「ねえ、聞いた?聞いた?聞いた?」

後ろから追いかけてきた軽快な声の持ち主が、前方へと回り込んできらきらと瞳を輝かせている。顔をしかめて適当にあしらいながら、彼女は挨拶程度に言葉を返した。

「今後は何なの?バーサ」
「ねえ聞いてよ聞いて!が、あのが!グリフィンドールのラルフ・サイラスって子と付き合いはじめたんだって!」

興奮気味に捲くし立てる相手に、あー、そう、と気のない返事をする。彼女が根も葉もない噂話を吹聴するのは日常的なことだった。彼女自身が、創作とまでは言わないものの、思い込みだけで作り上げたものも決して少なくない。バーサの言がすべて本当ならば、はこれまでに二十人以上の男を引っ掛けたとんでもないすれっからし女だった。

「あー!その目は!その目は信用してないわね!」
「そんなことないそんなことない。あー、分かった分かった、がグリフィンドールの男と付き合ってるのね。よーく分かった」
「ラルフ・サイラス!あのちょっとイケてる三年生よ!ねえ、聞いてるの?カミラってば!」

めんどくさい。思い込みで突っ走るバーサほどめんどくさい存在はこの世にない。
まだわけの分からないことを飽きもせずぺらぺらと喋り続けている友人を適当に振り払い、彼女は重々しい気持ちで地下室を目指した。

on Hogsmeade Morning

バレンタイン・ホグズミード

    しばらく、考えたんだけどね」

どうしても、リーマスのいるところでラルフを呼び出すことだけは避けたかった。幸い彼とはルーン語の時間に一緒になるので、後で話があるといってこっそり声をかけることはさほど困難ではなかったのだが。

授業を終えた後。いつものようにシリウスはひとりでさっさと教室を後にした。もたもたと筆記具の片付けをする振りをして他の友人たちを見送ってから、はラルフと二人だけになった教室の隅で、ひっそりと声を出す。
少し離れた前方の席に座ったラルフは、ぴたりと動きを止めた。振り返りはしなかったが。

「私……その、ラルフのことは、嫌いじゃないけど……そんな風に、考えたことは……なかった」

ラルフは身じろぎ一つしなかったが、まさか聞いていないということはないだろう。続ける。

「でもね、しばらく考えたの。そういえば私、まだあんまりラルフのこと知らないなって」

そこで初めて、彼はこちらを向いた。椅子の上で身体を反転させ、どうということもない、強いて言えば無表情での眼を真っ直ぐ見返している。その視線に、逆にこちらが逃げ出してしまいそうになったが、なんとか堪えて、は告げた。

「だから……とりあえず付き合う、っていうのは、できない気がするの、私。でも、その……ラルフのことは、もっと知りたいって思う」

すると、ラルフは突然嘘のように表情を明るくさせた。笑ったわけではない。ただ、灰色の瞳が希望を見出して輝く。そのことに、は驚いた。

「それ、ノーじゃないってことだよな?」
「え、あ……それは、うん、まあ……」
「俺にも可能性、あるってことだよな?」
「ええと……うん、多分……」

そうとしか言えず、そう言う。勢いよく立ち上がったラルフはこちらに歩み寄り、だが手を伸ばしても触れられない、そうした距離で、足を止めた。

「だったら一つ、頼みがあるんだ」
「え?なに?」

何だろう。落ち着かない気持ちで、ラルフの言葉を待つ。彼はようやく微かに笑みを浮かべて、言った。

「今度のホグズミード週末、俺と一緒に出かけないか?」
    それがあなたの答えなのね?」

ラルフとのホグズミード行きを打ち明けたときのリリーの反応はどこか冷え冷えとしていた。本当にそれでいいのか、後悔しないのか。そんなことは分からない。分からないけれど。
リリーには話していなかった。天文台の下で交わしたリーマスとの会話。私はあのとき、彼の気持ちを試した。もしも彼がほんの少しでも私を異性として意識しているならば、引き止めてくれるはずだと。ましてやラルフとの交際を勧めるはずがないではないか?駆け引きはあっさりと敗れ、半ば諦めがついたのは事実だった。

二回目のホグズミード週末は、バレンタインの二日前だった。その影響もあってシリウスやジェームズをホグズミードに誘う女の子は多く、シリウスはレイブンクローの四年生と出かけることにしたようだった。ジェームズはいつものようにすべての誘いを断り、リーマスやピーターたちと過ごすらしい。がラルフと出かけることにしたので、リリーはクララと一緒に行くと言っていた。ニースも談話室でメイたちと待ち合わせをしている。

、こっちに来て」

来る二月十二日の朝。着替えを終えたは、リリーに手招きされて鏡台の前に座らされた。きょとんとして振り向くの顔を鏡に向けなおして、リリー。

「じっとしててよ。ほら、ちゃんと前向いて」
「え?なに?なになに……何が始まるの?」
「髪を上げるの。こうやって」

さらりと言って、リリーは肩の少し下まで伸びたの黒髪をまとめ上げた。ぎょっとして、声を荒げる。

「えっ!?ちょ、リリー、何やって……!」
「じっとしてなさい」

有無を言わせず、リリーはどこで覚えたのか、手際よくの髪を結っていく。髪はもともとストレートだったのであまり気を遣ったことがなく、ましてやアップなど一度も試みたことがない。鏡に映る自分の姿に、は恥ずかしさのあまり硬直した。

