スーザンとの約束というのは、彼女が行きつけの美容院に連れて行ってもらうことだった。スーザン曰く、男というものはいくらでも綺麗になっていく女に惹かれるもので、そのためには弛まぬ努力が必要だというのだ。そこでまずはヘアスタイルを整え、さらにその店ではオプションにメイクも含めることができるので、美しくなった自分を見てもらってひとまずラルフに機嫌を直してもらおうという作戦だった。
とはいえメイクなど生まれてこの方したことがないので、は、要らない、そんなものは必要ないと抵抗を試みたのだが、美しく在ろうとしないことは罪だ、メイクとは自身を偽るための行為ではなく、己の生まれ持ったものを最大限に引き出す魔法なのだという店員の熱い説得にとうとう敗北してしまった。
「いかがですか?」
問われ、重苦しい気持ちで長らく瞼を閉じていたは、気だるげに目を開いた。と、正面の鏡の中できょとんとこちらを見返している自分の姿に、思わず口を開いて呆然と瞬く。
後ろからその様子を覗き込んだスーザンは、店員と揃って満足げににこりと微笑んだ。
「うん、やっぱり、そう。あなたはもともと童顔だから、無理に大人っぽく見せる必要はないのよ」
「本当。ウィットウェルさんの言う通り。さんはもともと目がぱっちりしていますから、やはり目元にポイントを絞って仕上げてみました」
そんなスーザンたちの解説も、ほとんど耳に入ってこない。大きく見開いた目で、じっと鏡の中の自分を見つめる。なんだろう……派手なメイクじゃないのに、なんていうか……自然と、すっきりした感じ。
けれども、こんな姿でラルフに会うのかと思ったら、途端に恥ずかしくなってきては涙混じりにスーザンに縋りついた。
「私、やだよこんなの!こんな……なんかこんなの、あからさまにこの日に合わせましたって感じで!やだ、恥ずかしい!」
「合わせて何が悪いの?嬉しいに決まってるじゃない、恋人が自分に会うために綺麗にしてきてくれたなんて」
「いや!絶対やだ!このパーマも、今すぐ戻して!」
「なに言ってるの、そんなの認めないわよ。いいです、このまま精算してください!」
「スーーザーンーー!」
これまた生まれて初めてのパーマを振り乱しては叫んだが、スーザンも店員もまったく取り合ってはくれなかった。
Love me, love my dog
「すき」じゃすまないこともある
どうしよう、どうしよう、どうしよう……。
約束の店にたどり着いたのは、二時十分前だった。ジェームズやリリーと待ち合わせたときは十分前といえばすでに二人とも来ている時間だったので、スーザンと別れてから大慌てでやって来たのだが、ラルフはまだのようだ。ひとまずほっとしたが、すぐに硬い緊張が押し寄せてきて、握り締めたバッグの紐を掴む。どうしよう……服はいつもと変わらない自分のものだが、梳いた髪にパーマをかけられた上にメイクまでさせられた。ナチュラルメイクだから大丈夫!とスーザンは太鼓判を捺したが、今にも口から心臓が飛び出しそうなほどどきどきしている。どうしよう……さすがに気付くよね。ラルフ、どう思うかな……。
バレンタイン前のホグズミード週末、リリーに髪を結われたときも、ラルフの反応はといえばイマイチだった。ラルフはもしかしたら、あくまでも自然体の女の子が好きなのかもしれない。だとしたら、こんなのはまったくの……。
「
?」
店の窓ガラスに反射する自分の姿を見るのが恥ずかしくて俯いていると、不意に名前を呼ばれて顔を上げた。少し離れたところで足を止めたラルフが、目をぱちくりさせながらじっとこちらを見ている。
ど……どうしよう。速まる鼓動に、高まる体温を全身が感じ取って震える。ラルフは気まずそうにこちらから視線を外し、遅くなったと詫びた。
「ラルフ、私……あの
」
「とりあえず、中、入ろうぜ。ぐずぐずしてたら席がなくなるぞ」
やっとのことで絞り出したこちらの言葉を遮って、ラルフがマダム・エックルズのドアを開く。その背が未だに無言の憤懣を物語っているようで、は泣き出しそうな思いをこらえて彼のあとに続いた。
マダム・エックルズはダイアゴン横町の隅にある、小さな軽食屋だった。洒落たものはないが素朴なデザートが多く、それなりに歴史もあるので、午後の三時前後は十席ほどの店内が混み合う。なんとかカウンターに空席を見つけたは、ラルフと並んで座り、アイスコーヒーとチョコレートパフェを注文した。
「ラルフは甘いものとか、いいの?」
「ああ。さっき昼飯食ってきたところだから」
アイスティーを頼んだだけのラルフに聞くと、彼は素っ気なくそう言った。だめだ……やっぱりまだ、怒ってる。
お金かけてこんなことしたって、ちっとも効き目ないじゃないのスーザンのうそつきーー!
