はぁ……気楽に言ってくれるよな。無人の廊下をとぼとぼと歩きながら、彼は人知れずため息をついた。二人が閲覧禁止の棚からマントを使ってこっそり盗み出してきた本の写しを持って、ちらちらと目を通しながら。無理だ、できっこない、こんなこと。僕は君たちとは頭の出来も魔法の素質もまったく違うんだなんてこと、とっくの昔に分かってるはずだろう?

憧れていた。初めて出会ったときから、ずっと。有名な純血の家に生まれ、頭が良くて、どんな魔法でも器用にこなす。ジェームズはハーフだけれど、ポッター家もまた代々続く、名の知れた純血の一族だった。おまけに……二人とも、女の子にすごくモテる。
僕にだって分かるさ、彼らが男前で、それぞれに違った魅力を持っているということくらい。

(できるわけない……こんなこと、いくらジェームズたちが手伝ってくれるっていったって    

「ピーター?」

物思いに耽っていたせいか、まったく気が付かなかった。はっとして顔を上げると、すぐ先の角から曲がってきたらしいが、きょとんとした様子でこちらを眺めている。彼は大慌てで羊皮紙の束を背中に隠し、ぎこちなく微笑んでみせた。

「あ、……どうしたの?こんなところで。ラルフなら談話室にいたよ?」
「え?あ、うん……ありがとう。今から戻るところなんだけど」

言って、彼女は脇に挟んだ教科書を軽く直しながら近付いてきた。どうしよう……には絶対に知られちゃダメだって、ジェームズたちが。額に脂汗を浮かべて硬直するピーターを見て、はあっさりとその核心ど真ん中を突いてきた。

「……なに隠してるの?」
「えっ!?え、と、あの……その……何でもないんだ!そう、うん、何にも隠してなんか    

まさに、その最中。
汗のにじんだピーターの手のひらから、するりと羊皮紙の一部が滑り落ちた。ぎょっとして振り向いたときには、すでに十何枚も重ねた束は慌てふためく彼を嘲笑うかのように辺りの床一面に舞い落ちた。

「あああっ!ダメ、    君は見ちゃダメ!!

だが、無論、自分の足元に落ちてきた羊皮紙を彼女が気に留めないはずはない。怪訝そうに眉をひそめ、そのうちの一枚を拾い上げて。

    これ……どうしたの?」

PROJECT in SECRET

アニメーガス計画

「これ    説明してくれる?」

無理やりピーターから取り上げた羊皮紙の束を突きつけて、告げる。何を訊かれても自信満々に答えてみせるあのジェームズが、今度ばかりは困り果てた顔をして、慎重に言葉を探しているようだった。

「それは……ええと、その、僕たちも日々、より鍛練を積むために好奇心を忘れず    
「その好奇心を満たすために、わざわざ閲覧禁止の棚から無断で本を持ち出してきて、こんなに熱心にアニメーガスになるための方法を写すんだ?」
「………」

次の言葉を失って、ジェームズがあっさりと黙す。は近くの机にその羊皮紙を放り投げながら、冷ややかな視線を    ジェームズと、そしてその後ろで縮こまっているピーターへと向けた。

三人は談話室から程近い、無人の空き教室にいた。すでに日の傾きかけた空は橙に染まり、室内を鮮やかな同色に包んでいる。その中で重々しい沈黙を十分に長引かせてから、はやっと口を開いた。

「聞いたよ、全部。ピーターが話してくれた」
「……ピーター」
「……ごめん」

密やかな声の中にも非難めいたものをにじませるジェームズに、今にも泣き出しそうな顔をしたピーターが詫びる。大げさに腕組みし、はじろりとジェームズを睨み付けた。

「私が無理やり聞いたのよ。それより、どういうこと?私にだけは絶対に話すなって    どうして?」

彼は答えなかった。堅く口を閉ざし、ただ頑なにこちらの足元を見つめている。彼がこうしてあからさまなまでに視線を外すことは、初めてだった。どこまでも真っ直ぐに向き合おうとするジェームズは、いつだって私の目を見て話をしてくれた。そのことが、深くの心に突き刺さった。震える声で、告げる。

「どうして?私だって……リーマスのこと、思う気持ちは一緒だよ。私だって、一緒にそれを分け合ったんじゃない。それなのに、何で?どうして私だけ、話してくれなかったの?私だってリーマスのこと    心配してるんだよ。それは、今だってずっと」
    ほんとかよ」

答えたのは。
ジェームズでは、なかった。閉じたドアを押し開き、いつの間にやら戸口に立っていたシリウスが、苛立たしげに眉根を寄せてこちらの様子を眺めている。彼は室内に立ち入ると、乱暴にドアを閉めて大股に歩み寄ってきた。彼はジェームズの脇で足を止めると、彼に向けて吐き捨てるように言いやる。

