「ほら、あの子よ」
「一体、どういう手使ったんだか」

寮を出て、ほんの数分歩くだけでもそんなやり取りが耳に入ってくる。初めのうちは聞こえない振りをして我慢していたが、なんだかそれも馬鹿らしくなってきて、は明らかに自分のものと思われる陰口を聞くとそちらをきつく睨み付けるようになった。その瞬間はぴたりとやむお喋りも、再び彼女が歩き出すとさほど間を置かずに再開される。

「ああ……もう!言いたいことがあるなら面と向かって本人に言えって話よね。全部聞こえてるんだっての。だから女は嫌いなの!」

ぶつぶつと呟く彼女の隣に並んで歩く少女は、苦笑とともに肩を竦めた。

「まあ、好きにさせておけばいいんじゃない?」

GRYFFINDOR CHILDREN

一難去って

呪文学の授業を終え、同室のニースと一緒にそのまま次の授業へと向かう。呪文学のフィリウス・フリットウィック先生は台座に乗らなくては教卓の上に頭すら出てこないほど小さく、噂では小人族の血を引いているということだった。

先生は、魔法とはほんの少しの素質さえあれば誰でも使いこなせるようになるものであり、ホグワーツへの入学を許された君たちなら全員がそれを持ち合わせているので心配は要りませんと言った。

「とはいえ、もちろん魔法を自在に扱えるようになるのはそう簡単なことではありません。呪文は一字一句を正確に。まずは、そうですね    ウィンガーディアム・レヴィオーサ」

それが呪文だと気付いたのは、フリットウィックが杖で指した教科書がふわふわと宙に浮き上がった時だ。おお!と歓声をあげる生徒たちと、無反応の生徒たちと。は言わずもがな前者で、初めて目の当たりにした『魔法』に胸をときめかせた。
ダイアゴン横丁でも様々な魔法を見たが、こうして誰かが明瞭にそれと分かるように使った魔法は見たことがない。既に誰かがかけた魔法によって『からくり人形』のように機械的な動きを続ける仕掛けばかりだ。
ここでしっかりと勉強すれば、私にもこんな魔法が使えるようになるのだろうか。

フリットウィックが魔法で浮かせた教科書をぱたんと教卓に戻し、これからの授業について説明を始めた時、教室の向こうの方から男の子の上擦ったような悲鳴が聞こえた。

「あっ……!」

誰もが一斉にそちらを見やる。すると前方の机を陣取った男の子たちの頭上に突然一冊の教科書が浮かび上がり、ふわふわと旋回まで始めた。男の子たちはおかしそうに歓声をあげたり、口笛を吹いたりしてさざめく。は呆気にとられ、ポカンと口を開けてその様子を見ていた。
フリットウィックが少し困ったような顔をして、非難がましくそちらを見る。

「ミスター・ポッター、今は私が話をしているんですよ。ほら、杖は脇に置いて」
「はーい」

まったく悪びれた様子もなさげな声と同時に、宙を飛んでいた教科書は糸でも切れたように真下に落下した。ちょうどそこに座っていたらしい少年の頭を直撃して落ちる。再び男の子たちの笑い声が響いたが、フリットウィックが説明を再開するとまたみんなは静かになった。

目をぱちくりさせながら、先ほどフリットウィックに注意を受けた男の子の後ろ姿を眺める。ジェームズだ。
同じ寮なのだから同じ授業になるだろうことは考えていたが、彼がどこにいるかには気付いていなかった。ジェームズの隣にはやっぱり、あのブラックもいる。二人は声を潜めて何やら面白いことでも話し合っているようだった。楽しそうにその肩が揺れている。

なに、何なのよ。ジェームズ、もう先生が使うような魔法、使えるの?すごい、と素直に感嘆すると同時に、どうしようと不安が過ぎる。
先生は、ホグワーツに入学を許された者なら誰にでも魔法が使えると言ったが。でも既に本を浮かせることができる生徒と、何ひとつ魔法を使えない生徒と。その差はあまりにも大きいのではないか。

    では、今日は先ほど私が使ってみせた浮遊呪文の練習を少しだけ行いましょうか。杖はまだですよ」

既に杖を手にしていた何人かが、渋々とそれを机に戻すのが見えた。

「さあ、ではまず正しい発音から練習しましょう。ウィンガーディアム・レヴィオーサ。皆さん一緒に。ウィンガーディアム・レヴィオーサ」

ウィンガーディアム・レヴィオーサ。気を付ければいいのは、発音だけだろうか。どきどきしながら、何度も発音練習を繰り返す。ウィンガーディアム・レヴィオーサ。ウィンガーディアム・レヴィオーサ。ああ、羽根ペン一本動かせなかったらどうしよう。教室内はやはり一生懸命発音の練習をする生徒たちと、だらけた様子でぺちゃくちゃとお喋りする生徒とに分かれていた。四人掛けの机で、ジェームズとブラックは延々と喋り続けていたが、彼らと同じ席に着いていた二人は真剣に練習しているようだ。
ニースもまだ魔法は使ったことがないと言っていたが、でも彼女は魔法界で魔法使いのお父さんに育てられたと言っていた。絶対私より魔法慣れしてるはず。どうしよう、私だけ何もできなかったら!

