「早いもんだなぁ、お前さんがもうすぐ五年生か」
「ついこないだ入学したばっかりみたいな気がするのに、って?」
「よう分かっちょるな」
愉快そうに声を立てて笑いながら、ハグリッド。は歯にくっつきそうなヌガーを口内で溶かしながらふと窓の外を見た。
「そうだね……あっという間に半分過ぎちゃった」
「まったくだ。七年なんて、長いように見えてほんの一瞬だぞ。やりたいことは何でもやっとけ、後悔せんようにな」
お前とのことで、後悔は。
ハグリッドが何気なく口にした言葉に、先日のシリウスとのやり取りを思い出しては赤面した。紅茶のカップを口元で抱えながら、ごまかすように下を向く。幸い、ハグリッドはそのことには気付かなかったらしい。大きなその手を、ヌガーへ伸ばそうとして。
コツン、コツン。
どこからともなく聞こえてきた、ガラスを弾くような小さな音。何だろうと顔を上げると、ハグリッドはこちらの背後をきょとんとした様子で見つめていた。
「お、ありゃお前さんとこのムーンじゃねーか?」
「え?ほんとだ、ムーン」
見やると、脚に手紙をつけた森ふくろうが、窓の向こうでパタパタと翼をはためかせている。急いで窓を開けてやり、は彼女を中に導き入れた。
「ありがとう、ムーン。早かったね」
「どうした、こんな時期に。親父さんか?」
封筒を裏返し、そこに予想した通りの名前を見て、
「ううん、違う人。見て見て、じゃーん」
がその署名を見えるようにかざすと、ハグリッドはその大きな目を皿のように丸くした。
「リ、リンドバーグだ?」
「そう。え、覚えてるよね?去年の防衛術の先生」
「忘れるわけがねーだろう。あいつの子供の頃のこともよーく覚えちょる」
「あ、そっか。そうだよね、だってお母さんの同級生だったんだもんね」
するとどういうわけか、ハグリッドはこれでもかというほどあんぐり口を開けて、しばし言葉を失ったようだった。うめくように、言ってくる。
「お前さん、それは……あいつから聞いたのか?」
「あいつ?リンドバーグのこと?そうだよ、たまーに手紙のやり取りしてるんだ。今回は、日本に帰る前に一回会えないかなって思って急いで手紙書いたんだ」
「会う?リンドバーグに?」
素っ頓狂な声をあげたハグリッドの顔色が、心なしか青くなっていくように思えるのは気のせいだろうか。
「あいつから、何か聞いたか?例えば……昔の話だとか」
なんで。どうして、そんなことを聞くのだろう。
ハグリッドはまだ
私が例の『何か』を知ることを恐れている。
程なくして理不尽な苛立ちがこみ上げてきて、はムーンを肩に乗せたまま小屋の入り口に爪先を向けた。
「そんなの、ハグリッドには関係ないじゃん」
「
」
「リンドバーグはいい人だよ。ちょっと意地悪だけど優しいし、面白いし、いろんなこと教えてくれる。何にも言わないでいつまでも隠し事しようとするようなハグリッドとは違うよ」
そして乱暴にドアを開け、夏の照りつける日差しの下へと飛び出した。
GAME OF CHANCE
運任せ
ふたりで過ごす、静かな時間。
思えばこうして二人きりで勉強したことはなかったので、今更ながら、緊張に身体が竦む。羊皮紙に押し付けた羽根ペンの先が震えて、そこにいびつな形を残した。
「なあ、しばらく休憩しないか」
少し前から姿勢を崩してだらけていたシリウスが、とうとう机に突っ伏してうめいた。
「さっき始めたばっかりじゃない」
「いや、俺はお前が来る前からやってる」
「って五分でしょ?」
さらりと言い返すと、シリウスは不貞腐れた顔をしてわざとらしく腕を組んだ。さほど取り合わずに、再び教科書と手製の単語帳に視線を戻す。学期末試験の最終日は、魔法史と古代ルーン語、闇の魔術に対する防衛術という最悪の取り合わせだった。
「暗記、暗記、暗記……こんなの終わるわけねーだろ!」
「ぐちぐち言ってたら余計に終わんないでしょう!ルーン語の復習手伝ってって言ったのはシリウスじゃない」
「こんなに多いと思ってなかった」
「じゃあ、なんかゲームにしよう。単語ゲーム。単語の出し合いして、負けたほうが勝ったほうの言うこと何でも聞くの。もしくはマクゴナガル先生に糞爆弾投げつける、でもいいよ」
「……それ、俺が負けるの前提だろ?」
「あたりー。あ、でもダメ、今減点されたらもう取り返せないからやっぱり勝った人の言うこと聞くことにしよ」
「何でも?」
「何でも
あ、道徳的な範囲で、何でも」
シリウスはしばらく難しい顔をしてこちらを睨んでいたが、やがてにやりと不敵に口角を上げて笑んだ。
「よし、その話、乗った」
そのときからすでに
どことなく、嫌な予感はしていたのだ。
「……信じられない!」