「筒抜けだっての。もーちょっと気ぃ遣って話せよ、こういうことは」
「ああ……そうだな。確かに迂闊だった」

ジェームズははっきりと声の調子を落として、うなずいた。そのことを目配せで告げてくるジェームズは無視して、険悪にシリウスを睨み付ける。思えば彼の顔をまともに見るのは久し振りだった。この一年、知らず知らずのうちに、互いを避けるようになってしまっていた。それを、こんな形で再び向き合うことになろうとは。

「さっきの。どういう意味?」
「どういうって……言うまでもないだろ、そんなこと」

切り捨てるようにぼやくシリウスに、は語気を強めて聞きなおした。

「どういう意味よ。私がリーマスのこと心配してないって言いたいの?」
「だってそうだろ。お前はラルフとよろしくやってりゃそれで十分なんだろーが」
「シリウス!」

今度ははっきりと言ったシリウスに、ジェームズが鋭い囁きを投げ付ける。だが彼はまったく悪びれた様子もなく、傍らの机に軽く腰を乗せた。は彼の台詞に唇を引き結び、身体ごとそちらに向き直る。ピーターは二人の背後でただオロオロと視線を動かすだけだった。

「何よ、それ。それとこれとは、関係な    
、分かってくれ。これは君のためでもあるんだ」

言ったのはジェームズだった。そのことに意表を突かれ、は思わず言葉を切って彼の方を見やる。ジェームズは緊迫した面持ちで一気に捲くし立てた。

「アニメーガスは……マクゴナガルが言ってただろう、とても危険な魔法なんだ。君には今、大切な人がいるじゃないか。君がこんなことをすると知ったらラルフはどう思う?彼の気持ちも考えてあげるんだ」
「……ラルフは関係ないよ!リーマスだって、私にとっては大切な    
「お前には無理だ」

冷ややかに、シリウスが口を挟んでくる。無理。お前には無理?はその単語に胸を抉られた気がして胸元のシャツを握り締めた。指先に、服の中の十字架を感じる。母のもの    魔法使いの母が、マグルとして暮らしてきた私に遺してくれたもの。
シリウスは机の上で身体の向きを変え、見下すように目を細めながら、続けた。

「お前、リーマスのことが好きだったんだよな?それが何だよ、結局は他の男とほいほい付き合ってるんじゃねーか。そのお前に、何でいちいちこんなことまで話さなきゃいけないんだ。お前はリーマスのことなんか、とっくに忘れちまったんだろ。そんなお前に、あいつのためにアニメーガスになるだなんて絶対に無理だ」
「シリウス!」

先ほどよりも強い口調で、ジェームズ。彼は不安げにこちらの様子を窺ってきたが、はそんなものにはまったく気が回らなかった。ただシリウスの言葉だけを、反芻する    何度も、何度も。
ようやく喉から出てきたのは、自分でも意外なほどに落ち着き払った声だった。

「あ……そう」

意表を突かれて、ジェームズが目を丸くする。激しい切り返しを予測していたのだろう。はさほど声の調子を変えずに、続けた。

「ああ、そうなんだ。ふうん……よーく、分かった」

すると今度は、シリウスも怪訝そうに眉をひそめた。泥でも叩きつけるような心地で、告げる。

「どうせ……どうせ私なんかに、できるわけないって思ってるんでしょう。マグル育ちの私なんかに、そんな高度な魔法なんてできやしないって、ブラック家のお偉いシリウスくんは思ってるわけだ。どうせ私のことなんて、そうやってずっと馬鹿にしてたんでしょう……それならそうと、はっきり言ってよ!」
!」

声を荒げた、ジェームズの右手が。
不意に持ち上げられて、の頬を叩いた。鈍い衝撃に、はっとして目を見開く。
彼は開いた自分の手をしばらく呆然と見下ろしていたが    すぐにそれをきつく握り締めると、射るような厳しい眼差しをこちらに投げ付けてきた。抑えつけた声音で、言ってくる。

「……謝れ」
「………」
「シリウスに    謝れ!」

夢かと、思った。憤ったジェームズの声量に、ぎょっとしたピーターが飛び上がる。は叩かれた頬を押さえながら、ただ愕然とジェームズを見つめていた。その、あまりにも鋭い視線に    それだけで、涙がにじみ出てくる。
私はとうとう、踏んではならない一線を踏んでしまったのだ。しかも    最悪の、形で。

「……そんな風に、思ってたんだな」

ひっそりと囁いたシリウスの顔には、怒りも、悲嘆も、何も表れてはいなかった。
ただ、あるとすれば、絶望を後押しする失望にも似た色。

「シリウス    
「もういい」

困惑した様子のジェームズから目線を外し、シリウスは腰掛けた机から徐に立ち上がった。もう一度彼の名を叫んだジェームズを無視して、歩き出す。
彼は教室を立ち去る直前、ふと足を止め、ほとんど吐息のような声音で呟いた。

