普段と変わらず
ジェームズはむしろいつも以上に饒舌だった。「OWLなんてどうってことない」、「時間を割くのも馬鹿らしいくらいだ」……緊張のあまり神経が張り詰めていたは、このときほどジェームズの大口を憎いと思ったことはなかった。離れたところにディアナたちと座っていたリリーも、広げた教科書に黙って目を通しながらその口元を苛立たしげにひくつかせている。は泣き出したい思いでうんざりと頭を抱えた。もう……戻れない。もう、どうにもならないんだ。
「そろそろ行きましょうか」
いつもは朝食にトースト四枚をぺろりと平らげるスーザンが、一枚も食べきらないうちに手を止めて席を立った。も食欲はなかったが、カボチャペーストをぬったトーストを一枚なんとか口に押し込んで、メイやマデリンと一緒にあとを追う。途中シリウスたちの後ろを通ったが、気付かない振りをしてそのまま通り過ぎた。
たちは全員の朝食が終わるまで、玄関ホールを出た石段の上で互いの緊張を解すために試験にはまったく関係のないお喋りをして過ごした。マデリンは魔法薬学の最後の確認をしたがったが、そんなことをしたら余計に混乱するといってスーザンが彼女の持っていた教科書やノートをすべて取り上げてしまった。
「準備が整いました。グリフィンドールの五年生は大広間に入ってください」
やがて、ホールからマクゴナガルの声が聞こえてきた。
魔法薬学という出だしのせいで幸先がよいとは言えなかったが、それでもはそれなりの手応えを掴むことができた。筆記試験は思った以上に難しかったが(絶対に聞いたことのない薬品の名前があった!)、午後の実技はなかなかの出来栄えだった。一週目はその後、呪文学、魔法生物飼育学、魔法史と続き
金曜は数占いと占い学だったので一日休みだった
残すところは、あと半分。
「かんぱーい!」
金曜の夕食時、たちはカボチャジュースで互いの労をねぎらった。浮かれ気分になるにはまだ早いが、そうでもしないと数占いで思い切り躓いたらしいマデリンがショックで倒れてしまいそうだったのだ。彼女は親に勧められたグリンゴッツへの就職を目指していた。
「大丈夫、失敗したって思ってたほうが意外とよくできてたりするじゃない!」
「……それじゃあ、はどうだったのよ?」
「え、わたし?は、うん、そうだね……まあ、そこそこ」
「ほら!だめなときはだめなのよ、もう私、おしまいだわ!」
「大丈夫だって、結果が出るまで分かんないじゃない」
「大体、スーザンのせいよ!あのときちゃんと確認してたらあの公式忘れることなんかなかったのに!」
「は?人のせいにしないでよ!直前には復習しないってみんなで決めたじゃない」
向かいに座ったスーザンとマデリンが火花を散らして睨み合いを始めたので、はメイと顔を合わせて嘆息しながらもう一度カボチャジュースでささやかに乾杯した。まったく、この一年という年月はまさに異常だった。平生の常識が通用しないような、狂った時間の流れ。それがただ、この試験のために引き起こされたのだとすれば。
それもあと、一週間で終わる。
たまたま隣に座っていたイアンのゴブレットが空だったので、は近くのピッチャーからカボチャジュースを注いでやった。さんきゅ、と言ったその頬が心なしか赤くなるのを見て、居心地の悪い思いで顔を逸らす。そのとき、イアンよりもずっと向こうのテーブルにいたシリウスと不意に目が合って、心臓が飛び上がった。彼はすぐに何事もなかったかのようにジェームズたちとの談笑に戻っていったのだが。
人知れず肩を落として、声には出さずにうめく。やっぱり私、まだシリウスのことが好きなんだ。
