「シリウスはまたジェームズのところ?」
羽根ペンの後ろを唇の先で咥えたまま、シリウスは器用に「いや」と答えた。クリスマス休暇を目前にして各教授から出された山のような課題は、ほとんど一日中机にかじりついていても終わりが見えない。中でも特に分量の多い古代ルーン語は、休暇前にやれるだけやっておこうとはシリウスを誘って図書館にきていた。単語の意味は分かっても長い文章になると意味がどこで切れるのか、この関係詞はどこまで続くのかといったことがまるで見えてこない。三年生の頃は好きだったのにな……。その点、シリウスはもともとそうした語学のセンスがあるようだった。もちろん、頭の出来がそもそも違うというのが一番大きいのだろうが。
「え?それじゃあクリスマスはどうするの?」
「残るんだろ、お前」
「あれ、言ったっけ?」
「いや……リーマスが、エバンスから聞いて」
あ、そっか。リリーは監督生会議でよくリーマスと顔を合わせていたので、そちらから情報がいくこともあるのだろう。特に……リリーのこととなれば。
「それじゃあシリウスも残るの?ええと……ひょっとして、ジェームズも?」
するとシリウスは少しうんざりした顔で頭を掻いた。
「まあ、あいつは試験勉強しなきゃなーなんて抜かしてるけど。十中八九エバンスが残るからだろ」
「そっか……うん、ちょっとでもいい方向にいけば……いいんだけど、なぁ」
ちょっと、気が重い。ほとんどの生徒が帰宅してすっからかんの寮の中に、ジェームズとリリーがいるだなんて。
シリウスは言いにくそうにしばらく椅子の上でごそごそ身じろぎしていたが、やがてこちらに少し身を乗り出してひっそりと聞いてきた。
「お前から見てどう思う、あいつ、望みありそうか?」
「えぇ……えと、その。うーん……」
ありそうにない。なんて言ってしまえば身も蓋もない。適当な言葉を探して口ごもっていると、それだけで「ああ分かった」といってシリウスは後方に身体を戻した。
「で、でもねこないだジェームズにはちょっと話してみたんだけどね、みんなでキャンプなんてどうかなって」
「ん?」
「ほら、次の夏にでもみんなで日本にって話してたじゃない。それにね、リリーも誘ってみようかななんて」
「……それ、エバンスくるか?」
うう、さすがシリウスはそのへん客観的。
「それは、まだ分かんないけど」
「まだ話してないのか?」
「……うん。きっかけが掴めなくて。だいぶ前だけど、ジェームズにもいいとこあるんだよって話しただけで何か企んでるのかって怒られた」
「よっぽどだな、それ」
「でもね、こういうのどうかな。クリスマス休暇ふたりとも残るんだったら、そこでリリーにジェームズのちょっといいとこ見せるの!」
ちょっといいとこ、って。シリウスは胡散臭そうに目を細めたが、は怯むことなく続けた。
「でもそれ成功したらキャンプの件だってずっとやりやすくなると思うんだよね。だからこれは……ひょっとしたらチャンスかも。ねえ、ジェームズのことちゃんと見張っててね?休暇中に変なこと仕出かさないように」
するとシリウスは先手を打たれた問題児よろしく実に苦々しい顔をした。え、まさか……。
「まさかもう休み中に何か仕出かす予定だった?」
「あ、いや……ないない、ああ、気をつけるようにしとく」
「ほんと?」
「信じろって」
別に、疑っているわけではないけれど。悪戯に関しては、常習性のある彼らの心配をするのはごくごく当たり前のことだろう。
せめて休暇中くらいはおとなしくしていてくれれば。
そしてその間に、何かリリーをはっとさせるような出来事でもあれば。
しばしルーン語から離れて『ジェームズいいとこ作戦』を思案し始めたは、向かいのシリウスが難しい顔で眉をひそめて窓の外を見たことに気付かなかった。
I'm being Deadly Serious
ジェームズ・ポッターの告白
「、図書館に行かない?」
クリスマス休暇をグリフィンドール塔で過ごすのは、たち五年生が数人と、同じ理由で七年生が数人。あとは家庭の都合で帰れない四年生がひとり、計九人だった。がらりとした談話室の隅、借りてきた本を山積みにしたテーブルで魔法史の課題と戦っていたは、呼びかけられてぎくりと身を強張らせる。
「あ、や、その……ご、ごめん。この後、シリウスにルーン語教えてもらうことになってて」
「あら、そう。それじゃあ、後でね」
少し肩を落としながらも、リリーは何の疑いもなく談話室を出て行った。ご、ごめん、リリー。嘘はついてないの、嘘は。だけど……。
やがて、男子寮からいそいそとジェームズが下りてきた。その手にマグル学の教科書を抱えて、心なしか火照った頬を、緊張のあまりひくつかせている。こんな状況でなければ大いに楽しめただろうが。
「……行ったよ」
「う、うん、分かった。ありがとう、!」
「変なことしないでよ?いい?あくまで誠実に、真っ直ぐに、だから。おちゃらけちゃったらおしまいだと思って」
「おしまいって……分かった。がんばる」
ぎこちない笑顔で頷いてから、ジェームズはリリーのあとを追いかけていった。はあ、と大きく息をついてそのままテーブルに突っ伏す。
どうか、うまくやってくれますように。
グリフィンドールの五年生で、城に残ったのは僕とシリウスを含めて四人だった。僕とシリウス、、そしてエバンス。
はこの休暇を使って、なんとかエバンスと僕の距離を近付けようといろいろ考えてくれていたようだが、エバンスはほとんど図書館に入り浸って談話室には留まらないし、食事中に話しかけてもあっさりとかわされてしまう。これだけ嫌われていたらもうどうにもならないかも……とへこむ僕に、は最後の提案を持ちかけた。
「ねえ……いっそ、先に告白しちゃったら?」
えっ。考えたことも、なかった。何よりも、先のことは仲良くなってから考えろと言ったのはのほうだろう?
