「どういうつもりなんだ」
「『どういうつもり』?」
鸚鵡返しにつぶやいて、彼はゆっくりと振り向いた。
「何のこと?」
「ふざけるな。わざと負けただろう
一体どこまで僕を侮辱すれば気がすむんだ」
「侮辱?何を言ってるのか分からないな。僕は全力で戦ったよ。君の勝ちだ」
相手に向きなおって、繰り返す。レグルスは激しい憎悪を宿してその灰色の瞳で真っ直ぐにこちらを射抜いた。
「あんなもので僕が満足するとでも思うか、笑わせるな。最後の最後であんなふうに失速するなんて
無敗のシーカーが、堕ちたものだな」
そして踵を返すと同時、独り言のような声音でひっそりと囁いた。
「確かに僕は、あんたを買いかぶってたようだ」
BOGGART in the suitcase
いちばんこわいもの
「まね妖怪、ボガートは普通魔法レベル試験にも数年に一度の割合で出題される非常に重要な課題です。この学年はまだ扱ったことがないという話だったので、今日はこのボガートを使って演習を行います」
そう言ってレッドフィールドが示したのは、教壇に置かれた大きなトランクだった。時々中からどん、どんと叩きつけるような音がしたので、みんな何事かと驚いて飛び上がった。
形態模写妖怪、ボガート。相手が最も怖いと思うものを判断し、それに姿を変えて相手を怖がらせる。退治するときは、可能ならば複数の人間と一緒にいること、呪文は『リディクラス』
自分の最も恐ろしいものを笑いに変える、精神力。
「よし、では順にやってみましょう。誰から始めましょうか」
レッドフィールドがクラス全体を見回すと、みんなひそひそ声で近くの寮生たちと話し始め、一向に誰も前に出ようとはしなかった。一番怖いもの……何だろう、私が一番怖いもの……考えたことも、なかったな。
「ダンカン、どうです、やってみませんか」
レッドフィールドの手前にいたダンカンはいの一番に指名されて青くなったが、恐る恐る前に出た。心配要りません、こんなに大勢いればボガートなんて混乱させるのは容易いといって、レッドフィールドはがたがたと音のするトランクに軽く手を添えた。
「ダンカン、君の最も怖いものは何ですか」
「え、えぇと……その、あまり考えたことがなくて」
「魔法使いにとって、自己分析は最も重要な能力のひとつです。よく考えてみてください、君がこれまでの人生の中で、最も恐ろしい目に遭ったそのときのこと」
ダンカンは難しい顔をしてしばらく唸っていたが、やがて自信なさげにぼそぼそと答えた。
「一年のとき、兄の箒を借りてこっそり飛ぼうとしたことがあるんです。そのとき、箒が暴走して……蜂の巣に突っ込んで。死ぬかと思いました……」
寮生の何人かが笑ったが、すぐにレッドフィールドが次の質問をしたのでクラスはまた静かになった。
「それじゃあそのときのことを思い出して。どうすれば君は、その蜂の群れを滑稽なものにさせられるでしょう」
「えーと……」
「ああ、声に出さなくていいよ。面白みがなくなりますからね。どうすればその蜂の群れを変身させてみんなを笑わせることができるかをイメージして
そして呪文は、リディクラス。いいですか、みんなも準備してください。ダンカンが倒したボガートが次はどこへ行くか分かりませんよ」
ダンカンが恐怖に頬を引きつらせ、何か言おうとするよりも先に、レッドフィールドは伸ばした杖先でトランクの口を叩いた。パチンと弾ける音がして蓋がひらき、中から飛び出してきたのは紛れもなく蜂の大群だった。杖を構えたダンカンが凍りつき、みんなあっと驚いてそれぞれに後ずさる。も握った杖を震わせながら息を呑んでその様子を見守っていた。一瞬逃げ腰になったダンカンだが
きつく杖を握りなおして、きっと鋭く目を細める。そして震える声で叫んだ。
「リディクラス!」