あなたはまだ、私のことを思ってくれていますか。
週明けは天文学の筆記試験から始まった。土星の衛星の名前をいくつか忘れたが、他は十分に自信をもって書けた。午後は薬草学、そして夜は天文学の実技。観測には打ってつけの、静かな夜だった。満月が近く、明るい銀光の差し込む天文台の上で、生徒はそれぞれに望遠鏡を設置し、試験官の合図で配布されていた星図に書き入れ始めた。
けれどもは、望遠鏡を覗きながらも心は半分上の空だった。ここはジェームズやシリウスと、いろんな話をして過ごした場所。リーマスが探しにきてくれたのも。いきなり、シリウスに抱き締められて混乱したのも。
「はい、羽根ペンを置いて!」
フリットウィックのキーキー声で、は我に返った。火曜の午前は防衛術の筆記試験で、これはさほど問題なかった。気になったのは第十問、『狼人間を見分ける五つの兆候を挙げよ』。リーマスの秘密を知ってから、人狼についてはがむしゃらに勉強したので試験問題としては簡単な部類だったが、なにもこの年に限って出題する必要はないだろう。試験終了後にジェームズたちと大広間を出て行くリーマスの後ろ姿は、満月が近いせいだろうがいつもにもまして疲れきっているように見えた。
「終わった!あとは実技と
変身術ね」
広間の出入り口でちょうど鉢合わせになったスーザンが、大きく伸びをしながら言った。メイやマデリンを待っている間、はうっすらと汗のにじむ額に手のひらで風を送る。
「私は明日ルーン語があるよ。実技が終わったらラナたちのとこ行ってくる」
「あらー大変ねー」
まったく感情のこもらない声でそう言って、スーザンは遅れて出てきたメイたちを手招きした。昼食のために大広間の試験用机を片付けていつもの長テーブルが出されるまで、校庭でしばしの休息を楽しむ。空いている湖の畔に向かって気楽にお喋りしながら歩いていると、少し離れたところから大勢の笑い声が聞こえてきた。
「なにかしら」
メイが声のしたほうを振り返る。そこには人だかりができていて、は否応なく数ヶ月前にほとんど同じ場所で起きた騒動のことを思い出した。まさか……そんな?
けれども続いて聞こえてきた呪文は、そのことをはっきりと示していた。また、ジェームズの声だ。
「ペトリフィカス・トタールス!」
再びどっと笑い声が起こり、そしてそれに甲高いリリーの叫びが続いた。
「彼に構わないでって言ってるでしょう!」
まさか、そんな。まったく同じことが、またしてもこの場所で。わけが分からず首を傾げるスーザンたちを押しのけて、は急いで人だかりのほうへと駆け寄った。背の高い男子生徒たちの隙間を縫って、少しずつ中に潜り込んでいく。やっとジェームズの顔が見えるところまで進むと、彼はリリーに向きなおって、しごく真面目そうな顔をしてみせた。その頬には、一筋の傷跡と血の滴る筋がある。
「ああエバンス、君に呪いをかけたくないんだ」
「それなら彼の呪いを解きなさい、今すぐ!」
どうやら今度のリリーはこらえきれずに杖を出しているらしい。脅しつけるようにそれを上向かせると、ジェームズは嘆息混じりに杖先を下に向けて反対呪文を唱えた。ここからでは見えないが、そこにスネイプがいるようだ。
「ほらよ」
スネイプがふらふらと立ち上がると、ジェームズは意地悪く笑った。
「スニベルス、エバンスのお陰で命拾いしたな」
すると、ぐしゃぐしゃに乱れた脂っぽい髪を掻きむしりながらスネイプが吐き捨てた。
「あんな穢れた血の助けなんて、僕には必要ない!」
な
なんだって!一瞬、耳を疑った。スネイプが、あのスネイプがリリーに向かって、なんと言った?
