「別れましょう」
それはあまりにも唐突な話だったため、咄嗟に、なんと言ったかはよく覚えていない。だが、きっと間の抜けたことを言ったのだろう。もしくは、はなはだ見当違いなことを。ただ、疲れたように
見慣れたそれではなく、言葉では表現できないほどの疲弊を含んだ面持ちで軽く頭を振って、彼女は言いなおした。
「いいえ、違うわね……別れましょう。お願い、別れて」
何も言えずに呆然と瞬くこちらを一瞥して、ひっそりと、繰り返す。
「お願い。あなたのことを
私が、嫌いになる前に」
大嫌いだと、かつて言われたことがあった。けれどもそれは幼い子供の意地でしかなかったのだから、まったく大したことではなかった。それはこっちの台詞だと怒鳴り返したほどだ。
だがそのときの彼女の瞳は……悲痛な戦きに、満ちていた。
なんという言葉を返したか、それは覚えていない。
けれど。
確かに狂い始めた歯車の軋みを、聞いた。
FATE is not an eagle
それはむしろ、ネズミのように
思ったほど私は、ラルフのことを好きではなかったのかもしれない。別れを告げられたあのときもそうだが、日を経るにつれて、その思いはますます強くなっていった。あんなにも好きだと思っていたのに、自分でも気付かないうちに情熱は冷えてしまったらしい。どうして、いつから。ラルフだって本当は、私のことなんて好きじゃなくなってたんじゃないの?そういえばリーマスのことも……いつの間にか、うやむやになって。
あんなにも、好きだったはずなのに。
「心配しなくてもいいと思うよ、リリー。スネイプだっていつまでも……その、ええと……ほら、私の経験上、恋なんていつかは冷めるんだから」
言ってしまってから、ひょっとしたら逆効果だったかもしれないと不安になったが、リリーは気楽に笑った。良かった……先週のホグズミード週末で、リリーは珍しく衝動買いをして、良い気分転換になったようだった。
「だけどね、。サイラスと付き合ってたときのあなたの気持ちは……本物だったのよね?」
「うん、まあ……燃えてるときはね、この人しかいない、これが運命かなって思うの。でも、なんていうか……過ぎてしまえば、すべて過去っていうか」
慎重に言葉を選びながらも、は思っていたことを素直に口にした。
「人って……忘れるように、できてるんだと思う。何でもかんでもすぐに忘れちゃうのはどうかと思うけど、だけど……きっと、だから、そんなに思い詰めなくても大丈夫だよ」
切なげな眼差しで微笑んだリリーがありがとうと告げたとき、ノックとともに部屋のドアが開いて、見知った上級生が顔を覗かせた。
「、リリー、まだ行かないの?」
「あ、行く行く!アリス、ありがとう」
スネイプのことで悩むリリーの方に注意を向けさせたくなかったので、不自然なまでに軽快な声で返答する。訝しげな顔をしつつ、それじゃあ下で待ってるわねといってアリスがドアを閉めてから、ベッドから立ち上がったリリーは唱えるように、呟いた。
「でもね、」
「うん?」
振り向いて、聞き返す。答えた彼女の瞳は、今や穏やかな光をたたえていた。
「それでもいつかは、死ぬまで一緒にいたいって
そう思える人にきっと出会うはずって、私は信じてるのよ」
初めての『スラッグクラブ』はそれなりの賑わいを見せていた。魔法で天井を高く見せるという技で広々した空間を演出した中に、二十人ほどの生徒が呼ばれている。さらにはスラッグホーンが呼び寄せた中年の魔法使い――
どうやら卒業生らしい
もひとりいて、スラッグホーンはほとんどの時間、自分がいかに作家としての彼の業績に貢献してきたか延々と語ってのけた。
「……いつもこんな話聞かされてるわけ?」
隣のリリーにこっそり話しかけると、彼女は小さく苦笑して片目を閉じた。
「でも魔法界で活躍してる人たちの話を聞けるなんて、貴重な体験だと思わない?」
「そうだけど……ちょっとしゃべりすぎ」
「まあまあ。、このビスケット、美味しいわよ」
スラッグホーンは特定の誰にともなくコンスタンス・マクルーハンの思い出話を繰り返しているので、まともに相手にさえしなければ美味しいものを食べられて、まったくの無意味な時間ということもないが……ひとりで参加するとなると、あまりにつらい時間だなと思った。こんなパーティー、あのジェームズやシリウスたちが嫌がるのも無理はない。
「ところでコンスタンス、シンシアはどうしてるかな?ここにいるアリスが魔法法執行部の仕事に興味があるそうでね、できれば話を聞きたかったというんだが」
話題が急に傍らのアリスに移ったので、は驚いて口腔のビスケットを噴き出してしまった。なにしてるの、と呆れ顔のリリーがティッシュを出してくれている間にも、そちらの話は勝手に続いていく。