こちらがパフェを食べている間、ラルフは早々に空になったグラスの中をストローで延々と掻き混ぜるばかりだった。会話が出てこない。どうしよう……何を言えばいいんだろう。せっかくのパフェの味もほとんど分からないままに終わってしまった。
お終いにはグラスの底で溶けきってしまったチョコレートアイスの残骸を手持ち無沙汰にスプーンでつついていると、溶けた氷と混ざり合った僅かな紅茶を飲み干したラルフが吐き出すようにして口を開いた。
「俺……お前が何考えてるか、分かんねーよ」
「え?」
不意を衝かれて、言葉を失う。ラルフはテーブルに肘をつき、抱え込むように額に手を添えた。しばらく見ないうちに少し伸びた黒髪を掻き上げて、うめく。
「お前のこと……好きだよ。でもな、近付けば近付くほど、お前が何考えてるか
分からなく、なってきた。このままずるずる付き合ってたって、俺はずっとお前のこと、信じられないかもしれない」
それって、ひょっとして。信じられない思いで目を見開くを余所に、ラルフは手元のグラスを見つめたまま、囁くように続けた。
「だから……しばらく、距離を置こう。その間、俺もゆっくり考えてみる。だからお前も、一回考えてみろよ。この先、自分がどうしたいか」
「そんなの……私は、
」
反射的に声をあげると、軽く右手を上げてラルフは首を振った。
「今は、聞きたくねえ」
「……ラルフ」
「今、何を言われても……俺は聞く気にはなれない。だから今は、何も言うな」
そして伝票を手に取り、ひとりでさっさと腰を上げた。お金……とつぶやいたに、いい、めんどくせー、といって背中を向ける。
ラルフは去り際に、ほとんど独り言のような声音で、こう言い残した。
「俺は……いくら友達っつっても、彼女が他の男とやたらと仲良くやってても平気でいられるような……そんな馬鹿みてーなお人好しじゃないんだよ」
「ねえ、私ってそんなに間違ってこと、してる!?」
トムに頼んで紅茶を運んでもらった、漏れ鍋の客室。
リリーと新学期の買い物を済ませ、は彼女を一週間ばかりの仮の住まいへと案内した。メイクはあの日限りで落とし切ったが、せっかく自費でパーマをかけたのだからこればかりは自然と落ちるのを待つしかない。まじまじとこちらを見つめ、どんな心境で髪型を変えたのかと聞いてきたリリーに、は先日の一部始終を語って聞かせた。
「そりゃあさ、授業サボってシリウスと一緒にいたことも、心配でシリウスのこと抱き締めたのだってさすがに悪かったなって思うよ。でも……だってあのときは、ほんとに仕方なかったんだもん!シリウス、ずっとずっと家のこととか血筋のこととか、家族のことですごく悩んでて……あのときは、ああするしかなかったんだもん。それはいけないこと?友達のことそうやって慰めてちゃ男の子と付き合えないなんて、」
「
。私たち、そういう意味ではもう子供じゃないのよ?」
リリーはそう言って、悲しそうに目を細めた。
「あなたがブラックのことを思ってそうしたのは、分かるのよ。それがいけないことだなんて言わない。だけど、サイラスの気持ちも考えてあげて?彼は本当に、あなたのことが好きなのよ」
「それは……」
言いかけて
うまく、言葉が出てこない。ラルフは私のことが、好き。その気持ちを疑っているわけじゃない。でも。
やっとのことで紡ぎ出したのは、我ながらなんとも卑怯な口上だった。
「でも……リリーだって、分かるでしょ?リリーだって、ルーカスとかカルヴィンとか……仲良くしてる男子、いろいろいるじゃん。もし、もしもだよ?彼氏ができて、その人に『他の男と仲良くするな』って言われたら困るでしょ?イラっとくるんじゃない?そんなこと言われたってさ、こっちは友達だっていうのに!たまには抱き締めて慰めてあげたくなるときだってあるよ!」
