「お断りします」
ひっそりと。だがどこか明瞭に響く声音で、告げる。眼前の男はこちらの答えを聞くよりも先にそれを予測していたのだろう。それでも敢えて問うてきたのは、己を打ちのめしたいからか?こんなところに二人きり、この私を呼びつけようだなんて。
自分の座席に着いたまま、物も言わずにただじっとこちらを見据えている男を射抜くように睨み、続ける。
「すでにお伝えしてあるはずです。確かに私はこの職に就くことを了承しましたが、あなたにそれ以上のものをご提供するつもりはありません」
「わしのためではない
わしのためではないのじゃよ、フィディアス」
ほとんど口も動かさずに言ってきた男の言葉に、彼は眉間のしわをさらに深くした。きつく、両の脇で拳を握る。
「
当たり前だ。あなたのためだというのならば、私は決してこの役職すら引き受けなかった」
男はその青い瞳を僅かに細めたが、それだけだった。そのことが無性に腹立たしく、唇を噛む。やがて口腔に、鉄の味が広がった。背後の肖像画がやかましく喚き立てる。
「一介の教師が、校長に対する口の利き方がそれかね」
「よいのじゃ、エバラード」
その男の、落ち着き払った立ち居振る舞いが大嫌いだった。いや、憎んですらいた。あんたには罪悪感というものがないのか。たまには大声でもあげて、泣いてみたらどうなんだ。そんなものを見たからといってこの感情が収まるわけでもないが、それでもこの男の平然とした顔を見ているよりはずっとましだった。
余計なことを喋らせないうちに、再び口を開く。
「私はジェーンとは違う。あなたのやり方を、私は決して許さない」
男は沈黙を保っていた。次に発する言葉を考えているのか、それとも諦めの境地に達したか。ただ視線だけは真っ直ぐにこちらへと伸ばし続けている。
あんたには、恥というものがないのか。目を逸らさなければならないのは、決して私ではない。
「では、お話が以上でしたら
私は仕事がありますので」
軽く
本当に軽く、目線を落とす程度に一礼して、彼は足早に校長室を後にした。石の廊下に立ち、背後のガーゴイル像を振り返って。
血の混ざった唾を吐き捨てるか迷った挙げ句、結局のところそれを飲み下して、フィディアス・リンドバーグは自室へと爪先を向けた。鉄壁の校長室を出た以上、いつなんどき一体誰に見られているかは分からない。私は契約を交わした、『一介の教師』なのだから。それ相応の態度を取らねばならない。もうあの頃とは違う。それが社会に生きる者としての、務め。
たとえどれだけ、雇用者を憎んでいたとしても。
Here today, gone tomorrow
『確か』なもの
リンドバーグの言った通り。つまらないことを思い悩むのは、暇を持て余しているからだ。
そのことを痛切に感じたは、できるだけひとりで過ごす時間を減らすことにした。ラルフ、リリー、ニース、スーザン、メイ……。あの後、リンドバーグは包みの中のチョコレートを半分ほど手土産に持たせてくれた。メイは少し前から密かにリンドバーグに思いを寄せていたらしく、が荷物を部屋に運んだついでにお茶に誘われたことを聞いてひどく残念がっていた。
「でもリンドバーグって……だって、先生だし、ていうかおじさんじゃない?」
このバレンタインからハッフルパフの同級生セオドリックと付き合っているスーザンが信じられないものでも目の当たりにしたような顔をすると、メイはリンドバーグのチョコレートを頬張りながら険悪に眉をひそめた。
「分かってるわよ、そんなの。でも好きになるくらい、いいでしょう?」
「そりゃあ、あなたが年上好みだっていうのは分かってたけど……だってリンドバーグって、うちのパパと同じくらいの年よ?」
「だから!放っといてって言ってるでしょう!?」
ソファから腰を浮かせてメイが拳を振り上げると、その向かいに座ったスーザンは、肩をすくめて逃げるように胸を反らした。はあ、と大きく息をつき、はマグル式のやり方で沸かした紅茶を口に運ぶ。やはりまだ、違いはよく分からないのだが。
「メイ、リンドバーグにお茶に誘ってもらういい方法があるよ」
「え?、何なのそれ?」
「先生の通り道で、今にも死にそうなくらいの被害妄想に浸ってる素振りを見せてたら、きっと心配してお茶に誘ってくれるよ」
「そうなの?いい人よね!早速明日試してみようかしら……」
「それってどうなの……?」
スーザンの突っ込みは、とりあえず無視することにしたらしい。メイは次のチョコレートの包みを手に取って、思い詰めた表情でどさりと背もたれに身体を倒した。これがジェームズの言っていた、『恋する女の子の典型的な姿』……なのだろうか。私もリーマスが好きだった頃、こんな顔をしていたのだろうか?それとも、今も?
