呪文学のあと、迎えにきてくれたのはシリウスだった。そっ、と肩を揺り動かされて、目が覚めた。どんな顔して眠ってたのかと思うと……想像するだけで、顔から火が出そう。昔はシリウスに変な寝顔見られたらいやだとか、考えもしなかったのに。
「ちゃんと休めたか?」
「うん。シリウス、きてくれたんだ」
「……ああ。またダメだって言われるかと思ったんだけど、エバンスが」
あ、そうか。リリーが。変な気、回さなくっていいのに。
「リリー、なんか言ってた?」
「え?あ、……」
他意はなく、単純に聞いただけだったのだが。シリウスは途端に赤くなって、困ったように頭を掻いた。
「特に、なにも。それより、起きられるか?まだだるいなら夕食は何か持ってきてやっても」
「ううん、へーき。ありがとう、一緒に戻るよ」
普段通りに笑って、ベッドから身体を起こそうとしたのだが。変な時間にしばらく眠っていたものだから、頭の奥がまだ少しぐらつく。傾いたの肩を、慌てて伸ばしたシリウスの手のひらが支えた。大きな、力強い指先。
「おい、大丈夫か。もうしばらく寝てろよ」
「ううん、これ以上寝たら、夜寝られな
」
言いながら、ふっと顔を上げると。
屈んでこちらの肩を掴んだシリウスの顔が、思ったよりも近くにあっては息が詰まりそうになった。シリウスにもこれは予想外だったらしく、大きく目をひらいてそのまま固まってしまう。だがお互い動けないでいるうちにも彼は何事かを心に決めたようで、ぽかんと開いた口を引き結んでほとんど吐息のような声を出した。
「……」
「な、なに」
どうしよう。涙が出るほど顔が熱くて……心臓のおとが、きこえてしまいそう。
シリウスの顔が、また少しだけ、近付いてくる。
それだけで彼のささやかな息が、今にもの唇に届きそうだった。
「キスして……いい?」
へっ?
な…………な、ななななななんて!?
脳みそが沸き立って、何もかもが目の前でぐるぐると混ざりだして。
だけど
不思議と、いやだという感覚はちっとも浮かんでこなくて。
ぎゅっときつく目を閉じて、泣きたい思いで『その時』を待った。
初めてじゃ、ないのに。
こんなにも優しくて、不器用で、幸せな気持ちになれるキスがあるなんて、知らなかった。
FUSS in the Great Hall
くちづけの余波
「、もう大丈夫なの?」
ここから少し離れたテーブルに着いた女の子を眺めながら、先ほど彼女と一緒に大広間に入ってきた友人に向けてリーマスが聞いた。シリウスは半分上の空で、ぼんやりと目線を彷徨わせながらその向かいに腰を下ろす。
「ああ。あ、いや、なんかまだちょっとふらふらしてたけど」
「なのに連れ出してきちゃったわけ?なに考えてんだよお前」
「うるせぇ眼鏡は黙れ」
間髪容れずに突っ込んできたシリウスはこちらをちらりとも見ずに目の前の骨つきチキンにかぶりついた。だまれ、めがね。だって。これが平時だったらぶん殴ってるところだぞ。
ピーターはそんなシリウスを見てひとりでおろおろと狼狽え、リーマスは大きく息をついて肩を竦める。
「まったく……いい加減に仲直りしてくれないか?一緒にいる僕たちだって疲れるんだよ」
「そこの二枚舌眼鏡が悪い」
「二枚舌眼鏡ってオマエ……物には限度ってものがあるぞ」
「うるせぇお前が悪いんだろ!きったねーことしやがって!それでもレギュラーか代表か無敗のシーカーが聞いて呆れるな!」
「お前もしつこいな!僕は本気だったって言っただろ!アイディッドドゥーマイベスト!お前だってピッチに立ってみろ常に一定を保つなんてことがどんだけ難しいかってな!」
「今更言い訳すんのかいつもいつも僕が僕だけが最高の宇宙一のシーカーなんて大口叩きながらな!」
