がたん、がたん。
いつもならば気付かないほどの、列車が揺れる些細な音。それが今日はやたらと耳について、最後まで離れなかった。ラルフの言葉と一緒に。目まぐるしく思い出されては、また同じところへ戻る。好き。ずっと、好きだったと。答えはいつでもいい。答え?それはつまり……私が彼のことを、どう思っているかということ?
あの日以来、ラルフはもちろん、はリーマスの顔もまともに見られなかった。彼と顔を突き合わせるだけで、どうしようもなく泣きそうになってしまうのだ。それでも、ラルフの告白をすっぱりと断ることはできない。弱いんだ、私は。私の心は。数日前に出会った上級生の言葉を思い出すと、なおさら。
「まあ、、リリー。お帰りなさい、疲れたでしょう?さあ、荷物をこっちに」
リリーの両親は、車でキングズ・クロス駅まで迎えにきてくれていた。車。マイカー!当たり前だけど、左ハンドル!荷物をトランクに入れてもらい、エバンス家へ向かう車内ではエバンス一家と楽しくお喋りができて、もしばらくはラルフのことを忘れることができた。
「楽しみだな。やっとリリーの妹さんに会えるね」
そう言って傍らのリリーを見やると、彼女はにこりと微笑みながらも、ほんの少しだけその瞳に心配そうな影を落とした。
「とってもいい子だけど……そうね、ええと……もし失礼があったら、遠慮せずに叱ってやってね」
Call a spade a spade
未来の学者は理屈で勝負
はその日、ひとりで図書館に来ていた。じっ。と。目の前にそびえ立つ背の高い本棚の、上方に並んだ古びた本の連なりを厳しい顔付きで見上げる。やがて彼女は人目を忍ぶようにこっそり辺りを見回し、誰もいないことを確認してからそっと懐から杖を取り出した。
「こら
図書館で魔法は禁止だろう?」
誰もいないと思っていたところから声がして、は飛び上がった。ちょうど棚の陰になっていて見えなかったらしい。が慌てて杖を隠している間に、その男子生徒は人当たりの良い顔で微笑みながら、ゆっくりとこちらへ近づいてきた。
「どの本が欲しいの?」
「えっ、と……あの、『ルーン文字のルーツとループ』です」
たどたどしく高いところにある本を指差すと、背の高い彼は軽く腕を伸ばし、ひょいと目当ての本を取ってこちらに手渡してくれた。
「あ……ありがとうございます」
「いいえ。君、グリフィンドールのさんだよね?」
は驚いて顔を上げた。レイブンクローカラーのネクタイを締めたその青年は初めて見る顔で、大きな茶色い瞳はさっぱりとまとめたオリーブ色の髪によく合っている。よくよく見ると、その胸元では鷲を象った監督生バッチがきらりと控えめな光沢を放っていた。
「そんなに驚かなくても。君は有名人だもの」
なんと言えばいいのか分からず、曖昧に頭を下げる。彼はの頭ほどの高さにあるルーン語の本を二冊引き抜いて、左腕に抱えた。
「あ
ごめん、挨拶が遅れたね。僕はクィリナス。クィリナス・クィレル。レイブンクローの六年生だよ」
「は、初めまして!ええと……です、・。グリフィンドールの三年生です」
あ……そうだ、彼は私のことを、知ってるんだった。いや、でも……。視線のやり場に困ってクィレルに取ってもらった本を見つめていると、彼は変わらず明るい調子で言ってきた。
「ルーン語を選択してるんだね。どう?三年生なら、今年始めたばかりだろう?」
「あ、はい。私は……嫌いじゃないです。みんなひーひー言ってるみたいだけど」
「そうだろうね。暗記すれば一発だけど、覚える量がなかなかすごいからよっぽど気持ちがないと。うちの三年生も談話室で泣きながら課題をやってるよ。暗記物は得意なんだ?」
「い、いえ……そういうわけじゃないんですけど。私、天邪鬼っていうか、その、みんなが嫌いっていうものを好きになるっていうか、だからその……そういうものの方が、やってやろうっていう気になるんです。それで」
「へえ、そうなんだ。同じだね、僕と」
