「レグルス、ちょっといいか?」

彼がこうして改まって声をかけてくることは、滅多にない。どこか違和感を覚えながらも、レグルスは重要項目を書き出していた羽根ペンを休めて顔を上げた。

「なんだ?」
「お前、クィディッチの選抜チームに入りたいんだって?」
「は?誰がそんなこと」
「なんだ、違うのか?」

エバンは不可解な顔をして頭を掻いたが、まーいいやと投げやりにつぶやいて正面のソファに腰を下ろした。

「違ってもどうでもいいや。なあ、お前一回シーカーやってみないか?」

思ってもみなかった提案を受け、しばし言葉を失って呆然とする。やっと意識を取り戻してまず口にしたのは、当然といえば当然の反応だった。

「だってそれはお前のポジションじゃないか」
「……分かってるだろ、お前だって。俺がシーカーになって三年、クィディッチカップは一度もスリザリンのものにはならなかった。本来ならとっくに追われてたっていい成績だ。それなのに俺がまだこんなところにいるのは、誰も俺をチームから追い出せないからってだけに過ぎない」

彼はまったく臆することなくそんなことを言ってのけた。思わず人目を気にして辺りを見回すが、談話室に残っている生徒は数少なく、誰もこちらの会話に注意を払っている様子はない。

「このままなあなあで続けてたってな、俺が惨めになるだけだ。それならこっちから出て行ってやろうかなと」
「それであとのことは僕に押し付けようって?」
「人聞きの悪い言い方するなよ。お前ならやれるって信じてるからこそだぞ」
「お前は昔から胡散臭いんだよ」
「は?俺のモットーはフェアプレイだぞ、あやしげなことなんて何ひとつやってない」
「ぜったいにうそだ」

はっきりと断言してやる。だがエバンは痛くも痒くもないとばかりに余裕の笑みを見せて、ずいとこちらに身を乗り出してきた。

「なあ、とにかく一回やってみろよ。ずっと箒の練習してきたのはこの日のためなんだろ?な?」
「生憎だけど僕は好きで乗ってただけだ。選抜チームなんて興味ない」
「そうか?残念だな、あのポッター野郎を負かす唯一にして最大のチャンスだと思うけどな」

薬学の復習に戻ろうと羽根ペンを持ち直したとき、聞こえてきたエバンの台詞にぴたりと動きを止めた。素知らぬ風を装って、エバンはさらにそのあとを続ける。

「あいつだろ。お前から大事なもんを奪ったのはあいつなんだろ?」
「………」
「このままじゃあいつは戻らないぞ。それでいいのか?いつまでも子供じみた友情ごっこに囚われて、あいつは何がほんとに大事なのか分かってない。自分が負うべきものの大きさに気付いてない」

彼は羽根ペンを握る手を落として、きつく唇を噛んだ。何が本当に大事なのか、自分たちが負ってきたものは一体何なのか。
神妙に声を落として    エバンが、告げる。

「俺の声では届かない。お前が気付かせてやれよ    兄弟だろ?」

授業を終えても飛行訓練を続けてきたのは、確かにこの日のためだったのかもしれない。

RUBICON

いつかは、と

「えぇぇ……な、なんで?」
「何でって……だってここは、海を越えて、だろ?」
「だってこれ固有名詞じゃないの?先生が神様の名前だって……」
「は?これは i じゃなくて l だろ!水、つまりこの文脈だと海!」

広げた教科書とシリウスの顔とを何度も交互に見比べていたは、怒鳴りつけられた拍子に張り詰めていた糸がぷつりと切れてそのままテーブルに倒れ込んだ。

「やだもう私こんなの無理!」
「寝るなよ!今日中に次のページまで終わらせなきゃいけねーんだろ?」
「だったらシリウスひとりでやったらいい!私もう無理!」
「分担するぞって言ったろ!」
「だって分かんないんだもん仕方ないでしょ!」