すると蜂の群れは突然床に吸い寄せられて、まるでそこがゴキブリ獲りのネバネバであるかのようにくっついて離れなくなった。ダンカンは自分のしたことを理解できずにしばし呆然としていたが、みんなの笑い声で我に返り、みんなと一緒に声をあげて笑いだした。
「次、ニース!」
満足そうに口角を上げながらレッドフィールドがダンカンのすぐ右隣にいたニースを指名する。ニースもまた強張った顔で躊躇したが、彼女が一歩前に進み出ると囚われの蜂が今度は尻から火を噴くリクガメの姿に変身した。
「リ、リディクラス!」
ニースの呪文で、リクガメは先ほどまで火を吐いていた尻からジェット流のようなものを噴き出して宙に飛び上がった。そのまま虚空をぐるぐると回り続けるカメを指差して、レッドフィールドはワット、スーザン、ラルフ
次々と近くのグリフィンドール生たちを指名していく。
「もう一息です!次、!」
呼ばれて、はぎょっと飛び上がった。どうしよう、怖い、怖いもの……怖いというかトラウマになったものだったら、あのときの……。
はメイの足元でぐちゃぐちゃに絡まっているロープの前に進み出た。すると。
「ヒ
ヒヨコ?」
素っ頓狂なピーターの声が、後ろから聞こえてくる。は自分の足元でよちよち歩くヒヨコの姿を見て、その次に起こることを悟って思わず悲鳴をあげた。
「み、みんな見ないで!」
まだ小さかった頃に、少し遠出をして父とふたりで動物園に出かけたことがあった。そのとき、キツネの檻になぜヒヨコが歩いているのかはじめは訝ったものだ。けれども、次の瞬間
。
だがの脳裏に浮かぶその過去の生々しい映像を掻き消すように、ひどいノイズのような音を立てて目の前のヒヨコはいつの間にか姿を消していた。
「……え?」
誰もが目を見開き、そして唖然とする。
つい先ほどまで確かにヒヨコがはしゃいでいたその場所に、まったくべつの人影が現れていた。
「ダ……ダンブルドア?」
それが誰の発した声だったか、そんなものは分からない。
いずれにせよ。
凍りついたの前に立ち塞がるのは、その言葉通りの人物を模ったまね妖怪だった。けれどもそれは、誰もが知るアルバス・ダンブルドアその人とは明らかに様子が異なっている。彼は決して、こんな氷のような眼差しを生徒に向けたりはしない。だがその銀色の髪も豊かなひげも、青い瞳もすらりと伸びた長身も、紛れもなく彼らの知るダンブルドアのものに違いなかった。
まね妖怪のダンブルドアが、その手に握った杖を重々しい動作で、ゆっくりと上げる。
(……こ、んな、)
知らない。だれ。どうしてダンブルドアが、こんな。
見たこともないダンブルドアの姿が、どうしてこんなところで。あんなにも優しい目を持つ彼が、こんな顔をするはずがない。こんな目で、私を見るはずがない!
けれども確かに胸の奥を突いた不気味な感触に、は噴き出す恐怖を抑えきれなかった。
「いや……いやあぁぁぁぁぁ!!」
かたりと小さな音を立てて、どこかのかぎが、はずれおちたようだった。けれど。
悲鳴をあげて卒倒したが、それに気付くことは、なく。
だが確かに凍りついていた何物かが、ゆっくりと軋みながら、動きはじめた。
ゆらゆら。くらい、うみのそこをただようよう。ふと、ゆびさきになにかがふれたきがして。
知っている
この、感触は。
「……ムーン」
その名を、知っていた。けれども。
ひらいた視界に映り込んだのは……あの、森ふくろうの姿ではなくて。
それでも、私は
この子の、名前を知っている。
「ムーン……ムーン、でしょう」
こちらの手に顔を摺り寄せてくるのは、一匹の大きな白い犬だった。ふさふさの毛に、ぱたぱた揺れる、長い尻尾。抱き締めたときのこの温かさが、だいすき。
「ムーン……ごめん、ごめんね。さみしかったよね……ごめんね」
なに。どうしてわたし、あやまってるの?
