もしかしたら、と淡い期待を抱いていた。もしかしてこの手に黄金のスニッチを掴めばまた、彼女が戻ってきてくれるのではないかと。けれどもそれは期待とも呼べない、むしろ幻想に近いものだったのかもしれない。

少し離れたところに降り立ったレグルスは、息を切らせ、激しい感情を宿してこちらを睨みつけている。そちらに歩み寄りながら、スニッチを持ち替えて空いた右手を差し出したが、彼はフンと鼻を鳴らして通り過ぎていった。

続いて見渡した、沸き立つスタンドに    彼女の姿は、見当たらなかった。

We are in a Wood

迷い

もしかしてあのとき、ふたりが素直に悪かったと言ってくれていたら。行き過ぎた、もう二度とあんなことはしない。そう、誓ってくれたならば。そう願うことが、間違いだったのだろうか。私が、あんなことを話さなければ。
だけど、ジェームズは    リリーのことで、本当に深く悲しんだり、喜んだり。そんな彼の気持ちを、ほんの少しでも穏やかにすることができればと。ただ、それだけだった。

悲しかった。悔しかった。私が悪い。ジェームズたちも悪い。それは分かっているけれども    あんな、スネイプのせいで。リリーの『大切な』友達。それは知っている。だがどうしても、彼の醸し出すあの禍々しさを度外視することはできなかった。

(……私、どうすればいいの)

図書館の一角でひとり、広げた教科書の上に突っ伏してため息をつく。あの日以来リリーには完全に無視され、ジェームズやシリウスとは互いにそれとなく避け合うようになった。すべてがうまくいきそうに見えていた。それなのに、築き上げてきたものはあんな些細なことでほんの一瞬にして崩れて落ちていく。クィディッチの決勝、スリザリン戦にもは生まれて初めて観戦に行かなかった。時折、競技場のほうから遠い歓声が聞こえてくる。

顔を上げ、ノートに挟んだ銀色のブックマークをぼんやりと眺めて。込み上げる悲しみに、きつく瞼を閉じた。最近やたらとノートの数が増えてしおりが足りないとぼやいたのを覚えていたシリウスが、クリスマスにクローバーのマグカップとセットで贈ってくれたのだ。日にかざすと透き通って、雪のようにきらきらと反射する。
しあわせだった、たしかに    だいすきだったのに。

悔し涙がにじみかけたとき、少し離れたところのドアが開く音がした。誰だろう、今日はクィディッチの決勝戦だというのに。何とはなしに振り向いたは、本棚の隙間からこちらのほうへ向かってくる一人の男子生徒の姿を垣間見た。こちらの通路に向かって歩いてくる途中、彼もこちらの存在に気付いたようだったが、すぐに目を逸らしてまったく進む速度を変えない。そして後ろを通りかかったとき、は思わずその男を呼び止めた。

「ス、ネイプ」

すると二、三歩進んだところでようやくスネイプは足を止めた。大儀そうに振り向いて、眉をひそめる。

「何か用か」
「あの……その、ごめん。こないだは、その……ジェームズたちが、ひどいこと」
「ふん。口では何とでも言えるな。あんたに謝られたところで何の足しにもならない」

こちらが下手に出たと思えば。けれどもここで言い返してまた厄介なことになるのも嫌だったので、は仕方なく開きかけた口を閉じた。

「でも、だけどその……ジェームズも、リリーのこと本気なんだよ。いや、えっと、こんなのあなたに言うのはおかしいけど……だから、その……分かってなんて言わないけど、でも……人を好きになると、誰でも馬鹿になるっていうか、だからその、」
「それが言い訳のつもりか」

冷ややかに、貫くように。スネイプの一言で、はいまだに彼らの行為を正当化しようとしている自分を恥じた。どんな理由があろうとも、彼らのしたことは人として許されない    それだけは、弁えているつもりだった。