どうしよう……私、もう倒れそう。
噂には聞いていたが、五年生に上がってからの授業内容はどの科目も嘘のように難しくなり、とりわけ複雑な単語が頻出してくるようになった古代ルーン語はにとって目下最大の敵だった。ここまで勉強で苦しめられたことは……はっきり言って、ない。自分がいわゆる『フクロウ病』の今年度第一号になるかもしれないと危惧しながら、気付いたら終わっているという毎日の繰り返しだった。
談話室はまだ新学期が始まってから二ヶ月ほどだというのに、五年生と七年生が夜遅くまで課題と格闘していてそのまま寝入ってしまう者さえいる。もルーン語の宿題を済ませるのにシリウスと同じテーブルを囲んで頑張っていたのだが、鬱々と溜まってきたものが噴き出してもう羽根ペンを握るのも嫌になっていた。
と。

「………」
「……なに?」

いきなり伸びてきたシリウスの右手が、そっとの後頭部を撫でて離された。何をされたのか分からず、顔を上げてきょとんと目を見開く。
尋ねると、シリウスはどこか視線を泳がせながらぼそぼそとつぶやいた。

「やっぱやめた」
「な、なに?何なの?意味分かんない」
「いや、分からなくていい」
「なに!途中でやめるのシリウスの悪い癖だよ」

頬を膨らませて噛みつくと、シリウスは、分かったよ、らしいことを言って嘆息混じりにうめいた。

「……うんざり虫が飛んでくおまじない」
「へっ?」

聞こえていなかったわけではないが、聞き慣れない単語だったので思わず聞き返す。シリウスは心なしか頬を染めながら、頭を抱えて、ほらやっぱ言わねーほうがよかった!と嘆いた。

「なに、なになに、どういうこと?」
「だから……うんざり虫が飛んでく……」
「こう?うんざりうんざり、飛んでけー」

広げた右手をシリウスの頭に乗せ、すっと滑らせながら唱える。シリウスはひどく驚いた様子で瞬いた。

「これ、マグルの世界にもあるのか?」
「うんざり虫じゃないけどね」

痛いの痛いの、飛んでいけー。思い出した    小さい頃は、何度も父にしてもらったことがあった。道端で転んだとき、また、大嫌いな注射のあと。

「シリウスも、お父さんとかお母さんにやってもらってた?」

恐る恐るだが、問いかける。触れることから逃げていたら、決してそこにはたどり着けないような気がした。
文字通り、遠い彼方でも仰ぎ見るように目を細めて    シリウスがゆっくりと、テーブルに肘をつく。

「ガキの頃、飽きっぽい俺におふくろがかけてくれて。それを俺が……やっぱり飽きっぽいあいつに、よく、かけてやってた」
「……レグルスのこと?」

彼はさり気なく瞼を伏せて、それには答えなかったけれど。
にこりと微笑んで、は投げ出した教科書を再びひらいた。

「なんか元気出てきた。よーし、もうちょっとだけ頑張る」
「……そーか」

シリウスもまた、おもむろに身体を起こして羽根ペンを手に取る。その整った顔立ちがどこか切なげに歪むのを見て、はそれ以上、何も言えなくなった。
しあわせだったころの、おもいでがあるから。すてきれず、まだ、と    こころのどこかで。

なんとかふたりで答えを合わせながら、課題の最後のページに差しかかったとき、談話室のドアが勢いよくひらいてひとりの男子生徒が中に飛び込んできた。残っていた寮生たちは一斉に振り向いたが、当の本人はそんなことにはまったくお構いなしで、ずかずかとこちらに近付いてきて怒鳴った。

「シリウス、!ジェームズはどこだ!」
「どっ、どうしたの、オーセリー……そんな怖い顔して」

オーセリー・ディレク。二年前からグリフィンドールのクィディッチチームでキーパーを務め、六月に卒業したセオドアに代わって今年から新たにキャプテンとなった六年生だ。目をぱちくりさせながら尋ねると、彼はの隣にどさりと腰を落として興奮気味に捲くし立てた。

「あいつ、いきなりポジション替えてくれてなんて抜かしやがった!チェイサーになりたいんだとよ、チェイサー!なんだ、今から次のシーカー育成なんて間に合うわけねーのに無責任だ!それともあれか、フクロウ病になったとでもいうのか、あのクソジェームズのバカが!んなわけあるか!なあ、あいつ一体どこ行ったんだ?」
「ジェームズがチェイサー?」