「うん、そう思ってたんだけど……なんかそれはもう、あんまり期待できそうにないっていうか」
うう、相変わらず直球だなぁ。
「だからね、先にジェームズの真面目な気持ちを伝えるの。口できちんと伝えてから
あとは、行動でそれを実証するのよ」
本気で言っているのだろうかと訝ったものの、はあくまでも真顔だった。そうだ、彼女は真剣に……僕のこの恋を、応援してくれている。
そして僕は、彼女のその提案を受け入れることにしたのだ。エバンスがひとりで図書館にいるときを見計らって、話しかける。かわして逃げられるよりも前に、自分のこの今の思いを伝えようと。
足音を忍ばせて、慣れない図書館に踏み込む。マダム・ピンスの鋭い視線の前をなんとか通り抜けて、ひとりで勉強しているはずのエバンスの姿を探した。
彼女は入り口からしばらく歩いた小さなテーブルに、数冊の本を広げてせっせと羽根ペンを動かしていた。
「あの……エバンス、今ちょっといいかな?」
そ、っと声をかけると、彼女はぴたりとその手を止めたが、こちらを向くまでにはしばしの時間を要した。いかにも大儀そうに、振り返る。
「なに?今、取り込んでるんだけど」
「あ……邪魔して、ごめん。その……よかったら、一緒にマグル学の勉強でも」
するとエバンスはすぐさまぶすっとした顔をして手元の本に視線を戻した。
「ごめんなさい、今は変身術の宿題をやってるの。それにあなたなら、私の力なんて借りなくてもひとりで勉強できるでしょう」
「へ、変身術?だったら一緒にやろうよ、僕、変身術は得意なんだ」
「結構よ。もうすぐ終わるの」
ああ、なんてことだ!近付くこともできない。でも、でもせっかくが作ってくれた機会を、ここで無駄にするわけにはいかない。覚悟を決めて、ジェームズは前へと足を進めた。不意を衝かれて顔を上げるエバンスの隣に、さっと腰を下ろす。なんなのよ、と眉をひそめる彼女を真っ直ぐに見つめて、口をひらく。
「エバンス……その、大事な話があるんだ」
「……何なの?言ったでしょう、私、今取り込んでるのよ」
「ごめん。だけど後でって言っても、エバンス、逃げるだろう?」
言うと、ぴくりと唇を動かしたエバンスは心外だと言わんばかりに刺々しく眉根を寄せた。
「失礼ね。私がいつあなたから逃げたっていうのよ」
「逃げてるじゃないか。だって僕はずっと話がしたかったのに」
「あなたと話なんてありません。ひとりで勉強したいの、どこかに行ってくれないかしら」
「エバンス、聞いてくれ。僕は
君が好きなんだ」
思えば、これが人生初めての告白。けれどもエバンスは一瞬その大きな目を見開いただけで、すぐに呆れたようにうんざりと嘆息してみせた。
「……そういう冗談は、相手を選んでしてくれない?」
「冗談なもんか。ずっと君のことが気になってたんだ。もちろん、今すぐになんて言わない。でも……いつかは君のそばで、一緒にいられたらって」
「今すぐでもいつかでも、生憎だけどお断りします」
「……誰か好きな人が、いるの?」
「そういう問題じゃないのよ。私はあなたを好きじゃないと言ってるの」
素っ気ない言葉をずばずばと言ってのけるその唇に、あの男が触れたことがあるのだと思うと
今すぐにでも抱き締めて、僕のこの唇で消し去ってしまいたいという思いが込み上げてくる。けれども。
理性を最大限に振るって、なんとか衝動だけは抑え込む。ここで押し倒せば、それこそ「おしまい」だった。だってきっと、失望するだろう。あの男と同じだって。
「エバンスは……僕のどういうところが、嫌い?」
こちらの存在を無視しようと決めたのか、無言で手前の本を捲りはじめたエバンスは、彼が身じろぎもせずに待っているのでとうとう痺れを切らせて身体ごとこちらを向いた。
「あなたがを好きなことに、明確な理由はある?」
「……え?」
「あなたがブラックと仲良しなのにちゃんとした理由はある?そういうことなのよ。あなたがこうだから好きじゃないとか、ここが嫌いとか。挙げようと思えばいくらでも挙げられると思うけど、そんなのは後からのこじつけに過ぎないと思うの。フィーリングって誰にでもあるでしょう。だから、申し訳ないけど
私にそんなつもりは、ないから」
これって、どうしようもない。嫌いなところを指摘されればまだ直せるかもしれないけど、フィーリングと言われれば返す言葉がなくなってしまう。しょんぼりと項垂れたジェームズは、仏頂面で再び課題に戻っていったエバンスの横顔を見ながらそっと椅子から立ち上がった。どうしようもない。けれども、このまま、はいそうですかと引き下がるわけには。
