「……あ」

予測は、していた。いつかばったり、ここで顔を合わせることになるであろうことは。彼も子供の頃から、本が大好きだった。小難しそうな本を、平気な顔をして一度に何冊も。けれど、も。

「ひさしぶ、り」
「……ああ」

気まずい沈黙を挟んで、しばし、向き合って。居たたまれない思いに胸元の本をきつく抱き寄せながら、何気なく瞼を伏せた。と。

「……悪かった」

不意に聞こえてきた囁き声に、はっとして顔を上げる。

「この間は……悪かった。忘れてくれ」

俯いたままそう絞り出した青年の姿を見つめ、彼女はやがて、小さく首を振ってみせた。

「いいえ……私も、あなたの気持ちに応えられなくて……ごめんなさい。でもあなたは、私にとって    いつまでも、大切な友達よ」

ゆっくりと視線を上げた青年は、泣き笑いともつかない顔で、笑った。

ROOM OF REQUIREMENT

再論争

ジェームズたちの作成した『動物もどき完全マニュアル(未完)』はそのあまりの煩雑さに舌を巻くほどだった。ほとんどジェームズとシリウスのふたりで『調査』と『実験』を重ねた結果だというが、まさに天才としか言い様がない。変身術は私も得意だから手伝うとは言ったものの、これではまったく自分の出番はなさそうだ。

「いいの?こんなところに来てて」

羊皮紙の束を手にしたの耳元で、そっとジェームズが囁く。いつまで経っても慣れそうにないそのくすぐったい感覚に、は少しだけ身じろぎした。

「え、なに?どういう意味?」
「どういうって……だからさ、」

ジェームズがじれったそうに口をもごもごさせるのを見て、ようやくその真意に気付いた。少し離れたところで何やら話し込んでいるリーマスとピーターに聞かれないように、声を落として手短に答える。シリウスは、彼女が来たときにはすでに部屋にいなかった。

「ええと……実は、先日別れてしまいまして」
「えぇ?」
「……うん、そうなんです。ごめん、黙ってて」
「いや、それは別にいいんだけど……そう、そうだったんだ」

何ともいえない顔をしたジェームズに、眉をひそめて問いかける。

「何でジェームズがそんな顔するのよ?」
「だって……残念だなぁ。あいつならのこと大事にしてくれそうだなって思ってたんだけど」
「なによ、ラルフだけが男じゃないって言ったのはジェームズでしょ」
「それは一般論だろ?ま、終わっちゃったものは仕方ないね。案外近いところにまた新しい出逢いが転がってるかもしれないよ」
「その言葉、そっくりそのままお返しします」
「もちろん。いつかきっと永遠を誓いたくなるような素晴らしい出逢いが訪れるって信じてるね」

なんか、最近どこかで似たようなことを聞いたような気もするけど……。とにかく、ジェームズとこうして自然と話ができることが嬉しかった。
得意げに微笑むジェームズの肩越しに、二つの眼がぼんやりとこちらを向いていることに気付く。

「ピーター、どうかした?」
「えっ?う、ううん……ごめん、何でもない……」

耳まで真っ赤になったピーターが、慌てふためいた様子で首を振る。不思議そうに瞬いてジェームズが振り向いたそのとき、部屋のドアが開いてシリウスが戻ってきた。
「なーんだ、やっぱり君も知ってたんだ」

手伝ってほしいことがあるといわれ、ジェームズたちに連れてこられたのは八階のとある廊下の一角だった。それだけでピンときたは、目に見える範囲に自分たち以外の誰もいないことを確認してから、ジェームズに先立って傍らの像に手を置いた。

「知ってる、ここ、像の前を三回行き来するんだよね?」

ジェームズはさほど驚いた様子もなく、だが少なからずがっかりした顔つきで肩を竦めた。

「なーんだ、やっぱり君も知ってたんだ」
「うん。前に使ったことがあるし……それに、リンドバーグもこの部屋のこと、言ってた」
「リンドバーグが?彼もこの部屋のこと、知ってたっていうの?」

不意を衝かれたように目を見開くジェームズたち見渡して、は無意識に声を落とした。

「うん。リンドバーグも、学生時代に見つけたんだって」
「ちょ、ちょっと待って?が何でそんなこと知ってるの?って、そんなにリンドバーグと仲良しだった?」

素っ頓狂な声で聞いてきたピーターに、もう一度周囲を見回して、答える。

「リンドバーグって、お母さんの同級生だったんだって。それで、まあ、たまに手紙のやり取りを」
「へえ……すごいね。リンドバーグ、元気なの?今は何してるの?」
「立ち話は部屋に入ってからにしないか?いつまでもここに突っ立ってたら、誰かが来るかもしれないし……ええと、五人で例の話ができる部屋、五人で例の話ができる部屋、五人で例の話ができる部屋……」