「先生、無理をおっしゃらないでください。執行部が今どんなに多忙なところか、ご存知でしょう。フリーな僕とは住む世界がまるで違いますよ」
「ああ、もちろん、もちろん……そうだな、確かに難しいだろう。すまないねアリス、そういうことなんだよ」
スラッグホーンがいかにも残念そうな顔でそう言うと、アリスはいいえと首を振った。
「仕方ありません。マクルーハンさんのおっしゃるように……近頃は、何かとお忙しいでしょうから。でも、今度のOWL試験は頑張ります」
「そうか、君は五年生なんだね。OWLといえば、今はどんな勉強をしてるんだい?」
そこからはアリスとマクルーハンがOWL試験の話をし始めたので、はそちらから視線を逸らしてそっとリリーに聞いた。
「魔法法執行部って……確か、魔法省の?」
「そう。魔法界の警察」
「ア、アリスってばそんなところに就職希望なんだ!?」
普段のおっとりしたアリスの物腰からは想像もできない。視線だけを動かして盗み見ると、彼女は呪文学のなんだか小難しい話をしているようだった。
「ああ、そうだ、ミス・ローチ」
実際よりもずいぶんと長く感じられたパーティを終えてスラッグホーンの部屋を出るとき、一緒にいたアリスがマクルーハンに呼び止められた。
「ミセス・ティレットは無理だが、僕の古い友人にオーラーがいるんだ。まだ若いけどなかなか頭の切れるやつでね。そいつの住所なら分かるから、僕から紹介してあげるよ」
「え……本当ですか?でも、オーラーなんて……とっても、お忙しいでしょう?」
「それは、もちろん。でも執行部も優秀な人材を求めてるからね。君だって執行部の人間と繋がりを持っておいて損はないだろう?」
アリスはまるでその申し出が天から降ってきた贈り物であるかのように飛び上がって喜んだ。マクルーハンとまだしばらく話があるといって残ったアリスと別れて、リリーと一緒に寮への道のりをたどる。
「ねえ、マクルーハンが言ってた『オーラー』って何?」
聞き慣れないその単語について尋ねると、リリーはいつものようにさらりと答えてくれた。
「オーラー、闇祓いよ。魔法法執行部の所属で、闇の魔法使いを捕まえるの」
「ふーん……でもそんな危険な仕事してる人と知り合ったりして、アリス大丈夫なのかな?」
「アリスが実際に何かするわけじゃないし、心配しなくてもいいんじゃないかしら。きっといい刺激になると思うわ。こういうことがあるから、ね?パーティーに行ってて損はないと思うのよ」
「そういうもんかなー」
曖昧にぼやきながら、階段を上がる。本当は段のない見せ掛けだけのところを飛び越えて、の頭は別のことを考えていた。
アリスは、一年後の自分。リンドバーグとの約束に向かう時間は、刻一刻と。
その頃、私は夢と呼べるものを何かひとつでも、持つことができているだろうか。
目指していたその先に、先んじて伸ばされた手があった。すらりと透った、美しい、しなやかな指先。それが目当ての本を引き抜いて、引き寄せる。
「あら、ごめんなさい。入用だったかしら」
わざとらしい仕草で茶色い髪を掻き上げながら、その女は彼がここのところずっと探していたその本の背表紙をなぞった。
「『動物もどきのすべて』……あら、違ったみたい。ごめんなさい」
そしてそれを、こちらの前にすっと差し出してきた。いろいろな意味で速まる鼓動をなんとか抑え込もうと俯きながら、受け取る。
彼女はそのまま変身術の本棚を通り過ぎ、立ち去る直前ふと思いついたように振り向いた。
「そういえば、あなたのお友達のミス・、別れちゃったそうね」
「えっ?……別れた?ラルフと?」
「あら、知らなかったの。そう、ごめんなさい」
まったく悪びれた様子もなく言い、彼女はなぜか足音を忍ばせてこちらに戻ってきた。ふと香る何かにどきりとして、慌てて視線を逸らす。声を落として、女はそのままあとを続けた。
「だけど、よかったわね」
「え?なにが……ですか」
わけが分からず聞き返すと、彼女はさも当然のように言ってきた。
「だってあなた、ミス・のこと好きなんでしょう?」
「……えっ?」
まったく予期していなかったことを聞かされて、間の抜けた声をあげる。やがてその言葉の意味に気付いてしどろもどろに言い返した。
「なっ、何言ってるんですか?僕が……何でに……僕は……」
「あら、そうだったの?ごめんなさい。私、てっきり」
女は目を見開いてそう言ってから、ごめんなさいともう一度だけ繰り返した。
彼女が立ち去った後も、得体の知れない動悸に苛まれて彼はしばらく、指一本も動かすことができなかった。