……おかしい。

握り締めた自分の拳をそっと開き、そしてまた握り、開き、を繰り返して。それをぼんやりと眺めながら、独りごちる    どう考えても、おかしい。
そっと、視線だけを動かして。前方の座席で何やら熱心にノートを取っている女子生徒の後ろ姿を、見つめる。だがまるでそれがどうしようもなく悪いことのように感じられて、慌てて手元に広げた真っ白のノートを見下ろした。おかしい……やっぱり、おかしい。

あの日からずっと、あいつのことが頭から離れないなんて。

TRIANGLE

譲れない

結局、ジェームズたちの意向を汲み取って、今回だけは彼らの計画に加わらないことにした。ただし、手伝えることがあれば何でも手伝うという条件をつけて。変身術は私だって得意なのだと食い下がったら、なんとかそれだけは了承させることができた。

「でね、メイってば結局その日はリンドバーグに会えもしなかったんだって。朝から晩まで大変だよね」

いつものように、ラルフと二人。図書館で、は試験前の最後の追い込みをしていた。その合間合間にいつものように視線を交わして、他愛無いことを話して    の、はずが。
その日、羽根ペンの後ろをイライラと噛んだラルフは盛大にため息をついて背もたれに倒れ込んだ。

    やめた」
「え?何を?」

突然のことに、わけが分からず目を丸くする。だがラルフは険悪に目を細めて、放り出した羽根ペンを人差し指で叩いた。

「やる気が起きねえ」
「疲れた?ちょっと休もうか」
「……そうじゃなくて」

こもった声で唸りながら、ラルフ。彼のこんなにも苛立った顔を、は見たことがなかった。なに……私、何かしたっけ?

「お前、一昨日のルーン語の時間、何してたんだよ」
「え?ルーン語……」

思い当たって、あ、と声をあげる。授業をサボってシリウスのあとを追いかけた、あの日。

「シリウスもサボってたよな。お前ら、一緒にいたのかよ」
「え、と……それは」

どうしよう。真っ赤な嘘はつけないし、かといって本当のことを話しても……。

「お前、あいつとは何もないって言ってたよな」
「な……ないよ、そんなの。何も。シリウスは    友達だってば……」

確かのあのとき、急に抱き締められてドキドキしたのは事実だけれど。でも、あれはちがう。涙を見せて、長年の苦悩を吐露してくれたシリウス。友達として、私はそれを受け止めただけ。
へえ、と猜疑の眼差しを浮かべて、ラルフが顔を逸らす。何を言っていいか分からずたじろぐに、彼は冷ややかな言葉を投げ掛けてきた。

「まあ、いいぜ。話したくないなら」
「……ラルフ?」
    飽きた」

ぽつりとつぶやいたラルフの一言が。水面にこぼれた木の葉のように、静かに波紋を広げていく。呆然と目を見開くの前で、乱暴に筆記具を片付けたラルフは早急に席を立った。こちらをちらりとも見ずに、

「俺、先に帰るわ。じゃーな」
「ラルフ    

なんとか声は出したものの、は立ち上がることができずにラルフの背中を見送ることになった。ひとり残された図書館の一角、捨てられた猫のような思いで。

「……どうしよう」

他に言うべき言葉すら見つからず、はただそれだけをつぶやいた。
「何かあったのかよ」

その次のルーン語の時間は、地獄だった。みんなの前でバブリングに前回欠席した理由を詰問され、調子が悪くて寮で休んでいたと嘘をついたはいいものの、シリウスと揃ってサボっていたことで他の寮の友人からもラルフと同様の嫌疑をかけられた。ちがう、とひとまず否定はしておいたが、いつもは近くに座るラルフが敢えてから遠く離れた席を選んでいたり、授業後もひとりでさっさと教室を立ち去ったのを見て、彼女たちは確信を持ったようだった。まずい。このままでは、今夜にはラルフとシリウスと私が三角関係だとかなんだとかつまらない噂が広まっているに違いない。いや、シリウスにだって恋人がいるんだから四角関係か?