ピーターの問いを遮り、ジェームズはぶつぶつと唱えながら像の前を往復した。すると、あっという間に壁に真鍮の扉が現れ、は昔に見たその光景に、どきりと心臓の跳ねるのを感じた。
この扉の向こうで……あのとき、わたしは。
こっそりと後方のリーマスを見やると、控えめにこちらを見ていたリーマスと目が合った。彼も一瞬視線を逸らそうとしたものの    曖昧に微笑んで、そしてゆっくりとドアのほうを向いた。
部屋は、リーマスと二人で使ったときとはまるで様子が違っていた。まず、グランドピアノがない。リーマスも同じことを思ったらしく、しばらく呆然と眼前に広がる光景を見ていた。

「この部屋は、その時々の必要に応じて変わるんだ。ほら    思った通り、変身術の本がたくさん」
「おい、見ろよ、こんなの禁書の棚にもなかったぜ」

背の高い本棚にずらりと並んだ本の背表紙を覗きながら、シリウスが歓声をあげる。ジェームズは、本当だ、といってその好奇心に満ちた瞳を輝かせた。

「これだけあれば手の問題もなんとかうまくいくかな。、君にも手伝ってほしいんだ」
「えぇ?い、いいけど……正直、このマニュアル見ても、私あんまり分かってないよ?」
「へーきへーき、僕らだって全部手探りでやってるんだからさ、君の意見もぜひ聞きたいんだ。ちょっと、手……というか前脚の部分に手こずってるんだよね」

前脚?思わずそのジェームズの手をまじまじと見つめてしまい、は上擦った声をあげた。

「ま、まま前脚って……まさかジェームズ、そこ以外はもう完成して……?」
「や、まだだよ。あと頭がどうもうまくできなくてさ。顔はそのままで耳だけ変身しちゃったりすることがあるんだ」
「み、みみ!?」

何に変身するのかは聞いていなかったが、唐突に聞かされた彼の発言には度肝を抜かれた。ま、まさかこいつ、ほんとに……。

「そんなのほとんど成功したようなもんじゃない!え?シリウスたちも?わ、わ……ジェームズ、ほんとに……ほんとにそんな……」
「ほとんど?まだまだだって、だって最も難しいのは自分に見えない部分だろ?頭なんて最大の問題点さ」
「でも!でも、だって……まさかほんとに……」

彼らが必死に取り組んでいることは、知っていた。だが変身術のより深部を学んでいくにつれ、彼らのやろうとしていることがどれほど無謀で困難を極めるかということが、彼女にも感覚として分かるようになっていた。まさかそれが、本当に実現しようとしているなんて……。

「それは問題ないだろ。見ろよ、あそこに鏡がある」

ジェームズの心配をよそに、あっさりと言いのけたのはシリウスだった。見やると、彼の指差すほうに、壁の色に同化して今まで気付かなかったが、高さ二メートル、横幅は三メートルほどあろうかという大きな板のようなものが立てかけてあった。それをすっぽり覆う布が掛けられているが、少しだけはみ出た下の部分に、明かりを受けて煌く鏡面の一部が見える。

「ほんとだ。助かった、こりゃあいい練習場になりそうだ。部屋だとさすがに狭くて困ってたんだよね」

棚から抜き出した本を上機嫌でぱらぱら捲るジェームズを見やり、は首を傾げた。

「狭い?そうかな……だって三人でしょう?え、まさかそんなにおっきな動物に変身するわけ?」

するとジェームズは秘密めいた笑みを浮かべて、まだ内緒、と囁いた。

「なにそれ、手伝ってほしいって言っておきながら、何に変身するかは内緒?それじゃあ私だって手伝いようがないでしょう!」
「あ、そっか……には完全体を見せたかったんだけど……そっか、そうだね、残念だな」

まさか本気で気付いていなかったとでもいうのだろうか。肝心なところで間が抜けているなと思いながら、は深々と嘆息した。苦笑しているリーマスの様子を見ていると、彼は気付いていながら敢えてそれを黙っていたというところか。ジェームズは傍らの床に本を投げ出して軽快に立ち上がった。