こちらに背を向けているリリーがどんな顔をしているかは分からないが、彼女はしばらく黙りこくっていた。だがやがてひっそりと告げられたその言葉は、あくまで冷静そのものだった。
「結構よ。よく分かった、これからは邪魔しないわ。それからスニベルス、パンツは洗濯したほうがいいわね」
「エバンスに謝れ!」
どうしてパンツの話になったのかは分からないが、だがなんにせよ、怒り狂っていたのはむしろジェームズのほうだった。スネイプのほうに杖を突きつけながら、まるで見たこともないほど激しい調子で喚き散らす。リリーはそちらに向きなおって冷ややかに告げた。
「あなたからスネイプに謝れなんて言ってほしくないわ。あなたもスネイプと同罪よ」
「えっ?だ、だって僕は、一度も君のことを
その、なんとかかんとかなんて……」
「あなた、前に聞いたことがあるわね。僕のどこが嫌いかって。教えてあげるわ。かっこいいと思ってるのか知らないけど、箒から降りたばかりみたいに髪をくしゃくしゃにしてみたり、スニッチなんかで見せびらかしたり。気に入らないからって廊下で誰彼呪いをかけたり、自慢話ばっかり大きな声でしてみたり。そんな思い上がりのでっかち頭を乗せて、よく箒が離陸できるわね。あなたを見てると心底吐き気がするわ!」
ジェームズが呆然と目を開いているうちに、リリーはまるで用意していたかのようにつらつらと言い放った。そして同じくポカンとしているクララやディアナを置いて、そのままひとりで城に戻っていく。ジェームズが二、三度呼びかけても、彼女は決して振り向かなかった。
やっと我に返ったジェームズは、今度は憤怒の形相でスネイプに杖をかざした。すると淡い閃光が走り、スネイプの身体が足首を掴まれて宙吊りにでもなったかのように浮き上がる。その灰色のパンツが剥き出しになったのを見て、は先ほどリリーが言っていたことを理解した。
「よーし、誰か僕がスニベリーのパンツを脱がせるのを見たいやつはいるか?」
再び笑い声が起こり、やれやれと囃し立てる声、手のひらを打つ音がしきりに鳴り響く。はむかむかと込み上げてくる感情を抑えることもせず、周りの生徒たちを半ば薙ぎ倒すほどの勢いで押しやりながら前に出た。そこで初めて、ジェームズの後ろに立っていたシリウスやピーター、木陰に腰掛けたリーマスの姿を捉える。リーマスはばつの悪い顔でさり気なく目を逸らし、ピーターは慌てた様子でシリウスの陰に隠れた。
ジェームズはこちらの顔を見てはっと息を呑み、シリウスは杖を握ったまま顔色ひとつ崩さない。聴衆たちは場の空気が一変したことに気付いて急に静かになった。
「下ろしなさい」
宙吊りになったままもがくスネイプを顎で示して、告げる。ジェームズは身振り手振りで必死になって自らの正当性をアピールしようとしているかのようだった。
「で、でも、こいつがさっきエバンスに……」
「下ろしなさい!」
吠えるように繰り返すと、ジェームズはすぐさま杖を振ってスネイプを地面に落とした。鈍い悲鳴をあげてうずくまるスネイプのもとに歩み寄って、その傍らに膝をつく。スネイプの杖は彼の手を離れ、少し距離のあるところに転がっていた。
泥だらけの顔を上げて、スネイプが憎々しげにうめく。
「……余計なことを」
「あ、そう。それはごめんなさいね」
ぼろぼろの身体を引きずるようにして起き上がったスネイプの頬に、は容赦なく平手を叩きつけた。少しべたついた手のひらを地面の草で拭いながら、驚きと怒りに満ちたその暗い瞳を睨みつける。聴衆たちもまるで意表を突かれたように唖然とした。
「悪く思わないで。リリーの分」
そして
嫌で嫌でたまらなかったが、仕方なく、その耳元に少しだけ顔を近付ける。饐えたような汗と薬品の臭いが鼻の奥をついた。彼にしか聞こえない声で、ささやく。
「あんたなんかに、リリーを愛する資格なんてない」
黄色い歯の奥でなにかを言いかけたスネイプの範囲から逃れるように、はさっと立ち上がった。周りをぐるりと取り巻く生徒たちがこちらの殺気に押されたように、一歩、また一歩と後退する。それに追い討ちをかけるようにしては声を荒げた。
「見世物じゃないのよ!」
人だかりが散り散りになっていくのに紛れて、もスーザンたちのところへ戻った。立ち去る直前に、少しだけシリウスのほうを見たが
俯いた彼の顔には長い前髪がかかり、その表情を窺うことはできなかった。