寮に戻る途中、後ろから追いかけてきたシリウスが聞いてくる。は半ば八つ当たりで振り向きながら彼を睨み付けた。

「何かって、分かんないわけ?」
「は?あ、いや……まあ、大体の想像はつくけどな」
「だったら放っといてよ。また二人で一緒にいたらまた余計なことばっかり言われるんだから」

突き放すようにそう言って、は大股に歩き出したが。
数歩進んだ先ですぐに立ち止まり、追ってきたシリウスに向き直った。消え入りそうな声で、つぶやく。

「……ごめん。シリウスにこんなこと言ったって仕方ないのに」
「お前、怒るか謝るかどっちかにしろよ。めんどくせーな」

肩をすくめながら、シリウス。めんどくさい。めんどくさい……ひょっとして私、ラルフにもそんな風に思われてたのかな。

「どうしよう……こないだ一緒に授業サボったから、シリウスとのこと疑われた」
「一緒にって……お前、違うって言わなかったのかよ」
「……だって、一緒にいたのは本当じゃない」
「はあ?お前、正直者は馬鹿を見るって言葉、知らないのか?」
「ばっ……分かってるよ、そんなの。分かってるけど」

嘘なんて、つけないよ。ラルフの真っ直ぐな目を見ていたら、尚のこと。
困ったように眉根を寄せ、ようやくシリウスが口を開く。

「まあ、実際俺たち疾しいことなんか何にもないわけだしさ。堂々としてればそのうちあいつだって機嫌直すだろ。うじうじしてるからあいつだって勘繰るんだぞ?」

簡単に言ってくれる。それとも、これが私よりもずっと恋愛経験が豊富な人間の一般的な考え方?
それに……シリウスとのこと、はっきりと胸を張って「後ろ指を指されるようなことは何もない」と言い切れない。抱き締められたあの瞬間、彼を男の子として意識しなかったというのは無理がある。もちろん、それだけだけど。
私は    拒否……しなかった。

「……飽きたって」
「あ?」
    飽きたって……言われた」
「はあ?」

素っ頓狂な声をあげて、シリウスはわけが分からないといった顔をした。うめく。

「飽きたって……あいつが、そう言ったのか?ラルフが?」

もう一度それを口に出すのが苦痛で、は口を噤んで脇を向いた。そうだよ。他に、誰がいるっていうの?

「飽きたって、まさか……あいつが、そんなこと」
「あーもう!何度も言わないでよ!言われちゃったもの仕方ないでしょう!」

イライラと声を荒げ、無神経なことを繰り返すシリウスを睨み付ける。ああ……思い出すだけで泣きそう。それ以上シリウスの顔を見ている気にはなれず、は早急に寮への道のりを歩き出した。

「……あのラルフが、ねぇ」

いまひとつピンとこないまま、軽く頭を掻いて。

ひとり佇んだ廊下の真ん中、シリウスはぽつりとつぶやいた。
「なあ    ちょっといいか?」

何とはなしに、乱れたベッドを直していた。細かいしわを伸ばそうとして    湧き上がってくる雑念に気圧され、あっさりと断念する。そんなとき、背後でつと開いたドアの向こうから聞こえてきたのは、今最も聞きたくはない男の声だった。ゆっくりと振り向いて、皮肉混じりに唇を歪める。

「なんだ、珍しいな。お前が来るなんて」
「そうか?あー、まあ……そうかもな」

曖昧にうなずいて、シリウスはこちらが許可もしないのに無遠慮に部屋の中に入ってきた。もっとも、彼のこうした厚顔さは今に始まったことではないが。身体ごと振り向いて、なんとか平静を保とうとこっそり息を吐く。

「……で。何か用か?」
「あー、まあ……用ってほどのことじゃねーんだけど」

ぎこちなく頭の後ろを掻いて、シリウスは所在無さげに目線を彷徨わせた。ああ、イライラする。言いたいことがあるのなら、さっさと済ませればいいものを。
ようやく口を開いたシリウスは、こちらの神経をより逆撫でするようなもどかしい口振りでこう告げた。

