最も高度な変身術のひとつ、アニメーガス。
ピーターが持っていたのは、その詳細な方法を書き記した羊皮紙の束だった。変身術の時間に、何度かマクゴナガルが話だけをしてくれたことはある。彼女自身もアニメーガスであり、それはあまりにも複雑で危険な魔法のため、試みるだけでもまず魔法省に申請しなければならない。彼らはそれを、無断で実行しようとしていたのだ。

「ジェームズたちが調べたんだ……透明マントで、禁書の棚から本を持ち出してきて」

人狼が噛もうとする対象は人間であるという点に彼らは着目した。それならば、人間でさえなければ(、、、、、、、、、)孤独に打ちひしがれるリーマスと共に、満月の夜を過ごせるのではないかと。
うまくいくかは分からない。禁書とはいえ生徒に手が届く範囲の本だけでは手順のすべてが分かるわけではないし、記されていた部分でさえ解読不能な箇所もある。だがまさかマクゴナガルに質問するわけにもいかず、先行きははっきりと暗い。
だがジェームズたちは、何年かかってもそれを遂げるつもりだとピーターは語った。たとえ完成しなくとも、それを試みるだけでもリーマスには心強いはずだと。もっとも、本人たちは本気でやり遂げるつもりらしいが。

(まったく、考えることが違うよね……)

掴んだ羽根ペンの先をぼんやりと眺めつつ、は思いを巡らせた。ビンズの通り一遍の解説は、まったく耳に入ってこない。アニメーガス、か……ジェームズは一体何になるんだろう。ピーターは    シリウス、は。

(……私なら、何になるかな)

ふと、そんなことを考えるも。がっくりと肩を落とし、嘆息する。そんなことを考えていても仕方がない。とにかく、私が今すべきことは    

ちらりと後方の席に視線をやって、は一つの覚悟を決めていた。

POOL of PAIN

幼き日に埋もれた痛み

とてもあの教室に行くような気分ではなかった。マグル学の授業に向かうジェームズと別れたあと、その足でふらりと城の裏庭へやって来た。古代ルーン語の教科書を脇に放り出して、ごろりと芝生の上に横たわる。深く息を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出しながらぼんやり空を見上げていると、いつもはまったく気にならない雲の動きが思いの外速いのだということに気が付いた。
ポケットに丸めて突っ込んだ羊皮紙を、取り出そうと右腕を動かして    やめる。

(今さら……何だっつーんだよ)

声には出さずに、毒づく。眉間にしわを刻んで眼前の青空を睨んだが、雲は変わらず単調に右から左へと流れていくだけだった。誰が睨みつけようと、何を言われようとも、空は変わらず黙って大地を見下ろすだけだ。

(ちょっとしたことですぐに怒って、あんたってほんと、大人気ないのよ!)

ふと、彼女の声を聞いたような気がして、彼は苦々しさに歯噛みした。分かっているんだ。どうせ俺は    ちょっとしたことでもすぐに目くじらを立てる、小さな男に過ぎない。

(どうせ俺は……器の小さい野郎だよ)

俺は決して、ジェームズのようにはなれない。
もし……もしも、俺にもあんな家族がいたら、未来は変わっただろうか?

(……馬鹿馬鹿しい)

吐き捨てるように己の思考を遮って、彼は目を閉じた。『もしも』    そんなことは、考え始めたら切りがない。

    シリウス?」

それは夢の続きか。
だが、はっきりとそれを聞いたような気がして、シリウスは物憂げに瞼を押し上げた。

逆さの世界に立ち、スカートを押さえつけながらこちらの顔を覗き込んでいるのは、紛れもなく夢の中で見たあの黒髪の同期生だった。
「何だお前、サボりかよ」
「……あんたに言われたくないんだけど」

慎重に、言い返して。彼の表情が変わらないことを確認してから、また一歩、歩み寄る。仰向けに横たわっているため、しっかりとスカートの裾を押さえながら。

「……隣、座ってもいい?座るよ?」
「………」

返事はなかったが、ごろりと寝返りを打ってシリウスが背中を向けた傍らにはゆっくりと腰を下ろした。さらさらの彼の黒髪が僅かに乱れて芝生の上を這っている。思わずそれを直したい思いに駆られたが、はあっさりとそれを断念した。尋ねる。

「ねえ……手紙、読んだ?」

シリウスは答えない。こちらに背を向けたまま、ぴくりとも動かない。柔らかく吹き抜ける春の風だけが、彼の白いシャツを揺らしていた。
抱えた膝に鼻先を押し付けて、告げる。