ああ、そうさそうさ。僕が宇宙最高なんて唱えておきながらあのザマさ。
だから。
「安心しろよ、次は絶対に勝つからさ」
「あ?」
こちらがあまりにあっさりと折れたので、驚いたのだろう。間の抜けた声をあげるシリウスからスリザリンのテーブルへと視線を移して、
「どーせ決勝はまたあいつらだろ。次は必ず勝つからさ、そうカッカするなって」
思い出していたのは、あのときのレグルスの瞳。兄とまったく同じことを言ってのけた。
(やっぱり兄弟だなって言ってやったら、また怒るだろーな、こいつ)
声には出さずにつぶやいて、デザートのプディングに手を伸ばす。すると僕が狙っていたそれをひょいと取り上げながら、シリウスはいつもの仏頂面で言ってきた。
「言ったな」
「ああ、言ったぞ」
「今度負けたら絶交だからな」
「望むところだね」
まあ、こいつの『絶交』にはほとんど効力なんてないのだが。シリウスがプディングを食べている間に、ジェームズは先ほど伸ばした手をさらに奥へと伸ばし、シリウスが最後の楽しみに取っておいたチキンを奪い取った。
「あああ!テメェ、何すんだ!」
「うるさいお前だって僕のプディング取っただろ!」
「お前がぼさーっとしてるのが悪い!」
「それはこっちの台詞だな!あーん」
「あああああオマエほんとに食ったな!食ったな!」
「やめなよ二人とも、恥ずかしい。シリウス、僕のチキンあげるから
あ、ジェームズ、プディングはあげないよ。それよりシリウス、のこと、どうだった?何か分かったの?」
嘆息混じりにリーマスが聞くと、リーマスにもらったチキンを嬉しそうに頬張りだしたシリウスは、一瞬で赤くなってあらぬ方向を向いた。あれ?いきなりの話題が出たにしたってその反応はちょっと異常だな。
「聞いてない」
「え?お前それ聞きに行ったんじゃないの?」
「余計なこと詮索するなってお前エバンスの言ったこと聞かなかったのかよ眼鏡」
「眼鏡眼鏡うるさいな僕は四歳のときからずっと眼鏡だよ!だってそれは余計な詮索じゃないだろ、あれは只事じゃないね何があったのか気にならないのかよ」
「それが余計だっつってんだろ。あいつが何にも言わないんだ言いたくないんだろ」
「ふーん。デリカシーのないシリウスくんがそんなに気の回る男の子だったんだ?」
「てめぇさっきから黙って聞いてれば好き放題……」
黙って聞いてれば?冗談だろ、お前がいつ黙ったよ。言い返そうとしたそのとき、聞き慣れた声が聞き慣れた名前を叫ぶのを聞いて思わず動きを止めた。きっと広間中の視線が瞬く間にその一点に集中したことだろう。
「シ、シリウスとはそういうんじゃ!」
あらん限りの声で叫んだあと、事の重大性に気付いたのだろう。その怒声の主、は僕のすぐ斜め前で茹で蛸のように赤くになっているシリウスと同じくらい真っ赤になりながら慌てて口を閉ざした。だがみんなの耳に届いてしまったものはもう仕方がない。グリフィンドールはともかく他の寮生たちからも面白半分の野次が飛んでくる中、がシリウスとのあらぬ噂を否定する、エバンスが野次る連中に減点するわよと脅しつけるという、なかなか面白い光景が始まった。
ふーん、珍しいな。があんなにムキになって怒るなんて。
確かには昔からなんでもすぐ本気にして声をあげることが多かったが、ここ最近シリウスとのことに関しては笑って流すという技を身に着けたらしかったのに。
「今日のはちょっと変だね、ってお前もかシリウス?」
赤い両耳を押さえて俯くシリウスを見て、素っ頓狂な声をあげる。おいおい、こいつ、いつの間にこんなに初心になったんだよ?効果は絶大だな!
