何を言えばいいのか。一体誰に、何を伝えればいいのか。
ぼんやりと窓の外を見つめて頬杖をついたの頭を、まるで漫画のようにきれいな弧を描いて飛んできたチョークが直撃した。
Crossed in LOVE
踏み越えた一線、踏み越えられない一線
「いっ!」と悲鳴をあげて前方を見やると、教壇に立ったリンドバーグが杖を軽く上げた状態で、冷ややかにこちらを見据えていた。教室中の誰もが、珍しい見世物でも眺めるようにの情けない姿を振り返る。
「ミス・。ケルピーよりも君の興味をそそる何物かが窓の外にいるのかな」
「いえ、あのその……すみません、先生」
「グリフィンドールは五点減点。ついでにその頭についたチョークの粉でも払っておきなさい」
リンドバーグの言葉に、はっとして髪の毛を払う。だが粉はきちんと取れていなかったらしく、呆れ顔のリリーが丁寧に拭ってくれた。
と、そのとき、咄嗟にジェームズが虚空高くに右手を挙げる。
「ミスター・ポッター」
「はい。先生、きっとミス・はケルピーの対処法に関しては完璧なのだと思います。ここはひとつ、是非とも彼女にお手本を見せてもらいたいです」
「はっ……!?」
おのれジェームズ余計なことをーーー!!
視線だけで呪い殺せそうなほどの怨念をこめてはジェームズの後ろ姿を睨み付けた。顎に手を当ててしばし考え込んだリンドバーグは、ふむとうなってこちらを一瞥する。
「よろしい。ミス・、五点を取り戻したければ前に出てきなさい」
「……………はい」
リンドバーグの授業で指名されたのはこれが初めてだ。どうしよう、今日に限って何も聞いていなかった。のそのそと立ち上がり、ラルフやリーマスの方は決して見ないように注意しながら、は教壇へと進み出た。途中、満足げな顔をしたジェームズの椅子を思い切り蹴飛ばして。
リンドバーグは教壇の横に置いた、棺桶を三つほど積んだ大きさの箱を杖の後ろで軽く叩いた。
「一頭のケルピーが入っている。まさかこんな時期にケルピーと一緒に湖で泳いでこいとは言わない」
当たり前です先生!一月真っ盛りです!ぞくりと背筋に悪寒が走ったのを感じて、は身震いした。にこりともせずに、リンドバーグ。
「本来ならばそういった状況下で実践してもらいたいところだが、それは期末試験に取っておこう。ミス・、私が今から起こすので、この中に入っているケルピーを大人しくさせなさい。いいね?」
「それは……ええと……」
は縋るような眼差しでリンドバーグを見たが、彼はまったく素知らぬ顔で杖を利き手に持ち替えた。彼が口の中で何やら呪文を唱えると、棺桶が途端にガラスのような透き通った物体になる。中ではおどろおどろしい顔をした痩せこけた馬が眠っており、リンドバーグが杖をもう一振りすると、どこかのスイッチでも入ったようにカッと落ち窪んだ眼を見開き、馬は水の中で突然脚をじたばたさせてもがきだした。周囲に激しく飛散する液体に、前列に座った生徒たちは大慌てで後ろに避難し、リンドバーグは飛び散る水を顔面に受けても涼しい顔でその場に突っ立っている。もまた杖を握ったまま、同期生たちと同様に狼狽するしかなかった。
どうしよう、どうしよう
何が使える?
「早くしてくれないか。教室が汚れるだろう」
「だって……ええと、ええと……」
「、君ならケルピーくらい一発だろう!
大人しくさせればいいんだからさ!」
くそジェームズ!他人事だと思って!そもそもあんたが余計なこと言うから!
だがそのとき、は彼の言葉の中に引っかかりを感じて目を見開いた。そうだ
大人しくさせればいいんだろう!