「ごめんね、シリウス」

反応を期待していたわけではない。無意味に待つのはやめて、彼女は自分の伝えたいことをただ伝えることだけに専念した。

「シリウスが家族のこと、嫌ってるのも……血筋のことも、家の名前も……そのこと持ち出されるの、一番嫌がるって分かってたのに……無神経にあんなひどいこと言って、ごめんなさい。でもね……何を言っても言い訳なんだけど    でも私だって、気にしてるんだよ」

ぽつりと呟いたの言葉に、シリウスの背中がほんの僅かに身じろぎした。そのことに目を見張りながらも、先を続ける。

「入学許可書が届くまで、魔法のことなんてちっとも知らなかったんだよ?マグル育ちとか陰口叩かれたこともあったし……私、ほんとにここにいてもいいのかなって。それを……お前には無理だって言われて。マグル育ちのお前にはできないって、そんな風に言われてる気がして……傷付いた」
    誰がそんなこと言ったよ」

はっきりと。吐き捨てるように呟いたシリウスが、ゆっくりと上半身を起こす。咄嗟の出来事に驚き、唇を次の言葉の形に開いたまま、は呆然とその後ろ姿を見つめた。
こちらに背を向けたまま気だるげに胡坐をかいて、シリウス。

「俺は……そんなこと、一度だって」
「でも!そんな風に、聞こえたの    だから……分からないって……純血のシリウスには、こんな私の気持ちなんか分からないって」

何を言っているのだろう、私は。教室とは反対方向へと向かう彼を追いかけて、授業をサボってまでここへやって来たのはこんなことを言うためではない。かぶりを振って、目線を落とす。

「……ごめん。シリウスだって、血筋のこと……すごく気にしてるのに。こんなこと言ったら……またシリウスのこと、傷つけちゃうだけだよね。ごめん」

地面に両手をついて、は口を閉ざした。目の前にあるシリウスの背中だけが、小刻みに震えている。

(……シリウス?)

怪訝に思って、眉をひそめる。うつむいた彼の背中が、小さな痙攣でも起こしたかのようにささやかに振動を繰り返していた。

「シリウス    
「……俺は」

ようやく絞り出した彼の声は、掠れて今にも折れてしまいそうだった。

「俺だって    信じてたんだ、大昔はな」
「……何を?」
「俺たちが王族だ    『高貴なるブラック家』を頂点にした、純血のための序列制度」

まさか彼の口からそんな単語が出てくるとは思わず、は目を開いてその後ろ姿を凝視した。それでちょうど反対側に付いている彼の顔を見透かせるはずもないが。それでも、他に視線を投げる対象があるわけでもない。
彼は自分自身の言葉を、力なく嘲笑った。

「ただ上から叩き込まれるだけの、バカなクソガキだったんだ。『我々が頂点だ』    俺たちは神にすらなれるって信じてたクソジジイまでいた。俺はそれを……信じてたんだ。何でもかんでも鵜呑みにするだけの大バカ野郎だったんだよ」
「………」

返す言葉を見つけられず、はただ黙ってそれを聞いていた。もとより彼も、返事を求めて話しているわけではないようだった。思い返して、嘆くだけの。
だが次に彼の発した声は、はっきりとそれまでのものとは調子が異なっていた。

「でも……あいつらは一つだけ、重大なミスを犯したんだ。上層教育だかなんだかの一環で、俺にピアノを習わせようとした」
「……あ」

思い当たるところを見出して、思わず声をあげる。彼は変わらずこちらに背を向けたままだったが、顔を上げ、空を仰ぎ見ながらそのあとを続けた。

    俺がジェームズと出逢ったこと。それがあいつらの、大きな誤算だった」
「……ピアノ教室で知り合ったって、言ってたもんね」

そこでようやく、彼がこちらを向いた。首だけで半分ほど振り向き、だが目線は下ろしたままで。

「あいつは    俺の受けてきた『教育』を、鼻で笑ったんだ」

その場面を思い出したかのように、シリウスは皮肉めいた笑みを浮かべながら軽く自分の唇をなぞった。なぜかその仕草にどきりとしてしまい、は慌てて視線を外す。彼は再び前へと向き直った。

「始めは……顔突き合わせるだけで大喧嘩でな。『ポッター家がなんだ、お前は所詮マグルの血が入った下等な人間だろう    穢れた血の、裏切り者め』」

思わず息を呑んで、はただ真っ直ぐにシリウスの後頭部を見つめた。緊迫した春の陽気に、皮膚が粟立つ。彼は大きなため息をひとつ挟んで、疲れたように首を振った。

「……今じゃ、思い出すだけで自分に虫唾が走ってくるけどな……あいつ、俺に言ったんだ。だったらその血で、その血だけで。一体お前は何ができるんだってな」
「………」
「だったらこの俺に何ができるか、『穢れた血』のお前に何ができるか。俺たちは教室のやつらの目を盗んで箒の勝負をした」