「、ちょっと話があるんだ。いいかな?」
不意に背後からかけられた声に、振り向くとひとりでジェームズが立っていた。あ、と声をあげ、ソファの上で心持ち後ずさる。だが意に反して彼はいつものように笑っていた。のソファと背中合わせになっている椅子に膝をつき、少しだけこちらに顔を寄せてきて、囁く。
「この間はごめん。きついこと、言って」
「……ううん。私も、悪かったんだ。隠してたわけじゃないよ、でも……なんか、言い出しにくくて」
するとジェームズは小さく噴き出した。肩をすくめて、
「そりゃ、そうだよね。女の子だもの、言えないことだってあるよ。ごめんね、のこと傷つけたんじゃないかって不安だったんだ」
「ううん、そんなこと……」
ない、とは明言できず、は曖昧に言葉を切って、続けた。
「私も、ジェームズのこと傷付けたよね。ごめんね……もう隠し事なんて、しないから。これからも……友達で、いてくれるよね?」
なぜか、一呼吸ほどを置いて
その間が、にはやけに気掛かりだったが
次にジェームズが見せた笑顔は、そんな不安を一気に吹き消してくれた。
「当たり前だろう?何があったって僕らの友情は変わらないさ。ずっとね」
だがこのときの彼の笑顔が含んだ本当の意味に気付かされるのは、そう遠い先のことではなかった。
イースター休暇を終えると、あとは学期末試験に向けて山のような課題をこなすのみとなった。ジェームズはさらに決勝戦に向けてのクィディッチ練習があったため、寝坊して朝食に遅れることが多くなった。
「朝ごはんちゃんと食べないと箒から落ちちゃうよ?」
「へーきへーき。ちゃーんと食べてるからさ」
さすがに三日連続で朝食の時間に現れなかったジェームズが心配で声をかけると、彼は快活に笑ってそんなことを言った。大広間に現れず、一体どこで何を食べているというのか?
「まさか……ジェームズ、森かどこかでキノコとか……」
大真面目にそう訊いたに、ジェームズは声をあげて笑う。
「わ、笑い事じゃないでしょう!?森は立ち入り禁止だし、キノコなんて滅多なもの食べたら当たっちゃうかも……」
「やだな、そんな貧相なことしてないよ。ちゃんとしたもの食べてるから、ご心配なく。それより早く行かないと、ラルフが待ちくたびれちゃうよ」
指摘されて談話室の掛け時計を見上げると、約束の時間は迫っていた。これから図書館でラルフと期末試験の勉強をする予定だったのだ。ありがとう、とジェームズに告げて、急いで談話室を後にする。図書館の、定位置。いつからか、自然と二人で座ると決めた場所。窓からは、うっすらと細い雲のかかる澄んだ空色が見渡せる。ラルフはすでに、そこにいた。
「ごめん、遅くなって……」
「お前の遅刻は慣れてるからな」
肩をすくめて笑いながら、ラルフ。はわざと不貞腐れた顔を見せて、その向かいの座席に腰を下ろした。慣れた位置。視線を上げると、肘をついたラルフの、斜に構えた笑みがある。目が合って、自然と笑いがこぼれてくる。
この確かな時間が、たまらなく愛しかった。好きだと言わなくても、好きだと言われなくても。確かに感じられる、そうした瞬間の恍惚が。
「
」
ルーン語のノートを見直していると、知らぬ間にうつらうつらしてしまっていた。そっと、声をかけられて。夢うつつで、ゆっくりと瞼を開く。
ひらかれた世界の中で、咄嗟に近づいてきたラルフの唇がの口を塞いだ。
「……ラっ」
一瞬、唇が離れたときに相手の名を呼ぼうとするも、すぐにそれすら阻まれて思わず身体をすくめる。腰を上げ、机越しに身を乗り出してきたラルフは、激しく、だが確かにこちらを気遣ってみせる間を挟みながら何度か口付けを繰り返した。昂ぶる神経に、ぞくりを全身を震わせながら、きつく目を閉じる。はそれを、抗わずにすべて受け入れた。
やがて、こちらから顔を離したラルフの瞳を、涙のにじんだ瞼を開いて見上げる。頬を紅潮させ、僅かに息を荒げた彼の姿が、たまらなくいとしかった。はにかむように、微笑む。彼もまた、濡れた唇を笑みの形にした。
永遠は、あると思ったし
確かにこのときは、信じていたのだ。それがきっと、私たちを固く結びつけているに違いない、と。