「私の顔に何かついてる?」
羊皮紙の上にせっせと羽根ペンを走らせながら、リリーは顔も上げずにそう言ったので、自分に話しかけられたのだと気付くには一呼吸分の間を要した。
「えっ?あ、ううん……ごめん」
「……、どうしたの?言いたいことがあるなら、はっきり言って?」
詰問ではない。リリーは困ったように眉根を寄せながらゆっくりとこちらを見た。
「そ、そんな風に見える?」
「そりゃあ……だってあなた、すぐに顔に出るんだもの。そんなに見られたら落ち着かないでしょう?」
「いや、その……単に見惚れてたんですよあはははは」
うまくごまかそうとしたのだが、かえって白々しいものになってしまったらしい。じとりと冷ややかに睨まれて、はすぐに負けを認めた。
「……ごめん」
「試験まであんまり日がないんだから、気になることがあるんだったらちゃんと言ってね。私も気になるから」
「……うん。その……スネイプとは、その後、どう?」
虚を衝かれたように目を見開くリリーに、答えを聞くよりも先に「ごめん」を繰り返した。
「その、言いたくなければ……」
「いいえ。あの後、少しだけ話をして……多分、もう……大丈夫だと思うわ。友達で、いられると思う」
ともだち、か……本当に、戻れるのかな?ジェームズが知ったら、ショックだろうな、きっと。
ジェームズは例の粘つきスプレーの一件で何度もリリーへの謝罪を試みたが、かんかんに怒った彼女はまったく取り合わなかった。それでもなんとか「ポイント」を取り戻そうと、目下対策を思案中らしい。もっとも、リリーの中で彼への評価はもともとあってないようなものなのだが。
「そ、それじゃあ、前に言ってた気になる人っていうのは?その人とは何か進展とか」
「」
ゆっくりと、その効果を強めるようにはっきりと名前を呼ばれて。
「言ったでしょう?その人のことは、特に付き合いたいとか思ってないって。このままでいいのよ。こそ、どうしたの?」
「どっ……」
浮かんでは消え、また浮かんでは消えていくシリウスの曖昧な残像に思わず頬を染める。だが続けてリリーが言ってきたのはまったく別のことだった。
「サイラスとのこと……気にしてるんじゃない?」
サイラス。ラルフ・サイラス。彼のことは、自分でも驚くほどに頭の中にはなかった。別れを
告げられたという事実はあるが、自分もそのことを望んでいたのではとすら感じているほどだった。何なのだろう、恋って。人を好きになるって、そんなにも容易く思い出までもを捻じ曲げてしまえるものなのか。確かにあの頃は、こんなにも幸せでいいのかと信じていたはずなのに。
「ううん。彼のことは……ほんとにもういいんだ。全然話すこともないし」
「そうなの?でも……気付いてないなら言うけど、ルーン語の授業から帰ってきたとき、あなたいつも沈んだ顔してるわよ?」
「えっ、ほ……ほんと?」
まったく、自覚していなかった。けれども、だとすればそれは……。
「そんなにすっぱりとは忘れられないと思うけど……つらいことがあれば、遠慮なく話してね」
そう言ってにこりと微笑んだリリーの眼差しが、乱れた心を少しずつ落ち着かせてくれる。ラルフのことではないのだが、それを敢えて話そうという気にはならなかった
殊に相手が、あのシリウス・ブラックともなれば。
「ありがとう、リリー」
に、と歯を見せて、は笑った。
HONESTY is the Better Policy
ベストなんて知らないが
なぜあんなことをしてしまったのだろう。それもこれも、ぜんぶ。
(ジェームズのせいだ!)
だらりと定位置の机に倒れ込んで、声には出さずにうめく。あいつが妙なことを言って煽るから、を前にして……つい、変な気分になってしまった。
あれ以来、どこか遠巻きに避けられている気がしてならない。もっとも、こちらも似たようなものだったが。彼女の姿を認めると、自分の仕出かしたことをまざまざと思い出して、気付かなかった振りをして逃げるか、俯いたまま素通りしてしまう。結果的に、この一ヶ月はまともに顔すら合わせていなかった。
(チクショウ……このまま卒業式なんか迎えることになったら絶対あいつ恨む!)