「美しい友情だな。それともあんたもその恋とやらで『馬鹿』になってしまったわけか」
「な……あんたに言われたくないわよ!私たちのことなんか、何にも知らないくせに」

もう、我慢できなかった。身体ごと椅子の上で振り向いて、たたずむスネイプを睨みつける。彼もまたその暗い瞳に深い侮蔑の色を浮かべてフンと鼻を鳴らしてみせた。

「そうかな。熱をあげるあんたにはきっと見えないものが僕には見える。奴は臆病な卑怯者だ。ひとりでは何もできやしない」
「な、何ですって?」
「奴は必ずブラックといるときしか僕を攻撃してこない。ひとりのときは気付かない振りをして通り過ぎるんだ。ひとりでは何もできない、臆病者だからだ」

言っていることは    分からなくも、なかった。いつも自信満々のジェームズ。けれどもリリーのことになると、途端に自信を失って不安そうに小さくなるのだ。だがそれをスネイプの口から聞かされるのは甚だ不愉快で、は手元の教科書やノートを素早く片付け始めた。それらを脇に挟んで立ち上がり、言い放つ。

「ジェームズたちがこれまでどんなふうにあなたにちょっかいかけてきたかは知らないけど、あの日の行為はさすがにやり過ぎだったと思う。だけどだからってあなたが彼を臆病者呼ばわりするんだったら私は許さないわよ」
「結構なことだ。あんたに認めてもらおうなんて思ってない。せいぜいその美しい友情を大事にするんだな」

嘲るように唇を歪めたスネイプを押しのけて、は足早に図書館を去った。そんなことは、あんたに言われるまでもない。
けれども    どうすればいいか、分からなかった。
、元気にしているか。先週までアフリカにいたのでこちらはまるで天国のようだ。だがそちらはもっと涼しいのだろうな、うらやましいよ。そういえば    

最後に届いたフィディアスからの手紙をそっと畳みながら、は窓の外を見た。OWL試験まで、あと一週間。最後の課題を済ませるために、はこのルーン語の教室でレイブンクローの友人と待ち合わせをしていた。澄み切った空には夏らしい雲が浮かび、こんな状況でなければ外に飛び出して日向ぼっこでもしたいところだ。

、遅くなってごめん。フリットウィックの補講が長引いちゃって」
「ううん、私もさっき来たとこだから平気」

不意に教室に入ってきたラナとフィービーに見えないように手紙を仕舞いながら、は首を振った。ふたりは真っ直ぐにこちらにやって来て、そばの机を二つくっつけて椅子を並べる。そこに座って教科書を広げながらフィービーが言ってきた。

「そういえばさっき上でブラック見たけど、一緒にやらないの?」

するとこちらが答えるよりも先に、ラナがそっとフィービーに目配せして、なに無神経なこと言ってんのよバカ!とかなんだとか小声で囁いた。けれどもフィービーはまったく悪びれた様子もなく、むしろなにも疚しいことはないとばかりに大きな瞳でこちらを向いた。

「ねえ、ブラックと別れたの?違うわよね、喧嘩くらい誰だってするわよ、そうでしょ?」
「……喧嘩、ねー。うーん、さあ。どうなんだろう」

気のない返事をして、は教科書のページを何枚か前にめくった。課題のページを探しながら、適当な言い訳を模索する。だがうまく言葉を見つけられないでいると、ラナが躊躇いがちに口をひらいた。

「それよりリリーとも喧嘩したって聞いたけど?どうしたの、あんなに仲良しだったのに」
「そうそう、それであなたとリリーとブラックの三角関係なんて言われてるの、知ってる?」

平然とそんな口を挟んできたフィービーを、またあんたってば!とラナが睨みつける。そんな噂は聞いたことがなかったので、は思わず噴き出してしまった。けれどもそんな気持ちも、すぐに萎えていく。根も葉もない、つまらない噂話だ。だが大好きなふたりと遠く離れてしまったことは……その、とおり。
しょんぼり項垂れたを見て、ふたりは慌ててもう幾度となく聞いてきたありきたりな慰めをはじめた。

「で、でも大丈夫!そう、人生長いんだもの!喧嘩の一度や二度誰だってするわ!」
「そう、たとえ親友に恋人取られたって男なんてこの世にごまんと    
「あんた!」
「……」