杖を構え、叫ぶ。
「インペディメンタ!妨害せよ!」
すると、ほんの一瞬閃いた光がケルピーを一撃し、ゆっくりと
ゆっくりと、その馬の巨体は水の中で底面に倒れ込み、ぴくりとも動かなくなった。
同期の生徒たちはその光景に唖然とし、リンドバーグもまた、何も言えずに立ち尽くす。ただひとりジェームズだけがパチンと指を鳴らして歓声をあげた。
「さすが!君ならやるだろうと思ったよ」
「ほう……妨害呪文か、ミス・」
リンドバーグは自身のローブに杖を当てて飛び散った水滴を乾かしながら、淡々と告げた。
「私はついさっき、ケルピーには網掛け呪文を使えと言ったな?それを……なるほど。君の答えは妨害呪文ということか。これでは手本にならない。ケルピーは、通常の妨害呪文ではせいぜい五、六秒動きを鈍らせる程度のことしかできない」
「そ、それは……ええと、その……」
網掛け呪文。何だそれは。肩身の狭い思いには思わず縮こまったが。
ふうと聞こえよがしに大きく息をついて、リンドバーグ。
「だが
なるほど、確かに
大人しくはなったな。グリフィンドール、五点」
信じられないものを聞いた気がして、はぽかんと口を開けた。リンドバーグはたった今、怒っていたのではないのか?だがそんな思いも、同期生たちの歓声であっさりと霧散していった。杖を振って箱の周りに飛散した水を拭き取りながら、リンドバーグが冷静に告げる。
「先ほども言ったが、通常ケルピーを相手に妨害呪文はさほど役に立たない。覚えるな、忘れろ。あの呪文でケルピーを退治できるとは間違っても考えないように」
そんなに強く否定しなくても。実際、私の呪文でケルピーは気絶しちゃったんだから。
残りの時間は、クラスの全員で網掛け呪文の練習をして終わった。網掛け呪文とは手綱をかける呪文であり、これを使用するとケルピーは嘘のように従順になるという。授業の最後に指名されたイアンが呪文を失敗したため、ケルピーはなぜか水の中で危うく火だるまになりかけて、リンドバーグはぐったりした哀れなケルピーを呆れた様子でオフィスへと運んでいった。
「、あなたって本当にすごいわね!」
授業が終わると、の周りには友人たちがわらわらと集まってきた。わけが分からず、は目をぱちくりさせて首を傾げる。
「な、なにが?」
「何がって……さっきの妨害呪文よ!あんなに強力な」
「ほら、先生だって言ってたじゃない。普通の妨害呪文ならケルピーは五、六秒くらいしか抑えられないって」
「それをあっさり気絶させちゃうんだから、先生も驚いたでしょうね」
「それはどうも……でも話聞いてなかったから怒られたし」
「でも減点分はちゃんと加点してくれたじゃない」
「うん、まあ……そうだね」
そこは否定することもできず、素直にうなずく。と、女の子たちが沸き立っているその後ろから、よく通る声でジェームズが意気揚々と現れた。
「やー!やっぱりすごかったね!の妨害呪文、一回見てみたかったんだ!」
「だからあんなムチャ振りしたんですかジェームズくん」
「ムチャ振り!?やだな、自然な流れだっただろう?」
あっけらかんと言ってのけるジェームズ。は言い返そうとしたが、その背後に立つリーマスの姿が視界に入ると、吐き出そうとしていた言葉さえも忘れてしまった。開きかけた口を閉ざし、脇を向いて踵を返す。
するとジェームズは拍子抜けしたようで、きょとんと目を瞬きながら、
「あれ?なに?何か言いかけたよね?」
「忘れた」
えー!とジェームズが非難がましい声をあげたが、は無視してリリーたちと早々に教室を後にした。リリーの何かを訴えかけるような視線が、ちくちくと背中に刺さってきたのだけれども。
「
やっぱり、ここにいた」
天文台へ続く階段は、西塔の最上階にあるひっそりした石造りの通路だった。マフラーを首に巻きつけても外の寒気が潜り込んでくるようで、思い立ったは小さなガラス瓶に青白い炎を燃やしている。階段の中ほどに座り込み、それを胸元で抱えて暖を取っていると、どこからか声がした。どきりとして、顔を上げる。
「ここじゃないかと思ったんだ。天文台によく行くんだって、ジェームズが言っていたから」
やって来たのは、リーマスだった。リーマス・ルーピン。今、最も会いたくないうちの、一人。どうして。
やはりグリフィンドールのマフラーを巻いたリーマスは、から少し離れた同じ段にゆっくりと腰を下ろした。高鳴る鼓動と、罪悪感にも似た締め付けと。火を燃やしたガラス瓶を抱き締めるようにして、はさり気なく目線を外した。
「どうしたの?こんなところ……寒いよ?」
「それはお互い様だろう?どうして寮に帰らないの?」
問われて、は黙した。寮。談話室。グリフィンドール塔。帰れるはずがない。だって。
(まあ……その要因の一つが、向こうから来ちゃったわけだけど)
リーマスが。私を探して、来てくれた。どうして。そのことよりも、感情が先行する。だがそのすぐ後ろを追いかけるように理性が手を伸ばしてきた。彼は私を、『友達』としてしか見てくれていない。
こちらが答えるよりも先に、リーマスは言ってきた。
「何か、あるんだろう?」
「えっ?」
何かっ、て。知られている?それとも
なんとなく?