「それじゃあ、現時点でできてるところまで見せるから、それを見たら君も確実に共犯だよ」
「なに言ってるの?」

当たり前のように切り返して、はきょとんと目を開いたジェームズに改めて向き直った。

「私たち、とっくの昔に共犯だったでしょう?」

言ってしまってから、恥ずかしいことを言ったかもしれないと思い直した。だがやがて嬉しそうに目を細めたジェームズは、両の拳を握って誇らしげに頷いてみせた。

「そうだね、それじゃあやってみるから五秒だけ後ろ向いてて」
「五秒でいいの?」
「あ、いや、十秒。それから……ええと、笑わないでよ?」
「笑う?」

聞き返して。不意に、はっとする。そうか、不完全な動物もどき……前脚と顔だけは人間のままの、何らかの動物になる。そういうことなのだ。

「……ど、努力します」
「わ、分かってると思うけど、これでも僕たち柄にもなく頑張ってきたんだからさ。笑われたらショックで元に戻っちゃうかも。もう変身できないかも!」
「そんなに脅さないでよ……」
「元に戻るならともかく、下手に失敗して戻れなくなっちまったら笑えないぞ」

辛辣な面持ちで、シリウス。その目がまるで入学当初の関係に戻ったような気がして、は途端に自信を失って縮こまった。彼らの努力の経過を笑うなんて……けれども、その姿を目の当たりにしてしまったとして。

「……、やっぱり君は……外れたほうが、いいんじゃないかな。いや、君の気持ちはもちろん嬉しいんだ。でも    君にこんな危険なことはさせられないし、開発中のジェームズたちの姿はきっと……始めからずっと、一緒にやってきた人間でないと……」

躊躇いがちに発されたリーマスの言葉を、ピーターがたどたどしく遮った。

「ねえ、それじゃあこうしたら?は変身術が得意なんだから、きっとアニメーガスだって    
「それは最初に決めただろ、ピーター。には絶対やらせねえ」

ぜったい。シリウスのきつい口調に、ぐさりと心臓を抉られたように感じた。ぜったい。ぜったい、には。
そのことは、納得したはずだった。けれどもシリウスの言葉が、あまりにも強く、突き放すかのようなものだったので、思わず反抗的に言い返してしまった。

「何で?あのときとは、状況は違ってるはずだよ。あのときは……彼と、付き合ってたから。だから彼のことを考えてって、だから私はダメだって……」
「いつまでそれが続くんだ。どのみちいつかはまた別の男ができるだろ。ああ、お前は俺らにとって確かに特別な友達だ。でも俺たち男同士とまったく同じ友情なんてあるわけねーんだ。また新しい男ができて、それでもそいつに黙って俺らとずっと陰でこういうことを続けられるのか?」
「………」

シリウスの言っていることは……正論なのだろう、きっと。確かにあの頃、私には……ラルフしか、見えていなかった。中途半端に投げ出してしまうくらいなら……けれど。

「やめろよ、シリウス。お前の言う通り、は僕たちの、大事な友達だ。お前の言ってることも分かる、でもの気持ちだって分かるだろ」

ジェームズが言うと、シリウスは信じられないとばかりに目を見開いて傍らの友人を凝視した。

「じゃあなにか?お前、こいつがアニメーガスになるのを許すっていうのか?」
「まだそうは言ってない。だけど考える余地はあるだろうって言ってるんだ。今日を誘ったも僕だ」
「話が違うだろ!お前だってにこんなことさせられねえって散々言ってきただろーが!」
「分かってる、分かってるよそれは。でもな……」
「俺は絶対に認めねーぞ」

ぜったい。ぜったいに。そればかりを繰り返すシリウスは、床に広げたマニュアルの束をまとめて荒々しく立ち上がった。

「おい、どこ行くんだよ」
「俺は帰る。にはやらせねえっていうから来たんだ。そういう話になるんなら俺は戻る」
「おい、せめてマニュアルは置いていけよ。その六割は僕の製作だろ?」
「うっせー六割は俺だ」

吐き捨てるようにそう言って、ジェームズが言い返すよりも先にシリウスは部屋を出て行った。あまりに突然の事態にどうしていいか分からず、はただ呆然と彼の消えた扉を見つめる。

……分かってあげてほしい。動物もどきは、本当に難しい魔法でね。ジェームズたちも、何度か危ない目に遭ってるんだ」

ひっそりと口を開いたのは、リーマスだった。扉の向こうを見透かすように目を細めて、続ける。

「シリウスがきついことを言うのは、本当に君のことを心配しているからなんだよ。分かるよね?シリウスが他人のためにあんなに必死になって怒るのは……珍しいことだよね?」

言われて初めて、はっとした。些細なことでむきになったり、すぐに声を荒げたりするシリウス。けれども、確かに……誰かのために感情を剥き出しにするということは、余程のときにしか、なかった。
困ったように笑いながら、ジェームズ。

「参ったなー、ほんとに。この議題はまた振り出しかな?」
「……ごめん。なんか、私が入ると何だかんだでいっつも混乱させてる気がする……」
「なーに、それだけ君の影響力が大きいってことさ。愛されてるんだよ、君は」

にやりと目を細めたジェームズに笑い返して、は小さくありがとうを告げた。
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(08.06.16)