噂は噂で、そりゃあそんなことがほんとにあったんならショックだろうけど。
そうじゃなくても    やっぱり、つらいよ。
「ここ、いいかな」

見つめる小難しい文字の羅列に影を落としたのは、向かいの席にそっと手をかけたリーマスだった。こちらが頷いたのを見て、静かに微笑みながらその座席に腰を下ろす。彼はそのまま変身術の教科書を広げて熟読し始めたので、も再びルーン語の復習に戻った。
こうして二人きりになるのはずいぶん久しぶりだったので    ふと、遠い日に、彼の言動に一喜一憂していたときのことを思い出した。そういえば私、リーマスのことが好きだったんだ。

「手が止まってるよ?」

淡い記憶に浸っていたは、唐突に聞こえてきたリーマスの声ではっと我に返った。見上げるとその薄茶に光る瞳が優しく微笑んで真っ直ぐに見返してくる。思わずどきりとして慌てて目を逸らした。くすりと笑って、リーマス。

「いや、ごめん。邪魔しようと思ってきたわけじゃないんだ」
「ううん……邪魔なんて。やっぱりひとりでやってても……なんか、身が入らないっていうか」
「だったらシリウスとやればいいのに」

リーマスはさらりと言ってきたが、こちらが口を噤んだのを見てすぐにばつの悪い顔をしてみせた。さほど読んでもいない教科書を閉じて、そのまま脇に置く。

「ごめん。分かってるんだ、その……喧嘩、したんだろう?」

喧嘩、というのだろうか。二度と引き返せないとしても    それは、喧嘩と呼べるのだろうか。

「ひょっとして、と思うんだけど……スネイプと、ジェームズたちのことかい?」

自然な響きでそう問われて。は息も忘れ、呆けたように何度か瞬きした。どうして……。
けれども同時に、そのことに妙に納得している自分にも気が付いた。あのときもそうだ。リーマスは、こちらが何も語らずとも多くを推し量る。そうして自分を護ってきたのだろう。だが    今は。
彼はさり気なく目を逸らして、ふと窓の外に顔を向けた。何を見出したわけでもなかろうがそちらを見やりながら、続ける。

「彼らの間に何があったかは知らないけど    僕には、どうすることもできない。ジェームズたちがあんなにも執拗な攻撃を繰り返すからには……なにか大きなことが、あったんだろうけど」

は何も言わずに黙って下を向いていた。私は彼に、何を期待していたのだろう。どうすることもできないこの現状を打開してくれるのではないかと    そんな、こと。自分は何も、できないくせに。
再びこちらを向いたリーマスは、憂いを帯びたその瞳を半分ほど瞼の奥に覆い隠し、縋るように口をひらいた。

「君しかいないんだ、。あのふたりを止められるのは。あんなこと……僕だって、見るに忍びない」
「無理だよ」

は即答した。考えるまでもなく、それは自然と出てきた言葉だった。リーマスが僅かに瞼を開くのを、見る。

「私が言っても聞かなかった。だから喧嘩別れしたの。もう……無理だよ。リーマスの言うこと聞かないんだったら、誰の言うことも聞かないよ」
「……僕は」

ひらきかけた唇は、形のない何かを求めてやがてそのまま閉ざされた。もそれ以上の言葉を見つけられずに口を噤む。ふたりは黙って窓の外を見た。
このまま時が、止まってしまえば。あの頃の切ない気持ちに、戻れるのならば。

見つめた小さな雲が視界から完全に消え去ったあと、はようやく窓ガラスから顔を逸らした。

「リーマス。前に話してた、キャンプのことなんだけど」
「うん?」

ゆっくりとこちらに向きなおったリーマスは、彼女が続きを口にするよりも先にそっと手を出してそれを制した。

「分かってるよ。シリウスたちがこなければ、意味がないものね」
「……ごめん。でも、そういう意味じゃ」
「大丈夫、分かってる。ピーターにも僕から伝えておくよ。ごめんね、勉強の邪魔をして」

言って、リーマスは静かに席を立った。哀しげな笑みを残し、そのまま背中を見せて去っていく。その後ろ姿が完全に見えなくなるまで見送ってから、はようやく息をついた。広げた両手で顔面を覆って、続けてもう一度だけ嘆息を漏らす。

不思議と涙は、出なかった。
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(08.07.21)
原作では「四人でいるときだけ」。