「せっかくのデートだもの。たまにはこういうのもいいでしょう?」

デート。デート?言われて、初めて気が付いた。そうか……デートなんだ、今日のホグズミードは。そう考えただけで身体中の体温が一度は上がるかのようだった。

「で、でもリリー、私がラルフと出かけるの、反対して……」
「反対なんてしてないわ。それはあなたが決めることでしょう?あなたがそう決めたなら、私はその決断を尊重するわ」

大人だなぁ……リリーは。自分の子供っぽさにうんざりし、は小さく息をついた。の髪をまとめ終えた手でポンとこちらの肩を叩き、リリーが鏡越しに微笑む。

「そんな顔しないの。せっかくのデート、楽しんできたらいいじゃない」

鏡を覗き、リリーにセットしてもらった髪をそっと撫でながら。ははにかむように笑った。
先に談話室に下り、ジェームズたちを待っていると、突然女の子の黄色い声が聞こえたのでリーマスはふとそちらに視線をやった。見やると、女子寮から下りてきた一人の女子生徒を囲んで友人たちが大はしゃぎしている。その光景を見て、彼はどきりと心臓が跳ね上がるのを感じた。

、可愛い!どうしたの?すっごく似合ってる!」
「あ、ありがとう……リリーがやってくれて」
「素敵!ねえ、ホグズミード、ラルフと行くってほんと?」
「ええと……うん、まあ」
「ラルフかぁ。いいわね、うん、とラルフならお似合いだと思うわ」
「そう?私、はジェームズと付き合うもんだとばっかり」
「もういいよその話は……」

彼女はげんなりして呻いたが、周りの女の子たちは勝手に大はしゃぎしている。その様子を見ているのが苦痛で、彼はそっと席を立って男子寮の階段に逆戻りした。

ラルフと付き合ってみればいいと言ったのは自分だ。彼女が僕の言葉を百パーセント聞き入れたなどとは夢にも思わないが、少なくともその背を押したのは自分に違いあるまい。悩んでいた彼女に、ラルフはずっと君のことが好きだったと告げた。
それは本当だった。直接彼の口から聞かされたわけではないが、傍でラルフの言動を見ていれば容易に気付けただろう。彼ならばきっと彼女を大切にしてくれる。その思いもまた、偽りではない。

忘れなければと。彼女は僕の心の闇に、そっと柔らかい日差しを差し込んでくれた。それだけで彼女の存在は、僕の中で決して侵されない特別なものとなった。そのことだけは、きっと生きている限り、何物にも変えられない。あの秘密を打ち明けることができた、それだけで僕の気持ちがどれほど軽くなったことか。けれど。
愛してはならない。僕はこの縛られた肉体で、誰をも決して愛してはならない。

これで良かったんだ。諦めなければ。彼女のことはきっと、ラルフが自由な身体で包み込んでくれる。愛してくれる。それでいいんだ。それだけで、僕は。

けれど先ほどの彼女の姿を見て、僕は嫉妬した。ストレートの黒髪をいつも背中へと伸ばしている彼女。彼女が髪をアップにしているのを見るのは初めてだった。
思わず、息を呑んでしまうほどにきれいだった。彼女を可愛いと思うことはあっても、きれいだと感じたことはほとんどないのに。彼女はラルフのために髪を上げたのだ。ちらりと見えたうなじが艶っぽい。そのことを考えるだけで、身体の奥底を焼かれるような激しい感情に突き動かされてしまった。

「ん?リーマス、忘れ物か?」

階段の途中で立ち止まり、何とはなしに虚空を見つめていると、上からひとりで下りてきたシリウスと鉢合わせになった。曖昧に笑って、うなずく。

「うん、少し寒そうだから、もう一枚着ていこうかと思ってね。君は大丈夫?」
「ああ。まあ、寒けりゃ寒いであっためてもらえばいいからな。じゃあ、また後で」

軽く右手を上げたシリウスを見送り、その後ろ姿が見えなくなってからリーマスは小さく息をついた。シリウスの「女なんてめんどくさい」はもう聞き飽きたというのに、かく言う本人は飽きもせずにまったく同じことを繰り返している。分かりはしないんだろうね、君には。放っておいても女の子の方から寄ってきて、自分の好みに応じて取っ換え引っ換えできるような君には、こんな僕の気持ちなんて。

    いけない。また僻みっぽくなってしまった。リーマスは自分の頬を軽く叩いてから、再び階段を上がりはじめた。誰にでも抱えるものがある。それが人とは異なるだけだ。シリウスにはシリウスなりの傷がある。僕はそのことを知っている。

寝室のドアを開ける頃までには、彼はまたいつものどうということのない表情を取り繕っていた。
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(08.02.10)