あいつが余計なことを言わなければ、ずっと『友達』でいられたはずだった。まったくジェームズは何を考えてるんだ?あいつが俺のことなんか、友達以上に見るわけないだろうが。
ともだち……。
「よう、シリウス、おはよー」
「おう」
同じ授業を取っているハッフルパフの同級生に気のない挨拶を返してから、再び机に顔を戻す。本当は、この授業だって出たくはないのだ。ほんとうは。
「あ、そうだ!ねえねえ、そういえば昨日あの後、に言われた通りマクゴナガルのところに行ったら五点ももらっちゃった」
「ほんと?おめでとう、でもその五点、私が欲しいくらいだよ」
耳に障る甲高いものと、それに答える聞き慣れた女の声。まるで降って湧いたように背中の後ろから聞こえてきたそれに、ぎくりと身を強張らせたが、適当に腕を組み替えて、人知れずそれをごまかした。どうせ誰も、気にしちゃいないだろうが。
新たにルーン語の教室に入ってきたその女子生徒三人は、彼のすぐ脇を通って前のほうの座席に固まって座った。いつもの席。いつもの話し声。そして、いつもの、……。
そこで初めて、彼は知らぬ間に自分の机の上に丸めた小さな羊皮紙が転がっていることに気付いた。
シリウス、来るかな。
六階は空き教室が多く、そのうちのひとつ、余った空間にとりあえず作ったとばかりに小さな、物置のような教室がある。実際、不要な机や椅子を無造作に押し込んだもので、かくれんぼでもするのでなければほとんど誰も近付くことのない場所だった。そこにこっそり踏み込んで、手近な椅子に腰を下ろす。これですっぽかされたら……どうしよう。ともだち……にも、戻れないのかな。ひょっとして。
けれども、慌てた足音を響かせながら、彼はそんなの不安を吹き消すように教室に飛び込んできた。
「わっるい遅くなった!」
「う、ううん、私もさっき来たとこ……ていうかそんなに急いでどうしたの?」
「お前も隠れろ!早く!」
「はっ?ちょ、なに……」
「いーから急げ!」
なに?一体なんなのよ?
ずっと走ってきたのか激しく息を切らせながら、シリウスは乱暴にドアを閉めての腕を掴んだ。それだけのことでどきりとしてしまい、反射的に身体を引こうとするも、明らかに焦燥しているシリウスに押されてそのままふたりして積み上げられた机の陰に隠れる。狭い空間に近距離で押し込められて、どうしようもなく泣きそうになった。身体中が熱くて……このまま、消えてなくなってしまいたい。
やがて、シリウスのものとはずいぶん違うが、やはり急いだ様子でぺたぺたと駆けてきた足音があった。ひとつ、ひとつ、空き教室のドアを開きながら、中を確認しているらしい。
「……違う、ここも……ええい、ここもか……まったくどこに隠れた?」
フィ、フィルチ!なんてことしてくれたのよ、なんで私が隠れなきゃいけないのよ!目だけで訴えかけようとしたが、シリウスは机の脚の陰から慎重にドアのほうを見つめていてまったく気付かない。
そうしているうちに、フィルチのものらしい足音が、ぴたりとこの教室の前で止まった。
(……やだ、もう私ここんとこ悪戯なんかやってないのに!)
何で私がこそこそフィルチから隠れなきゃいけないのよ!
だがそのとき、どこか遠くで何かが破裂するような甲高い音が鳴るのを聞いた。
「あんのクソガキ!」
低く毒づくのと同時、フィルチの足音はまた慌しく遠ざかっていった。張り詰めていた息をようやくふうと抜き、その場にへなへなとしゃがみ込む。シリウスも安堵したように肩を落として背後の机にもたれかかった。
「なにやったの?」
彼はばつの悪い顔で下を向きながら、もごもごと答えた。
「いや、そんなつもりはなかったんだけどな……足元見ずに走ってたら、フィルチの猫を蹴っ飛ばした」
「それで追っかけられてたわけ?」
「あいつ猫しか友達いないだろ。しつこくてな」
当たり前だろう。ミセス・ノーマがフィルチの命の次に大事な宝物であるということは周知の事実だった。だからこそ標的にされることも少なくなかったのだが。
どこか冷ややかな心地でじっと押し黙っていると、シリウスは身体を起こして僅かに姿勢を正しながら、小声で言ってきた。
「その……それで、遅くなった。悪い」
「それは、いいってば。来てくれてありがとう」
「……それで、話って?」
はなし、って。なんだか他人事のようにすら聞こえるその口振りに、自然と苛立ちを覚えた。それをそのまま声に乗せて、囁く。
「話って……話してほしいのは、私のほうだよ。あのときのこと、ちゃんと説明して」
シリウスは立てた片膝に腕を乗せたまま、呆然と目を見開いた。その瞳を真っ直ぐに見返して、告げる。