ある程度発音練習をさせると、フリットウィックは続いて、杖を持つ利き手の動きを示してみせた。びゅーんといって、ひょい。びゅーんといって、ひょい。慣れない動きだったので、は少し戸惑った。この動きをしながらちゃんと発音できるだろうか。

とうとう実践練習の時間になり、は杖を握り締めたまま目の前の教科書を穴が開くほどじっと見つめた。既に周りのみんなは練習を始めているが、なかなかうまくいかないらしい。教科書や羽根ペンがぴくりとも動かなかったり、浮いたとしてもほんの数センチほどですぐに落下したり。ニースは羽根ペンを、少し浮かせては落とし、また少し浮かしては落とし、を繰り返していた。
みんなこれくらいの出来なら、何にもできなくたって大したことないかな。大事なのは、これからだよね。

覚悟を決めて呪文を唱えようとすると、ちょうどその時また男の子たちの歓声が聞こえた。集中力が途切れて、少しイライラしながら顔を上げる。そこではまたジェームズが手当たり次第に何でも浮遊呪文をかけているようで、もう授業どころではなさそうだった。

困ったような嬉しそうな、複雑な顔のフリットウィックがジェームズを見て苦笑いする。

「ミスター・ポッターは完璧のようですね。素晴らしい!では今日はここまでにしましょうか。皆さん、次の授業までに少しで構いませんから浮遊魔法を練習してきてください」

その時、は少し離れた所に座っている赤い髪の少女が、宙に浮かせていた羽根ペンをつまらなさそうに手の中に落とすのを見た。









「どう?、僕の『完璧な』レヴィオーサ呪文、見てくれた?」

授業を終え、ニースと教室を出ようとしていたところに声をかけられてはびっくりした。他の生徒たちも驚いたようにこちらをちらちら盗み見ながら去っていく。がその場に立ち止まってきょとんとしていると、教科書を頭の上に載せたジェームズが意気揚々と駆け寄ってきた。

「ジェームズ    ああ、うん。見てたよ。すごいじゃん、もうあんなに何でも飛ばせるなんて!」
「まあ、あんなのはまだまだ序の口だけどね。それよりはどうだった?一昨日は随分不安そうにしてたけどさ」

ジェームズは自慢げにそんなことを言ってのけたが、なぜかそんなに嫌な気はしなかった。彼があまりに率直で、素直なせいかもしれない。少なくとも、本音を殺して誰とでも迎合しようとするような連中よりはずっと好感が持てる。
それに、こうしてわざわざ声をかけに来てくれたことがとても嬉しかった。こうして一緒にいられるニースが隣にいてくれても、それでも拭いきれない不安があったからだ。
ジェームズの裏表のない明るさが、そんな自分の気持ちを少なからず吹き飛ばしてくれるような気がした。

「えーと……実はまだ、練習してないんだ。だから分かんない」
「ええ?やってみればいいのに。大丈夫、君みたいに図太い子なら何だってできるさ。僕が保証するよ!」
「ず、図太い?何よ、あんたに言われたくないわよ!」

思わず声を荒げると、ジェームズはホグワーツ特急の中と同じように元気よく笑った。そのことに何だか安心して、怒る気も失せてしまう。本当に不思議な男の子だと思った。
その時、傍らのニースがつんつんとの腕をつついた。

「ねえ、

え、と声をあげて彼女の方を向き、ようやく気付く。は何度かジェームズとニースの顔を交互に見比べて、互いのことを紹介した。

「えーと、ニース、こっちはジェームズ。ジェームズ・ポッター。ダイアゴン横丁でたまたま知り合ったんだ。でね、ジェームズ、こっちはニース・ジェファ。同じ部屋なの」
「そっか、ニースか。僕はジェームズ、よろしくね」

にこりと笑ってジェームズが右手を差し出すと、ニースは一瞬驚いたようだったが、やがて彼の手を握り返して「よろしく」と微笑んだ。ほんの少しだけ胸をちくりと刺した痛みを誤魔化すようにしてニースに向き直る。