「……もう、いい」

そして静かにドアを開け、来たときと同じように、あっという間にその姿を消した。
残された部屋の中、息苦しくなるほどの重い沈黙が続き、やがて    

!なんてこと言うんだ!あいつがそんなやつじゃないって、君だって分かってるはずだろう!」

声を荒げたジェームズがこちらに詰め寄ってくる。呆然と立ち尽くしたは、急にぎょっとして目を開いた彼を見て、初めて自分が泣いていることに気付いた。溢れ出る涙を両手で押さえつけながら、震える声を絞り出す。

「わ……私、なんて……シリウスに、なんてこと……」

分かっていた。彼が自分の家の名を、どれほど忌み嫌っているのか。私はそれを、ずっと昔から見てきたはずなのに。
私は一体、何ていうことを。だがあのときは、あの瞬間は    『お前には、無理だ』    それがずっと、頭の中に残っていた。どれだけテストで高得点をあげても、教えられた魔法をこなせても。心の奥底には、不安がつきまとった。もしも、ある日突然魔法が使えなくなったら?やっぱりあなたは、マグルでしたと。何かしらの手違いで魔法が使えていたように見えていただけで、あなたは本当は、マグルだったのですと。

一度だけ、リリーにこの話をしたことがある。彼女は純粋な、マグルの家に生まれた。それがどうして、魔法使いになれたのか。不安はないか、もしもある日突然、何かの手違いでしたと家に戻されたら。

「不安なんて    誰でも持ってるものじゃない?」

それは確かに彼女らしい答えだったと思う。薬学の授業で鍋を焦がしてしまったは、自分には本当は魔法は向いていないのではないかと落ち込んでいた。

「不安だったから、入学前にたくさん本を読んだのよ。ダイアゴン横丁で買った、魔法の本」

そう言って、彼女はの頭をそっと撫でてくれた。

「私だって、今でも不安に思うときはあるわ。でも、大丈夫。私はここにいるもの。だって、立派に魔女をやってるじゃない?私、実技じゃあなたみたいにうまくできないもの。心配することなんて、ちっともないわよ。自信を持って」

リリーの言葉のひとつひとつが、勇気をくれる。自信を与えてくれる。けれども時折、今でも押し寄せてくる不安がある。
純血。代々魔法使いだけに受け継がれてきた、血。それは水よりも    きっと、ずっと濃い。彼らには敵わない。きっと、どれほど努力を重ねたところで絶対に追いつけない。そうした思いを植えつけるに十分な下地が、この城にはあった。
だから。純血の一族として尊ばれているシリウスにあんな言葉をぶつけられると    必要以上に反発してしまう自分がいるのも、確かだった。

「……

一転して労わるような声を発して、ジェームズは優しくの頭を抱き寄せた。そっと、包み込むように腕を回してくる。

「……ごめん、ぶったりして。痛かったよね。君だって、悩んでたんだよね」

かぶりを振って、きつく目を閉じる。ちがう。私の痛みなんて、きっとシリウスのものに比べれば、ずっと。

「仲間外れみたいにしたことも、謝るよ。でも、分かってほしい。僕たちは本当に、君のことが心配だったんだ。このことで……君とラルフの仲が、こじれたりしないかってことも」
「……そんなこと」
「ないって言える?もし君もこの案に参加するとしたら、彼にだってもちろん黙ってなきゃならない。例えば僕がラルフだったら、恋人が他の男と内緒で何かやってるなんて、絶対に嫌だな」

返す言葉を見つけられずに、唇を噛んで俯く。その左の頬    自分が咄嗟に叩いたところをガラス細工でも触るように撫でながら、ジェームズは囁いた。

「それに、この話をしたとき、リーマスも君のことを心配してた」
「……リーマスが?」
「そう。まさかに、こんなことをさせたりしないよねって。君の思いだけは伝えるから……だから、お願いだ。僕たちの気持ちを汲んで、今回だけは手を引いてほしい」

は答えなかったが、聞き入れたと思ったのだろう。もしくはそうすることでこちらが聞き入れざるを得ない状況を作り出そうとしたのか、ジェームズはうんと頷いて、の身体を離した。

「それから……もう一つ、だけど。あいつのこと」
「……うん」
「分かってるとは思うんだけど……あいつは家のこと、何より一番気にしてるんだ。だから……たとえ本心じゃなかったとしても」
「……うん、分かってる」

許してはくれないかもしれない。そんなことを期待してはならない。それほどに深く、彼の胸を抉ってしまったのだという自覚はあった。
けれども、伝えずにはいられなかった。今すぐにでも、シリウスに会いたい。ごめんなさいと    ただそれだけを、伝えたい。

あんなにも繊細に傷付く彼の姿を、私は知っていたはずなのに。
BACK - TOP - NEXT
(08.02.17)