言って、クィレルが持っていた本の背表紙をこちらに見えるように動かす。そこには先ほど彼が引き抜いた古代ルーン語の文献の他に、マグル学の本が二冊挟まっていた。
「僕もみんなと同じ授業を取りたくなくてね。それで選んだんだよ、古代ルーン語とマグル学。どっちもあんまり人気のある科目じゃないだろう?」
「そうですね……ルーン語はめんどくさい、マグル学は軟弱だーって。私、そういうのって良くないと思うんです。魔法使いがマグルよりも偉い、みたいな考え」
言ってしまってから、ははっとした。純血主義とは言わないまでも、魔法使いの家庭で育った生徒たちは、その大半が心のどこかで自分たちはマグルよりも優れているという考え方を持っている。だから純血主義などという偏った思想がまかり通るのだ。毎年マグル生まれの新入生もいるため、ロジエールのように大っぴらに「マグル生まれめ」などと言う者は少ないが、ジェームズのようにあけっぴろげに「そんなことは関係ない」と言える生徒もまたさほど多いとは言えなかった。
「あ、えっと……その、私、マグルの家庭で育ったから……それで」
「気にしなくていいよ。僕は純血主義者じゃない。それに、思ってることはきちんと口に出した方がいいと思うな」
「あ、はい……その、そうなんです。私は、そう思います」
律儀に言い直すを見て、クィレルはくすりと笑う。
「そうだね。魔法使いは、もっとマグルのことを勉強すべきだ。確かに彼らは魔法を使うことはできないけど、その分『科学』を発達させて、本当に驚くような技術でもって自分たちの社会を築いてきた。その必要があったんだったら、魔法を使えるようすべての人類が進化していないとおかしい。そうならなかったのは、マグルには魔法なんて不要だからだよ。どちらが優れていてどちらが劣っているだとか、そんな天秤で物事を測っちゃいけない。僕はマグル学こそ必修科目にすべきだとずっと考えてきたんだ」
滔々と、まるで慣れた講義でもするかのように
実際、似たようなことを幾度となく繰り返してきたのだろう、語り続けるクィレルに呆然としていると、先ほど彼が現れた本棚の陰から、同じようにしてすらりとした女子生徒がひとり姿を見せた。呆れ顔でクィレルを眺め、口を開く。
「クィリナス、またその話?ミス・が困ってるじゃない」
彼女もまた、レイブンクローのネクタイを結んでいた。クィレルの背に少しだけ足りない程度のスタイルの良い上級生で、くっきりしたラインに縁取られた瞼を半分ほど伏せながら、クィレルの手からルーン語の本だけを奪い取る。きょとんとしている彼の頭を空いた手で小突き、そのレイブンクロー生は元来た道を引き返す寸前、に向かってさり気なくウィンクした。
「その人、ちょっと変わってるから。うっかりマグル贔屓の発言でもしたら、そのあと軽く一時間は放してくれないわよ?気をつけて」
「なにが『うっかり』なんだよ。彼女はマグル育ちなんだって」
「知ってるわよ。とにかく、その人、語りだすとキリがないから適当なところで適当にあしらっておけばいいからね。それじゃあ」
ひらひらと手を振って、彼女はあっという間にその場から立ち去った。クィレルは自分の手元に残った二冊の本をばつの悪い顔で見下ろしてから、苦笑いを浮かべる。
「えーと……恋人、ですか?」
「うん。そういう言い方をされると、こそばゆいけどね。最近ちょっと口うるさいんだ。老化の第一歩かな」
「そっ、そんなこと、本人の前で言っちゃだめですよ……!?」
「やだなぁ、僕はそんなに命知らずじゃないよ。ただでさえ、年上だから自分の方が先に年寄りになるんだとか言ってたまに嘆いてるんだから」
「あー……彼女さん、七年生なんですか?」
「そう。ほら、七年の学期末に、NEWT試験ってあるだろう?それなりのところを目指すなら、進路の八割を決めるって言われてる。それで最近ピリピリしてるんだ。だから、彼女が口うるさくなってきたのも分からないでもない。僕が一歩引かないとだめなんだろうね」