「そろそろ移動しようよ。魔法薬学って地下の教室でしょう?少し歩かなきゃ」
「じゃあ僕らと一緒に行こうよ。どうせこのまま地下まで行くだろう?」

ジェームズが言うと、まるでタイミングでも計ったようにそこへシリウス・ブラックまでもがやって来た。彼の後ろから、ジェームズたちと同じ机に座っていた他の二人の男の子も一緒に歩いてくる。はぎくりと口元を引き攣らせたが、ジェームズは知らぬ顔で側にブラックを呼び寄せた。
ホグワーツ特急以来、彼のことはどうも苦手だ。ジェームズとは対照的に、いつも仏頂面をしているイメージがある。今もまた、ブラックは退屈そうに口笛を吹いて眼前のたちには関心がなさそうだった。
だが    悔しい。そんな表情すらもかっこいいと思ってしまう自分がいるのは確かだ。それに、まだホグワーツへやって来て三日だが、その間に女の子たちの口から彼に関する噂を聞くことは多かった。

「あ、ニースにも紹介するね。これはシリウスっていうんだ。僕の幼馴染。まあこの通りの無愛想な奴だけど、でも悪い男じゃないんだ。仲良くしてやってよ」
「え、ええ    シリウス、よろしくね」

ニースがぎこちなく笑いかけたが、ブラックはの時と同じように何も言わなかった。ああ、やっぱり嫌な奴!ジェームズのことは好き。単純に好き。これからも仲良くしたいって思う。こんな風に思える男の子は初めてだった。でも。
こいつだけはぜ・っ・た・い・む・り!

ブラックをさり気なく睨み、行こうとニースに言いかけた時、彼らの後ろからやって来た小柄な男の子は、を見てあっと声をあげた。

「あ!だ!」

出会い頭にいきなりフルネームを呼び捨てにされ、はむっと眉根を寄せたが、それはなにも初めてのことではなかった。またか、と溜め息を吐く。だがジェームズは非難がましい顔をして、その男の子の首にきつく腕を回す素振りを見せた。

「ピーター、いきなりそういうのって女の子に失礼じゃないか!」
「ご、ご、ごめんジェームズ!ごめんなさい、さん……ちょ、ジェームズ、苦し……!」
「ジェームズって私のこと女として見てるのかそうじゃないのか、いまいち分かんないよね。ま、いいけど。その子、放してあげなよ」

嘆息混じりに告げると、ようやくジェームズは男の子を解放して、咳き込む彼の背を大胆に叩いた。ますます激しく咳をする男の子を見てけらけらと笑い、ジェームズは思い出したように手のひらを打ち鳴らす。

「あ、そろそろ行こうか。初回から遅刻はしたくないからね」
「そうだね。うん、行こう」

結局、最後まで教室に残ったのはその六人だけだった。私とニースと、ジェームズとブラック。ピーターと呼ばれた少年と、おとなしそうな男の子がもう一人。
その集団の先頭をニースと並んで歩きながら、は横目でちらりと振り向いた。
シリウス・ブラック。あいつだけは、どうしても仲良くなれないって!『生理的に無理』って、女の子の間ではよくあるじゃない?そんな感じ。なのにどうして、あいつはジェームズの幼馴染なの!
ジェームズとは、もっとずっと仲良くしたいなって思うのに。

眼球を巡らせて傍らのニースを見やると、彼女もまた落ち着かない様子でこっそりと後方を盗み見ていた。こちらの視線に気付いたらしいニースは少しだけ頬を染めて、ばつの悪い顔で微笑む。やっぱりニースも、あいつだけは無理なんじゃなかろうか。

「聞いたか?薬学は合同授業なんだってさ。しかも蛇だ、こりゃあ楽しみだな」

後ろからジェームズのそんな声が聞こえてきて、ぎくりとする。それに不安そうなピーターの声が続いた。

「えぇ?そうなの?やだなぁ……僕、スリザリンってなんか苦手」
「おいおい、ピーター。『ヘビダイスキー』なんて奴はそうそういないだろ?まぁ、どんな奴らが揃ってるか見物だね」
「あー、やだなぁ。あ、ねえねえ、さん、さんってちょっとだけスリザリンにいたんでしょう?どうだった?何でグリフィンドールに来たの?」
    ピーター!」

無邪気にそう訊いたピーターを、すかさずジェームズが一喝する。ニースもまた複雑な表情でこちらを見たが、は気付かない振りをしてそのまま歩き続けた。

それは、誰もが好奇心から探りたがる。ホグワーツ史上で初めて    組み分け帽子が、決定を翻した少女。
だが、彼女は何も語らない。彼女自身が『それ』を知らないのだから。

ああ……先が思いやられるな。

一体どれほど耐えればいい?
そんなことは、思い悩んだって仕方ない。学ぼう    ここで。母の学んだ、この学び舎で。
『その時』が来ればきっと、あの老人は『それ』を語ってくれる。そう信じて、今はただ学ぶしか。は制服の下にぶら下げた十字のネックレスをそっと握りながら、自分にそう言い聞かせた。

大丈夫。まだまだ時間は、いくらでもある。

目下最大の心配事は    とりあえず、数分後に迫ったスリザリンとの合同魔法薬学。
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(07.07.10)