「あれからずっと、考えてたんだよ。でも、分かんないよ。シリウスが何考えてるか……分かんないから。だけどシリウス何にも言ってくれないし……あれって結局、なんとなく、だった?」
「それは
」
シリウスの眼差しが、苦々しく細められてその語気を強めた。だがすぐに尻すぼみになって、消え入りそうになりながら、言ってくる。
「それは……ちがう。悪かった……ほんとは、あんなことするつもりじゃ、」
「そういうことが聞きたいんじゃないの」
半ばぶつけるようにして、は声を荒げた。
「あんなことするつもりじゃなかったって……それって後悔してるってこと?あんなことするつもりじゃなかった、そんな気ちっともないのにって」
「お前……誰もそんなこと言ってないだろ、」
「何も言ってくれないじゃない。あんな半端なことだけして、シリウスは何も言ってくれないじゃない。あなたはどうしたいの?私に、どうしてほしいのよ。私は……どうすればいいの?」
話しているうちに、次から次へと雑多なものがこみ上げてくる。怒ればいいのか悲しめばいいのか、自分の内に何があるのかを探るにも……限界が、ある。
我知らず視線を落として項垂れていたに、彼はひっそりと、頼りない声音で言った。
「……これまで、通りで。これまでみたいに……一緒に何かやったり、たまには話したり……そんな、ことで。俺は……それで、」
「できるわけないじゃない」
それは自分でも驚くほどに、自然と出てきた。彼も不意を衝かれたように目を見張っている。顔を上げて、ははっきりとあとを続けた。
「何であんなことされたか……分かんないままで。それでこれまでみたいな『友達』なんて、続けられるわけないじゃない。シリウスが言ったんだよ、私は女で、シリウスは男なんだって。シリウスだって分かってるよね?いきなり理由もなく抱き締められて……これまで通り、いられると思う?意識するに決まってるじゃない。だからシリウスだって、」
それ以上は、恥ずかしさのあまり口にできなかったけれど。乾いた唇を少しだけ噛みながら、また下を向いた。
「……そう、だよな。ごめんな、そんな風に……困らせて」
ようやくシリウスが口にしたのは、そんな言葉だった。そして立ち上がった彼の腕を、今度は彼女が掴んで留まらせる。シリウスは面食らった様子でこちらを見下ろした。
「こんな中途半端なところで、行かないでよ。前とおんなじに戻るのは無理かもしれないけど……でもこのまま有耶無耶になって、離れちゃうのはやだ」
「……?」
「すっごく恥ずかしいんだけど、友達にしてもなんにしても、シリウスは私にとってすごくすごく大事なひとだよ。だからこのままわけ分かんなくて……なんとなく、遠くなって……って、そんなのやだ。どうせ戻れないんだったら、ちゃんと向き合ってからにしたい。なんとかなるんだったら……なんとか、したい」
狭い窓から差し込む光が、薄く染まっていくシリウスの頬を鮮やかに照らした。あのシリウスが、こんな顔をするんだね。
それとも私も、似たような顔をしているのかな。
「だからシリウスにも……思ってることはちゃんと、言ってほしい。言ってくれなきゃ……何にも、分かんないよ。私のこと、どうでもいいって思ってるんじゃなかったら……ちゃんと、説明してほしい」
刹那。伸ばされた彼の腕にあっという間に引き寄せられて、あのときと同じようにきつく抱き締められた。ただ違うのは、そこに力を緩める気遣いがあったところか。なんとかぎりぎりその肩口から目を覗かせて、は何度か瞬きした。
「どうでもいいとか思ってたら、今日だってこんなとこ来るかよ」
絞り出すような彼のその声は、痛切に響いてきた。思わず目を閉じて、溢れそうになるものを呑み込む。しばしの沈黙を挟んで、シリウスはさらに言ってきた。
「……ほんとは俺だって、よく分かってないんだ。どういう風に言ったらいいか……うまく思いつかない」
「うまくなくって、いいよ。そっちのほうが、シリウスらしい」
「悪かったな」
すぐに不貞腐れた声を出すところが、いつものシリウスらしくて。高鳴る鼓動の中にも確かに落ち着く何かを感じて、はほんの少しだけ彼の胸に体重を分けた。それにシリウスが気付いたかは分からないが。
彼はこちらの背に腕を回したまま、小さく、だが確かに相手に聞かせる目的で、少しずつ言葉を紡いだ。
「お前は……最初は『ジェームズの友達』でしかなかったお前が
いつの間にか、いい友達になって……すぐにジェームズのやつとあんなに仲良くなったことも、あのリーマスの口を開かせたことも……ほんとにすごいやつだって、思ってた。近くにいることが自然で、一緒にいるのが楽しくて……あの入院騒ぎがあったとき、お前のことが
ほんとに大事なんだって、分かった」