ジェームズとは今日も何度か顔を合わせたが、まったくそんな話は聞いていない。スニッチは自分に捕まるためにあるなどと豪語していた彼が自らチェイサーを希望するだなんて、甚だ考えられないことのように思えた。
シリウスも不可解な顔をして、ちらりと男子寮のほうを見やるがあっさりと首を振る。

「そういえばまだ帰ってきてないな」
「知ってて匿ってるならお前も殴るからな」
「殴るのかよ。いや、ほんとに俺は知らねーぞ?そのチェイサー希望だかなんだかも聞いたことねーし」

へんなはなし。私はともかく、シリウスにも話していないなんて。

「オーセリーの勘違いなんじゃないの?」
「勘違い!ああ、そうだったらなんともまあいい話なんだけどな!でも俺は確かに聞いたぞ、あいつ一方的に言うだけ言ってどっか消えやがった!クソ、開幕戦まであと一ヶ月もないっていうのに逃げ足だけはピカイチだからなあの野郎!」
「ジェームズならさっき会ったわよ。図書館から帰ってくるとき擦れ違ったけど」

少し離れたところから口を挟んできたハナに、オーセリーは素早く反応して振り向いた。

「ほんとか!どこ行ってた?」
「さあ、そこまでは……でも涼んでくるって、こんな季節に変な話って思ったのよね」
「そうか!あのバカ、頭でも冷やしてくるかな。よし、そして考え直せ!どうしてもっていうならむしろ追い出してやろう!」
「追い出すのはさすがに痛手なんじゃない?」
「だからって規律を乱すやつはチームに置いておけないな。ポジションチェンジの希望があるなら選抜前に申告すべきだ、そうだろ?」

力説しながら立ち上がってハナたちのほうに突き進んでいくオーセリーの後ろ姿を見ながら、はひっそりと傍らのシリウスに問いかけた。

「……何があったんだろ、ジェームズ」
「さあ」

結局、が談話室に残っている間、ジェームズは戻ってこなかった。
「え、ジェームズがチェイサーに?」

やはりリーマスも、何も聞いていないらしい。意外そうに目をぱちくりさせながらこちらを向く。な、おかしいだろ、と言いながらシリウスは教科書ごとばったりとベッドに背中から倒れ込んだ。あーつかれた。でもひとりだったら、絶対終わらなかったな。『うんざり虫』を払ってもらった後頭部をそっとなぞりながら、目を閉じる。
しあわせだった。よく、分からない    そんな曖昧な感情を半端なまま伝えてしまったのに、今も変わらずそばにいてくれる。一緒に考えようと、言ってくれた。イエスか、ノーか。今まで付き合ってきた女は、誰もが結論ばかりを先に求めたがった。だから面倒だった。完全な白なんて、あるはずがないではないか?

「……もしかして」

ふ、と。気になるリーマスの声を聞いて、彼は物憂げに身体を起こした。

「どーした?」
「あ、いや……監督生会議でね、少し気になる話を聞いて。ひょっとしたら、それが絡んでるのかも」
「だから何だよ?」

じれったいリーマスにその先を急がせるため、多少きつい口調で聞き返す。彼は観念したように肩を竦めながら、言ってきた。

「それがね、ロジエールが選抜チームをやめちゃったらしいんだ」
「は?なんだそれ、ついに追い出されたか?」
「いや、それが自分から。それでね、新しいシーカーに誰が選ばれたと思う?」
「……さあ。でもそんなことであのジェームズが進んでシーカーから降りると思うか?誰が相手でも勝つつもりだろうし、実際あいつなら勝つだろ」
「それはそうだろうけど……」

困った顔で頭を掻きながら、リーマス。なんだよ、とさらに追い立てるように聞くと、彼はまるで人目を忍ぶようにして声の調子を落とした。部屋には他に、すでにベッドに入ったピーターしかいないというのに。

だが、その答えを聞いて    シリウスは無意識のうちに眉をひそめ、結んだ唇を戦慄かせた。
BACK - TOP - NEXT
(08.06.29)