すると。リリーは突然、なんともいえない奇妙な顔をした。怒ったような、困ったような。
だが結局は目を閉じて疲れたように首を振ってから、腰掛けたベッドの縁で軽く足を伸ばした。
「ほんとに……嫌になるわね。男だとか、女だとか
そんなこと考えずに、みんなでずーっと仲良くやっていければいいのに」
そういえば、彼女は前にも一度……こんな表情を、見せたことがあったっけ。
「話しちゃおうかしら、だけには」
だけには。その言葉に思わずどきりとして、は心持ち傍らのリリーの方に身体を寄せた。微苦笑を漏らして、リリーが視線を虚空へと上げる。もうずいぶんと古い建物だが、掃除だけは欠かさず丁寧にしてくれているようで、はここで毎日を快適に過ごすことができた。
「……ごめんなさい。本当は、ひとりで抱えるのがつらくて……誰かに、話を聞いてもらいたいだけなのかも」
「いいよ、気にしないで。私だってこれまで、リリーにはいろいろ聞いてきてもらったし
私なんかでよかったら、何でも話して」
「
ありがとう、」
本当は、嬉しくてたまらなかった。
思いやりがあって、人の話を聞くのが上手で、時にはちゃんと怒ってくれる、そうしたリリーのことがは大好きだった。だがいつもいつも、こちらの話を聞いてもらうばかりで
彼女のために、何もできない自分を歯痒く思うことも、あったのだ。
だから、初めて彼女の役に立てるかもしれない
そのことが、本当に嬉しかった。
リリーは小さくため息をついて、ゆっくりと瞼を開きながら囁いた。
「実はね……告白されたのよ。ずっと、友達だと思ってた人に」
「あ……そう、なんだ。それでリリーは、その人のことどんな風に思ってるの?」
リリーが男の子に告白されるのは、別段珍しいことではない。上級生や他の寮の生徒に呼び出されて出て行くことも稀にある。彼女がこれまでにイエスと答えたケースは、の知る限りではなかったが。
リリーは考え込むようにして、難しい顔をしながら、
「……そうね。とっても真面目で、いい友達だとは思ってるんだけど
だけど、正直、そんな風には……」
その答えに驚いて、は目を丸くした。当たり前のように口をついて出てきた言葉を、そのまま形にして発する。
「だったら、悩むことなんかないんじゃない?リリー、前に言ってくれたよね。自分の正直な気持ちから逃げないでって。自分の思ってること、その人に伝えるべきだよ。私、ラルフと付き合ったこと、後悔してないけど
だけど、なんていうか……ラルフのこと、好きだけど……でもリーマスへの気持ち、なんだかまだほんのちょっとだけ、心のどこかで燻ってるみたいな……変な感じが、することがあるんだ。ちゃんと、ケリつけとかないと……後になって、気持ち悪くなると思うよ」
するとリリーは、そっと頭を抱えて項垂れた。彼女のこうした姿を見るのは初めてで、戸惑う。おろおろと意味もなく辺りを見回してから、尋ねた。
「だ、誰なの?リリー、今までだって何人もの男の子の告白、断ってきたじゃない。そのリリーがそんなに悩まなきゃいけない相手って、一体どこの誰なの?」
顔を上げたリリーは心底疲れ切った様子で頬にかかった髪を払い、徐に口を開いた。
「……。あなただから、言うんだけど」
「う、うん」
ごくりと唾を飲んで、相手の言葉を待つ。
やがて、彼女の答えを聞いたは、あまりに突飛なその名前にあらん限りの絶叫を吐き出した。