ほんとに、だいじ。……あの、シリウスが。
「でも、その頃はまだ……友達としか、思ってなかった。くだらねえ話をして、一緒に馬鹿やって楽しんでれば面白い
そんなことくらいしか……考えて、なかったと思う。だけど正直……お前がラルフと付き合い始めてから……なんつーか、面白く、なかった」
彼の感じた震えは、そのままの胸にまで直接伝わってきた。これ以上はないと思っていたよりも熱く、心臓がさらに熱を帯びていくのを知った。
「それでも俺はまだ、こんな風には……考えたことは、なかった。でもあのときから……俺は……」
「……シリウス?」
居たたまれなくなってそっと声をかけると、彼は少しだけ身体を離してのほうを見たが、すぐにこちらの視線をかわすように瞼を伏せた。その熱っぽい瞳が戸惑って狭まるのが……こわいくらい艶めいていて
それだけで、泣きそうになる。唇をきつく噛んで、それに必死に耐えた。
「お前がお袋の話を聞いてくれてから
確かに気持ちが、軽くなったんだ。本当だ。あんな話、聞いてくれたのは……いや、違う……あんな話をしようと思った女は……お前だけだった。だから……」
「それは……私たちが、友達だから……ではなくて?」
恐る恐る尋ねると、そこでようやく、彼は顔を上げて真っ直ぐにの目を覗き込んだ。きれいな瞳……いつだって、グレイに透き通っていて。
「友達……そうかも、な。それがよく分からねえから……今まで何も、言えずにきた。でも……」
「でも?」
彼はその先を、躊躇っているようだった。急に真っ赤になってそれとなく脇を向く様は、なんとなくこちらまで気恥ずかしい思いにさせる。けれども。
「そんなとこで黙らないでよ、気になる」
「……いや、でもな、その……」
「ひどい。言えないようなことなら期待させないでよ」
「いや……だからその……」
シリウスがここまでじれったい態度をとるのはあまり見たことがない。彼が自分のことでこんなにも戸惑っているということが、には何よりも照れくさく思えた。
ようやく覚悟を決めたように、きつく目を閉じたシリウスはそれまでと打って変わって力強い声音で言った。
「何でもないところでお前のことが気になって仕方なかったんだよ!」
どきりと。決定的に、心臓が高く跳ね上がった。思わず身を竦め、見開いた両目で眼前のシリウスを見上げる。彼は戦慄く唇を引き結んで、これでもかというくらい顔面を赤く染めていた。
シリウスが、こんなにも私のことを。
それなのに私は、何も言ってくれないと、ただ責めるばかりで。
「……シリウス」
そっと手を伸ばして触れたその頬は、やはり皮膚を通しても感じられるほどに、火照っていた。
「ありがとう。ほんとはね、こないだは……やっぱり、わけ分かんなくて、戸惑ってるところのほうが大きくて。でも……今、シリウスが一生懸命話してくれて……ほんとに、嬉しい。ありがとう」
「……」
「でも、シリウスがよく分かんないって言ってるみたいに……私も、よく分かんない。ずっと友達だと思ってたから、シリウスのこと好きだけど……そんな風に、『好き』なのか……」
「
分かってる」
噛締めるようにして、シリウスが首肯する。その頬を親指で軽く一撫でしてから、はゆっくりと手を離した。
「だから、このことは……時間かけて、考えたい。なんとなく、好きかも……で付き合って……失敗してるし」
シリウスは何も言わなかったが、その目が僅かに動いて瞬くのは見て取れた。
「ふたりで、考えよう。これからも……一緒にいて、たくさん話して……ふたりで、一緒に考えよう。私たち、どういう形がいいのかなって。私は……そう、したい。シリウスは?」
「……俺は、」
こちらの提案に少なからず驚いたようだったが、彼はしばらく黙考したあと。
「……お前で、よかった」
「へっ?」
「いや、なんでもない。そうだな、俺もお前の言うようにしたい。お前とのことで……後悔は、したくない」
ふ、と。おんなじだと、思った。同じ……私も、あなたのことで。後悔は、したくないよ。
ずっと、傍にいた。思っていたよりも、きっとずっと、近くに。
たとえ、どんな形になったとしても
離れたくはないと、心から、思えるの。
どうして、あなたなのか。誰もが勘繰る、ジェームズではなくて。
分からない、それは。きっとほんの小さな何かが変わっていれば、ここにいるのはもしかしたら、ジェームズだったかもしれないとさえ思う。
でも、ちがう。今確かにここにいるのは、紛れもなくシリウスで。
「私も……あなたで、よかった」
「ん?」
先に教室のドアを開けたシリウスが、不思議そうな顔で振り向いた。照れ隠しに微笑んで、告げる。
「なんでもない」
(なんでもないけど、あなたでよかった)