それは否応なく、にジェームズとロジエールの勝負を思い出させた。聖マンゴにいたため、結局そのときの対決を見ることはできなかったのだが。けれどもジェームズは、ロジエールよりも先にスニッチを掴むことができたという。お陰でそれ以来、約束を守ったロジエールはに構うことがなくなった。

「負けたんだ、俺は」

どこか清々しさを含んで、シリウスが言いやる。彼は後ろで手のひらをつき、伸びやかに両足を広げてみせた。空を仰いで、

    ショックだった。ブラックが……俺たちが一番なのに。何においても、俺たちが常に頂点であるべきなのに。『穢れた血』の混ざった、あんな頭悪そうなやつに、ってな」

そこは本来、まったくもって面白くもなんともないはずの箇所だったのだが。シリウスの声に含まれたものを感じ取って、はほんの少しだけ噴き出した。頭悪そうなやつ……確かに、何も知らなさそうに、すっ呆けた顔付きをしてみせることもある。本当は、何だってよく知っているというのに。

「でも……お陰で目が覚めた。俺たちの守ってきたもの……信じてきたもの。そんなものよりずっと、大事なことがあるんだって。俺はそのことに気付いた    あいつが教えてくれたんだ」

はやはり、何も言えなかった。何を言っても的外れになるような気がしていた。ただ漠然と、彼の抱えてきたものを思うしかない。ふと思い浮かんだのは、彼の弟の顔だった。

「でも、な」

    と。突然。
彼がこちらを向いたのがあまりにも急だったため、上の空になりかけた視線を急いでそちらに戻す。だが、どちらでもよかったのだろう。彼は僅かにこちらの姿を確認しただけで、すぐさま先ほどと同じ姿勢をとって背を向けた。告げる。

「この前、お前に言われてから……考えたんだ。マグル育ちだとかなんだとか、くだらないことばっかり言いやがって。誰がそんなこと言ったよ。俺はもうそんなことこれっぽっちも気にしてねーのに」
「……ごめん」
「でも、ふと思った。俺にはほんとに、もうそんな考えは欠片もないって言えるかって」

は顔を上げた。いつの間にか止んでいた彼の身体の震えが、ぶり返している。

「シリウス    
「お前が実技で強力な魔法をぶっ放すのを見て心底驚いたのは事実だ。俺の中にはまだもしかして    魔法の血筋と、そうじゃない魔法使いとを分けるような頭が残ってるのかもしれない」
「シリウス……でもそれは」
「お前が謝る義理なんかない。俺の腹の中にはお前と俺たちとを分けるもんが確かにあったんだ    お前はそれに気付いて指摘しただけだろ、お前が謝らなきゃならない理由なんかない」
「シリウス!」

思わず声を荒げたに、彼は弾けたようにこちらを向いた。目を見開くシリウスに詰め寄って、続ける。

「もうやめてよ……そんなことない。私が自分の育ちのこと、必要以上に気にしてただけ。私が過敏になってたの……私がシリウスに、ほんとにひどいこと言った」

そして、しばし迷った末    彼の肩にそっと両手を添えて。自分のあまりの無神経さに、震える額をそこへと押し当てた。涙のにじむ瞼を閉じる。

「……ごめんなさい。シリウスが、一生懸命だって分かってたのに……そこを、私……あんな言い方で……ジェームズがあんなに怒ったのも、当たり前だよ。あんなこと……ほんとは思ってない。ただ反発したかった    私だけ仲間外れにされたみたいで……ただそのことが、ショックで……ほんとは、あんなこと……ごめん、ほんとにごめん……」

どれだけ言葉を並べても。私が抉った彼の傷を癒すことなんてできないかもしれない。それでも言葉を尽くすしかなかった。ごめんね、シリウス。ごめんなさい。

顔を上げ、は思いの外シリウスとの距離が狭まっていることに気付いた。そのことにどきりとして、そこから離れようと地面についた膝を動かす。と、そのとき。
咄嗟に伸びてきたシリウスの右手が、の背中を引き寄せて抱き締めた。
ぎょっとして、上擦った悲鳴をあげる。

「ちょっ……え、シ    
「俺……何がなんだか、分かんねぇ……」

耳元で唸るように囁いた彼の喉は、涙を含んで震えていた。まさか、そんな    シリウスが。一瞬高鳴った胸の鼓動も、そのことに戸惑ってまったく異なる脈を打ち始める。は抱き寄せられた肩から顔を出し、あたふたと視線を彷徨わせた。