やり方を決めてからのシリウスは凄まじい集中力を発揮して、各ブロックごとの単語を与えられた二十分でほぼ完璧にマスターした。お陰で言いだしっぺの自分のほうがどんどんと追い詰められ、僅差ではあったもののは紛れもなく敗者となってしまった。得意げに鼻を鳴らして、シリウス。
「まあ、こんなもんだな」
「こんなもんって……あーあ、余裕ぶってそんなこと言ってみたいよ!」
半ば叩き付けるような心地で、つぶやく。先ほどまで必死になって何度も単語の綴りと意味を書き付けていた羊皮紙を丸めながら、は渋々とシリウスのほうを見た。
「それじゃ……約束。何でもひとつ、聞いてあげる」
「ひとつって言ったか?」
「えっ!」
「冗談だよ」
愉快そうにくつくつと笑ってから、シリウスは出し抜けにこう言った。
「日本に行ってみたい」
「……へ?」
「お前が生まれた国に、行ってみたいと思ってた」
彼の眼差しはもう、おどけたそれではない。
「今すぐって言ってるわけじゃねーんだ。ただ、できれば学生時代のうちには一度……連れていってほしいなと」
きょとんと目を開いて何も言えないでいるを見て、シリウスは急に自信なさげに声の調子を落とした。
「……まあ、嫌なら無理にとは」
「ううん、違うよ、ちっとも嫌とかじゃなくて……びっくりしただけ」
シリウスが、私の故郷
日本に興味を持ってくれている。そのことが少し、照れくさく、純粋に嬉しかった。
「うん、急な話だから、すぐには難しいかもしれないけど……でも来てくれたら、いつでも歓迎するよ。きれいなところなんだ、すごく」
「へえ……どんな?」
「私が育ったところはね、少し小高い山の上で。海が見えるの、太陽がきらきらして、静かな波が輝いて。離れてみるまで……あんなにきれいなところだって知らなかった」
一年離れて、舞い戻ったとき。その煌きに、目が眩みそうになったのを覚えている。
シリウスはそれこそ眩しそうに目を細め、ゆっくりとその瞼を閉じながらつぶやいた。
「ふうん……ますます行きたくなったな。ここからじゃ、海は見えない」
「シリウスは?実家は……ロンドンなんだよね?」
聞いていいものかと、悩みはしたのだが。
案の定、シリウスは僅かに険しい表情を浮かべ、それを振り払うように軽く頭を振った。
「日も当たらないような……じめじめしたところさ。だからあんな不健康なのが育つんだよ」
それが弟のことを言っているのだということは、すぐに分かった。思わず、辺りを見回して
そこは図書館の、本棚の間にぽつんと置かれた小さな勉強机のひとつだった
小声で、返す。
「そんなことないって。あの子、クィディッチは相当頑張ってるんだって。そろそろレギュラーかもってミランダが言ってたよ」
「レギュラー?まさか……だとしたらスリザリンも堕ちるところまで堕ちたな」
「またそんなこと言って」
「俺の家の話はいーんだよ、お前の実家の話だろ」
「よくないよ。私だって……シリウスのこと、もっと知りたいし。それにロンドンは、私の故郷のひとつでもあるから」
不意を衝かれて目を丸くするシリウスに、制服の下に垂らしたネックレスを取り出して、見せた。
「これ、死んだお母さんが遺してくれたんだ。お母さんは日本人だけど、もともとイギリスで生まれて、この国で大きくなって。お父さんと出逢ったのもこっちだし、結婚してからはロンドンで暮らしてたって。私が生まれたのも、ほんとはこっちなんだ」
「それが、何で……日本に?こっちにいればよかっただろ」
「お父さん、なんていうかナイーブなところがあるし。お母さんが死んじゃって……ひとりで異国にいるのは、つらかったんじゃないかな。でも私、今お父さんと一緒にいる町、好きだよ。それにこっちも、好き。もっとイギリスのこと……ロンドンのこと、知りたいって思うんだ。シリウスの、生まれ育ったところも」
彼はしばらく、こちらの首もとの十字をぼんやり見つめていたが。ふと、そこから視線を外して。
「……そのうち、あいつらのこと
認められるように、なったら」
そのことに驚いて、目を見張るも。にこりと微笑んで、はネックレスを制服の中に戻した。
「なれるよ」
「……ほんとに、そう思うか?」
「
思うよ。私だって、最初は……シリウスと仲良くなれるなんて、思ってなかったもん。正直……好きじゃ、なかったよ、あの頃は」
だけど、今はこんなにも。
おれも、とはにかむように笑ってシリウスは開きっ放しの教科書を閉じた。
「さっきの約束、忘れんなよ」
「うん。覚えとく」
あの町にシリウスがたたずむ姿を想像できず、はシリウスが突っ伏して眠り始めると、誰にも聞こえないように小さく小さく噴き出して笑った。
幸せだった、とても。