「あの……お前さ、何か勘違いしてないか?」
「は?」

眉をひそめて、険悪に聞き返す。彼は僅かに怯んだようだったが、すぐに調子を整え、続けて言ってきた。

「いや、だから……俺と、のことだけどさ」
「あ?勘違いって、何だよ。あいつが何か言ったのか?」
「あいつじゃなくて……お前だよ。なんか誤解してるみてーだから言っとくけど、あいつと俺とはほんとに何もない。この前だって、たまたまサボった時間が同じだったってだけで    
「今さら繕われたって遅いんだよ。城の裏庭、意外とよく見えるんだってことは自覚しとくべきだったな」

最後通牒でも突きつけるような思いで、告げる。案の定、シリウスは虚を衝かれて途端にしどろもどろになった。彼のこうした表情を見られるのは、珍しい。こんな状況ですらなければ、大いに楽しめたことだろう。が。

「な、何で……いや、まさか……そんな、でも」
「まあ、人間、見えるとこより死角の方がずっと広いんだってことは確かだけどな」

心のままに、嬲る。本当は、今すぐにでも掴みかかって相手を引き倒したかった。本当は。必死の形相で、シリウスが捲くし立てる。

「あ、あれは……違うんだ、あれは。あれは……俺が少し、参ってたから。だからつい、あいつに甘えたんだ……お前とのこと、分かっていながら……悪かった。ほんとに……悪かった。でも分かってくれ、あいつは……一年のときから、友達で……だから、それ以上のことなんて    

ハッ。ついさっきまで、あんなにも偉そうに、勘違いだ、誤解だのと言い繕っていたのに。目撃されていたことが分かると、途端にこれだ。疾しいところがあるからじゃないか。やはりワットの言っていたことは、本当だったのだ。
冷ややかに目を細めて、ラルフは吐き捨てるように言いやった。

「気が滅入ってたからって、気安く女に抱きつくか?いい気分だろーな……お前みたいにいいところの坊ちゃんは、望めば何でも手に入るとでも思ってるんだろ?」

シリウスが家のことを引き合いに出されるのを嫌っていることは、知っていた。知っていても尚、それを口にせずにはいられないほど、ラルフもまた恋人のことで苛立っていた。刹那、顔色を変えたシリウスの右手が咄嗟に伸びてきてこちらの胸倉を掴む。吠えるように、シリウスが声を荒げた。

「てめぇ!もう一遍言ってみろ!」
「あぁ?何度でも言ってやるよ!お前みたいなボンボンは気付かねーうちに人のもんどんどん根こそぎ奪ってくんだよ!女だってすぐに飽きればポイだろ、お前みたいなやつが俺は一番腹が立つんだよ!」
「てめ    

声の調子をそのまま手のひらにこめたように。後ろに引いたシリウスの拳が、避ける間もなくラルフの左頬に突き刺さる。瞬時に駆け抜けた激痛と、その後から尾を引く鈍痛と。だがそれを感じるよりも先に、ラルフもまた握り締めた拳を相手の顔面に叩き込んでいた。杖を抜く時間すら惜しむかのように、互いの拳が幾度となく往復を繰り返す。

あとはただ、惰性的に拳の応酬が繰り広げられるだけだった。相手の鼻を折るまで、もしくは血を吐かせるまで。浴びせかける罵声すらもはや意味の分からない叫びに成り果てていた。痛みを感覚が捉えるよりも前に、相手に同様の苦痛を与える。ただ、それだけ。

「ラルフ!シリウス    お前ら、何やって……」

騒ぎを聞きつけて戻ってきたルームメートたちに引き剥がされる頃には、二人は赤く染まった口元を拭いながら、腫れ上がった互いの顔を憎々しげに睨み据えていた。
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(08.02.24)