「……シリウス?」
「俺たちの信仰は間違ってると思った……ジェームズが正しい。血筋なんていう下らないしがらみから抜け出せたジェームズがうらやましかった。でもある日突然そんなことを言い出した俺のことを……親父もお袋も、みんなみんな……気でも狂ったかって……でも頑なに言うことを変えない俺のことを……途端に、手のひらでも返したみたいに……」
「………」
「何なんだ?信じるものが変わっただけで……息子よりも大事なものって何だ?いつかは分かってくれるんじゃないかと思った……でも、あいつら、俺をもう『矯正』できそうにないって分かると    長男は、いないようなもんなんだとよ。何もかも全部、注げるものは全部レグルスにレグルスに……俺はどうすりゃ良かった?ずっと、あの先もずっとずっと、馬鹿馬鹿しい信念を持ち続けてる振りでもしてれば良かったのか?俺たちがこの国を支配できるなんてクソみたいな思い込みで動いてれば、お袋は今でも俺のことを……」

そこで息を詰まらせて、シリウスが咳き込む。その背に両手を回して素早く撫でながら、は速まっていく鼓動を必死に抑え込もうとした。彼がこんなにも苦しんでいるというのに、今この瞬間、私の頭の中を不純な考えが過ぎっただなんて!

「……ごめん。私……シリウスがそんなに苦しんでるなんて知らなかったし……なんて言ったげればいいか、分かんない……」

正直に。感じたままを、告げる。シリウスはこちらを拘束する力を緩め、涙に潤んだ瞳を開いての顔を覗き込んだ。その額を子供でもあやすように、そっと撫でつけながら、

「でもね、分からないなら悩めばいいよ。前にも言ったよね。家族だもん。いつかきっと……分かる日が、くると思うよ。どうすればいいか、分からなかったら分かるまで悩めばいい。分かり合えるときまで試せばいい。でしょう?ジェームズが、目を覚ましてくれたんだよね?だったら同じことが、シリウスにもできるかもしれないじゃない」
「………」
「シリウスには、ジェームズがいるし、リーマスもいるし、ピーターも。それに……何にもできないかもしれないけど、私だっているよ。話くらい、聞けるし……もうあんなこと、絶対に言わないって約束する。もうあんな風に……シリウスのこと、傷付けたくない。ごめんね」

それに、ね。口を噤んで目を細めるシリウスに、微かに笑いかける。

「それに    純血のシリウスと、マグル育ちの私と。違ってるからこそ、一緒にいて面白いこととか、楽しいこととかあるんじゃないかな。仲良くやろうよ、これからも……さ」

ぼそぼそと、笑みを作りながらも泣き出しそうな声で囁いた。と、小さく噴き出したシリウスは、涙のにじんだ瞼を手のひらで軽くこすった。だがすぐに口元から笑みを消し、唸るように言ってくる。

「……俺も、謝らなきゃいけない。俺もお前に……ひどいこと、言った。悪かった    ごめんな」

不意を衝かれては目を見開いたが、力なくかぶりを振って、

「ううん……シリウスが言ったこと、まるっきり外れてたわけじゃないと思うし。確かに私、ラルフと付き合い始めてから……リーマスのこと、前みたいには……気にならなく、なってた」

自分の発した言葉が、あらためて胸に突き刺さる。シリウスの眼から逃れるようにうつむいて、は苦々しく息をついた。

「でもね、これだけは信じてほしい。ラルフのこと好きになった今だって……リーマスのことは、大事な友達だと思ってる。あんなに大きな秘密、打ち明けてくれたんだもん。リーマスのために何かできることがあればって気持ちは、今だって変わらないよ。それは、ほんとだから」

シリウスが反応らしい反応を見せるにはしばし時間がかかったが、特に疑っているわけでもないようだった。ただ涙にかすれた喉を整えていたのだろう、密やかに声を発する。

「……ああ、そうだな。悪かった……その、みっともない顔……見せたのも。悪い、忘れてくれ」

ばつの悪い様子で顔を逸らすシリウスに、は少しだけ笑って首を振った。

「みっともなくなんかないし。泣き顔も様になってて、うらやましいことで」
「……バーカ」

囁いた彼の声には、どこか面白がるような響きが含まれていた。安堵して、もまた頬の筋肉を緩める。その隣に座りなおして、軽快に聞いた。

「次の変身術は出るよね?」
「……当たり前だろ。マクゴナガルなんかサボれるかよ」

そりゃそうだ。くすりと笑い、そっと視線を滑らせて傍らのシリウスを見やる。

「また、一緒にチェスやろ?」
「俺がいつまでも負けてばっかだと思って……バカにすんな」

目尻をこすりながら、こちらを向いて。彼はにやりと、久々の笑みをこちらへと向けてきた。
ああ    やっぱり、好きだな。シリウスの、この笑顔。

「いつかきっと、今よりもずっと強い俺になってやる」
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(08.02.23)
pool of pain... Arthur Janov