訝しげに眉をひそめるに、彼は小さく笑ってかぶりを振った。
「いや……最近少し、気になってたんだ。何か、悩みでもあるんじゃないかなって」
「………」
「もちろん、突っ込んだことを聞くつもりはないよ。僕にそんな権利はないって分かってる。だけど、君が僕に教えてくれたんだよね。つらいときは、もたれかかればいいって。少しくらい迷惑をかけたって、甘えればいいってさ。それが友達だよ。僕だって、話を聞くくらいならできるんだ」
友達。今、最も聞きたくなかった言葉。あなたの口からは、決して。
はしばらく、何も言うことができなかった。ただ頭の中が、空っぽの箱のようになって。
その中にたった一つ残された何かが、何かの拍子に転がって小さな音を立てた。
「……リーマスだったら、どうする?」
「うん?」
問われたことが、純粋に嬉しかったのか。微かに読み取れる程度に表情を明るくして、リーマスがこちらを向く。はどこか冷めた心地でその瞳を見返しながら、尋ねた。
「女の子に、好きって言われたら」
漣のように、リーマスの顔から笑みが引いていく。彼はわけが分からないといった面持ちで、眉間にしわを寄せて何度か瞬いてみせた。
「それは……どういう、意味?」
「そのまんまだよ。女の子に、好きって言われたら。リーマスだったらどうする?その子のことは、別に嫌いじゃないの。まあ……大好きってわけでもないんだけど」
ひどいこと言ってる、私。ラルフにも
リーマスにもきっと、すごく失礼なこと。自覚しながらも、にはそんな自分を止めることができなかった。
やや、沈黙を挟んで。難しい顔をしたリーマスが、ひっそりと口を開く。
「それで……は、どうしたいの?」
別に、私のことじゃなくて。クィレルのときのように、ふとそんな切り返しが頭に浮かんできたのだが。
……やめよう、そんな小細工。リーマスには、そんなもの。
「……よく、分からない。その人のことは、嫌いじゃないし……告白されたの、初めてで。正直、嬉しかった。だから迷ってる。戸惑ってるの。自分がどうしたいか……分からない」
卑怯だ、私は。こんな言い方でしか、自分の思いを伝えられない。本当は、私は
。
だが、その次にリーマスが発した言葉はのまったく予測できなかったものだった。
「……ラルフは、一年生のときからずっと……君のこと、好きだったよ」
えっ?息が詰まるような思いで、は唖然とリーマスの横顔を見つめた。どうして、どうして
どうして?それ以外の言葉が、出てこない。どうして?どうしてあなたが
そんな、ことを?
だがリーマスはさほど表情を変えず、こちらではなく前方、どこか彼方を見据えながら、独り言のように続けた。
「僕の勘違いだったら……ごめん。でも、気付かなかった?ラルフがあんな風に声をかける女の子、だけなんだよ」
「……でも、それは」
「悩んでるんだったら、付き合ってみたらいいんじゃないかな。ラルフは、一途なやつだよ。君のこと……きっと、大事にしてくれると、思う」
泣き出したい気持ちをすんでのところで抑え、は抱えた膝の中に顔をうずめた。そのために、彼もまた自分と同じような表情をしていることには気が付かなかった。