「おいシリウス、のやつ、お前にえらくご執心みたいだぞ」
ああ、野次馬連中がこっちにも。ハッフルパフの同級生が何人かニヤニヤ笑いながら声をかけると、シリウスは食べつくしたチキンの骨をそちらに容赦なく投げつけた。
「うるせぇくらだねーこと言ってんじゃねーよ!」
「なっオイきたねーなシリウス!なんだよ図星かよお前マジで顔やばいぞ」
「うっせぇ黙れお前ほどやばくはならねーよ!」
あーあ。本人にしてみればそんなつもりはさらさらないのだが、なまじ顔がいいだけに大抵の人間には嫌味にしか聞こえない。案の定言われたハッフルパフ生たちはひどく機嫌を損ねたようで、の趣味わかんねーな!ああ顔だろ顔しかないだろ!などと怒鳴りながらさっさと広間を出て行った。
これくらいの憎まれ口には慣れているはずだった。お前なんか顔だけだろ、とはシリウスなら一年生の頃から陰で言われ続けている。だが絡みのせいか、それともやっぱり何かあるのか。シリウスはどこか項垂れるようにして顔を伏せた。
「心配するな、シリウス。もしもほんとに顔だけだったらが惚れるのに五年もかかるわけない」
「お前も黙れ眼鏡」
こっちは励ましてやってるのに、眼鏡眼鏡うるさいな。そろそろ殴ってやってもいいだろうか。
もう一度言ったら殴ろう。そう心に決めた、そのとき。
「ねえ……シリウス、ずっと聞きたかったんだけど」
それまで黙り込んでいたピーターが、ぽつりと口をひらいた。喋っちゃいけないとか、そんなことはもちろんない。だがピーターは、すっかりその存在を忘れてしまう程度には黙りこくってしまうことがよくある。もしくは周りに調子を合わせ、声を立てて笑うだとか。こうして改まって何かを切り出すことはほとんどない。シリウスも驚いたように瞬きながらそちらを向いた。
「なんだよ?」
「ええと……大したことじゃないかもしれないけど。シリウスはのこと、ほんとに好きなの?」
「大したことないわけないだろこいつにとって目下最大の関心事はをおいて他にないんだからな」
「黙ってろって眼鏡」
「お前、また眼鏡って言ったな!僕にはジェームズジェームズジェームズポッターって名前があるのまさか忘れたわけじゃないだろーな?」
「そうかそのジェームズジェームズジェーミーポッターいいからお前は黙ってろっつっただろ」
「ジェーミ……お前、それを言っちゃおしまいだぞ!?い、いいか僕はジェーミーから卒業したんだもう一回それ呼んでみろお前なんかこーしてこーしてけっちょんけっちょんに……」
「よしなよジェームズ、ピーターが話してるのに。でもピーター、それってこんなところで聞くようなことじゃ」
大広間はどうやらそれぞれのお喋りに戻ったようで、それなりにざわつき、注意を払わなければ隣の会話がはっきり聞こえてくるわけでもない。だがそれにしても内緒話に適しているといえるはずはなく、おまけに先ほどの騒ぎを考えればこちらのやり取りに聞き耳を立てている輩がいないとも限らない。こんなところでシリウスが間違いに「ああ好きだ」なんて口にしたら野次馬連中の恰好の餌食になるだろう(僕なら間違いなくそうする)。
けれども。
「ああ、好きだ」
シリウスがあまりにもあっさりと言い切ってしまったので、危うく聞き逃してしまうところだった。実際、話を聞いていた僕たち三人以外は誰も気付かなかったらしい。シリウスはチキンを掴んで汚れた手をナプキンで拭いて、ひどく不機嫌そうに立ち上がった。
「これで満足かよ。お前もくだらねー噂、気にすんだな」
そしてひとりで足早に広間を立ち去っていく。何人かがそれに気付いてまた馬鹿馬鹿しい野次を飛ばしたが、今度はまったく取り合わずにシリウスの背中はドアをくぐって消えた。
「なんか変だったね、さっきのシリウス」
「リーマスもそう思う?そうだよね、絶対と何かあったんだって!あ、リーマス、僕のプディング」
「あげないって言っただろう?」
「えーシリウスにはチキンやってたのに!」
「もともと僕のチキンひとつ多く入ってたんだよ」
「えーリーマスー」
そんなこんなで、平和な時間が戻り。
いつの時代も、子供たちは浮いた話が好きで。
埋もれるようにして、その日のを巡るボガートの一件はすっかりと忘れ去られた。
唇を噛んでは下を向いた、とある青年のことも。