「ねえ、エバンス。知ってる?とシリウスだって、最初は二人ともお互いのことが嫌いだったんだよ。君だって、昔はのこと好きじゃなかったんだろ?」
羊皮紙の上を滑る羽根ペンの先が、ほんの少しだけ触れて歪んだのをジェームズは見逃さなかった。もっとも、とシリウスは相手が自分のことを嫌っているとただ思い込んでいたに過ぎないのだが。
「僕、諦めないから」
そして汗ばむ手のひらで抱えた教科書を持ちなおして、図書館をあとにした。
「……ジェームズ、遅いね」
ぽつり、とが呟いたのは、三つ目の長文を訳し終えたときだった。二人きりの談話室、出入り口のほうをぼんやりと見やりながら、続ける。
「うまくやったかなぁ」
「うまくって言ってもなぁ……望みないって言ったのお前だろ?」
「ないとは言ってないよ。ただ……限りなく……って、言っただけで」
唇を尖らせて、ぶつぶつと言い返してくる。お前のその「限りなく」は、「限りなくゼロに近い」ってことだろ。
「でも、リリーだって人間なんだから、真剣に告ったら……ちょっとくらいは、届くと思うんだけどな」
あとはそれを確信に変えさせるだけの、ジェームズの行動力。はそう言いながら、のろのろとソファから立ち上がった。
「シリウスもココア飲む?」
「おう、さんきゅ」
しばらく机に向かっていて甘いものが欲しくなると、自然とがそれを察したかのように温かいココアを淹れてくれる。もしくは、たまたまお互いのタイミングが合うのか。ふとしたとき、そんな些細なことに気付くだけで、シリウスは自分が世界一の幸せ者だと感じるのだった。まさか女のことで、こんな気持ちになれる日がくるだなんて。本当に大切なものは、こんなにも近くにあったのだ。
「はい、どーぞ」
「さんきゅ。少し休むか」
「うん。今日はすごく頑張った気がする」
「そうだな、俺も疲れた」
手渡されたマグカップは、今年の誕生日にからプレゼントされたものだった。プリントされているのは日本のキャラクターかなにかで、灰色の丸い身体に大きな目、にやりと見せた歯が印象的なわけの分からないクマ。ホグズミードではなく日本で買ったものだということが
彼女がそれを夏から準備していてくれたのだということを示唆していて、また幸せな気持ちになったものだ(その趣味はともかく)。
そしてのマグカップは、このクリスマスに俺がプレゼントしたもの。
「どうしたの?」
知らず知らずのうちに、が両手で包んでいるカップを凝視していたらしい。咳払いで適当にごまかしながら、シリウスは自分のココアを口に運んだ。と。
「あっ、つ!」
「ちょ、シリウス!もう、猫舌なんだからちょっとは学習してよ」
ひりひりと痛む舌を口内でなぞりながら、シリウスは小さくうめいた。にはまだ秘密だが、アニメーガスで犬になりかけている自分(まだ完璧ではない)が猫舌とは、笑える。これでまたしばらくはこの鈍い痛みを戦わねばならない。
しょうがないな、と言いながらはこちらの手からマグカップを取り上げて、湯気の立つココアに息を吹きかけだした。俺が痛みと戦っている間、時々こうして中身を冷ましてくれるのだ。まるで母親かなにかのように。こいつがそばにいてくれれば、俺には母親など要らないとさえ思うこともあった。
そして何より、そうしているときの彼女の唇が……俺を、なんともいえない、奇妙な気分にさせる。もちろん、その正体は分かりきっているが。
余計なことを考えないように慌ててそちらから視線を逸らすと、談話室のドアが開いて、戻ってきたエバンスの姿を真っ先に視界に捉えることになった。
「あ、リリー!遅かったね、何かあった?」
「そ、そう?いいえ、何もないわよ」
言いながらも、エバンスの顔付きがいつものそれと違っていることは明白だった。逃げるようにして女子寮に上がっていったその友人の後ろ姿を見送って、が不安げに声をあげる。
「な、なんか……あったんだよね、きっと」
なんか、って。苦笑混じりに、狼狽えるその横顔を眺める。仕組んだのは他の誰もなく、お前だろう。
「そりゃあ、あったんだろ」
「……私、ちょっとリリーのとこ行ってくる!」
そして教科書を投げ出したまま女子寮への階段を上がっていくを見やって、シリウスは目を細めた。いつも必死で、どこか矛盾していて、そして誰かのために心からの涙を流せるような。
そんなお前の姿が、たまらなく眩しくて
愛しい。