思い出せない。何も、思い出せないけれども。
このぬくもりを、おぼえている。
ムーン
。
「?」
はっとして目を開けると、まず見えたのは、一面の白
天井。見たことのある、医務室の。
そしてこちらの左手をそっと握るのは、無論、白い犬などではなく、ほっとした様子で微笑んだリリーの温かい両手だった。夢……ゆめ、か。
「よかった、気がついて」
「……わたし、どうして」
「教室で急に倒れたのよ。ボガートの……演習で」
ボガートの、演習。そうだ……あのとき、なぜかいきなりダンブルドアが現れて。
「……話したくないなら、無理にとは言わないけど。あのボガート……一体、どういうこと?」
「……分からないの、私にも。あんなダンブルドア……見たこと、ないのに」
見たこともないものを、どうして知っているのか。どうしてそんなものを恐れているのだろう。
似たようなことが、前にもあった。見たこともないはずの光景を、見たことがあるような気がした
。
「まるで私の中に……別の誰かが、いるみたい」
リリーは何かそのことについて答えようとしたのだろうが、何を言っていいか分からなかったのだろう。諦めたように軽く頭を振って、別のことを口にした。
「レッドフィールド先生が、奥でマダム・ポンフリーと話してるわ。それから、入り口にブラックがいるんだけど……呼びましょうか?」
えっ。急に心臓がばくばくと早鐘を打ちはじめ、は布団を鼻の上までしっかりとかぶった。
「い、いっいいい、いい……ボガートで倒れるなんて、恥ずかしすぎて会えない」
「誰もそんなこと気にしてないわ。あのときのダンブルドア……ほんとに、こわかったもの」
リリーは気を遣ってくれたのだろうが、あまり慰めにはならなかった。とにかく今は会いたくないと告げると、分かったわといってリリーはすぐに医務室を出て行った。
何だったんだろう、あのダンブルドア。それとも……わたし、ほんとうは。
「気がつきましたか」
リリーが戻ってくる前に、奥のオフィスから出てきたレッドフィールドが聞いた。
「はい……ご心配おかけして、すみません」
「大事なくてよかった。軽い脳貧血だそうです、しばらく寝ていればすぐに良くなりますよ」
「いえ、私もう大丈夫です。それより……先生、お聞きしてもいいですか?」
「何ですか?」
レッドフィールドは穏やかに微笑んでこちらの顔を覗き込んできたが、何を問われるか、すでに悟っていたのだろう。の質問を聞いても、さほど驚かなかった。
「ボガートが……すっかり混乱してしまって、ありもしないものを模写することってあるんでしょうか。私、あのときは確かにヒヨコのこと考えてましたし、実際最初は、」
「ありえないことではない、としか言えませんね。私もああいったケースは初めて見ました。ボガートが同じ人物の前で別の形をとろうとするなんていうのは……しかも一見
ありえそうにない形を。ただ、」
「……ただ?」
恐る恐る、聞き返す。レッドフィールドはしばらく不自然に視線を彷徨わせていたが、やがて観念したように小さく息をついて口をひらいた。
「あのボガートと対面したときの君のショックの受け方を考えると
実際に君の身に起こったことだという可能性も、なきにしもあらずですね」
「……そんな。だって私、あんなダンブルドア知りません」
「もちろん、あくまで可能性の話ですよ。ですが、人間は忘れる生き物です。ボガートが時として、本人すら忘れてしまったその深層恐怖を見透かすというのは実際によくあることです。侮れない生物ですよ、彼らは」
そんな。どんなふうに、考えればいいのだろう。あのボガートが、本当に私の記憶の中を映し出したのだとすれば……私はダンブルドアに、襲われたことがある?
馬鹿な!
「、とりあえず帰ってもらったわよ。あ……先生」
戻ってきたリリーがレッドフィールドに気付いて少し手前で立ち止まる。だがレッドフィールドはにこりと微笑んでその場をリリーに明け渡した。
「、大事をとって次の時間は休んでいなさい。担当の先生には、リリー、君が伝えてくれますね?」
「はい、もちろんです」
「いえ!先生、私もう大丈夫ですから……」
慌てて起き上がろうとしたを、すぐにリリーの手のひらが押してまたベッドに戻した。
「だめ。フリットウィック先生には私からちゃんと伝えておくから」
「でも、でも……」
「無理して行かせたら私がブラックに怒られるじゃない」
悪戯っぽく微笑んで、リリーは平然とそんなことを言った。あたふたと狼狽えてレッドフィールドを盗み見ると、彼はくすくす笑いながら、学生はいいですねなどと呟いて医務室から出て行った。うああああ……涙が出るほど、めちゃくちゃ恥ずかしい!
「リリー!シリウスの名前出したら何でもかんでも私が言うこと聞くと思ったら大間違いだからね!」
「あら、私そんなこと一度も考えたことないわよ?、考えすぎなんじゃない?それじゃあ、後で迎えにくるから。おやすみなさい」
「リリーーー!!」
ひらひらと手を振って、リリーが早々に帰っていく。仕方なく諦めて、は乱れた布団をかぶりなおした。
けれども、また夢を見るのはおそろしく。
眠らないようにしたのだが、いつの間にか襲ってきた睡魔にあっさりと負けて、はすやすやと寝息を立てはじめた。
夢は見たのだが
今度は目覚める前に、忘れてしまった。