「……そうですか」
恋人。クィレルと先ほどの上級生なら。お似合いだろう、きっと。年寄りになったときのことを考えているということは、いずれ結婚するつもりなのだろうか?私にもいつか、そんな恋ができるのだろうか?そのとき、私の隣にいるのは、一体……。
「恋人と、うまくいってないのかい?」
が暗い顔をして俯いたので、ひっそりと、クィレルが尋ねる。は反射的に顔を上げ、大げさに首を振ってみせた。
「い、い、いません!そんな人!」
「そうなの?君の噂はいろんなところから聞こえてくるんだけど」
「どこからですか!?とにかく、そんなの全部ウソです!デタラメです!」
「そうかー。一つくらいほんとのことが混ざってるかと思ってたけど」
「そんなにいろいろ聞くんですか……」
自分で思っている以上に、自分の噂話というのはいたるところで囁かれているらしい。その一番の元凶であるに違いない上級生のことを思い出し、は頭を抱えた。気楽に笑って、クィレル。
「その程度の噂なんて大した実害はないよ。それとも、そんな噂を知られたら困る相手でも?」
「そっ、そんなことは……」
「そりゃあいるか。ごめんごめん、野暮なことを聞いたね。三年生にもなって、惚れた腫れたの一つもないなんてかえって不健全だよ。そういう噂を知られて困る相手がいるなら自分から動いた方がいいと思うよ。君みたいな有名人ならなおさらね」
「そ、そういうんじゃ……」
脳裏に思い出されたリーマスの優しい笑顔に、は急に泣き出したくなった。好きだけど……好きなのに。リーマスは、私を。
「……クィレルさん。一つ、聞いてもいいですか?」
「うん?」
が思い詰めた表情で切り出すと、クィレルは小首を傾げて不思議そうに目を開いた。
「何かな。僕なんかで良ければ、一つでも二つでも」
「あの……クィレルさんだったら、どうしますか?好きな人がいるんだけど、でも、その人とは別の人に好きだって言われて。その人のことは、嫌いじゃないし……断るかどうしようか、考え込むくらいの……そんなとき、先輩だったらどうしますか?」
「えぇ?」
クィレルは困った顔をして、空いた右手で二、三度頭の後ろを掻いた。
「それって、僕の答え、結構重要だよね?僕の言葉ひとつで泣きを見るかもしれない男の子がいるわけだ?」
「えっ、いえ、あの、別に私のことじゃなくて、例えば!そう、例えばです!だから全然、そんな心配しなくても……」
「君って、ウソが下手だね。そんな言い訳したら強く肯定してるのと同じだよ?」
「そっ、そんなことは……!」
まったく同じことをジェームズに言われたことがあるのを思い出して、あまりの恥ずかしさに身が捩れる。だがクィレルはあやすように軽くの肩を叩き、苦笑混じりに言った。
「心配しなくても、こんなこと、気安く言い触らしたりしないよ。そうだね、例えばの話として、僕が考えるなら」
そして傍らの本棚に、そっと背中を預けて天井を仰ぎ見る。しばらく目を閉じて考え込んだ末、彼はあっさりと聞いてきた。
「例えばだけど、告白されたその子はその好きな相手には告白しないのかな?」
「それは……どう考えても『友達』で、お互い口に出して『友達』って確認したことがあるほどで……見込みはほぼゼロといいますか……だから、多分しないんじゃないかなって……好きな人と、気まずくなるのはイヤだし……」
「そっか。口では『友達』なんて言ってたところで、所詮男と女なんて次の瞬間にはどうなってるか分からないものだけどね」
思わずどきりとして、はまじまじとクィレルの顔を凝視してしまった。さも当然のように、クィレルは続ける。
「そんなものだと思うよ。僕だって、二年前にはまさかパメラと付き合うことになるなんて思ってもいなかった。今はだいぶマシになったけど、なにかっていうと言葉より先に拳が出てくるような狂暴な先輩だったからね……とても女性だなんて思えなかった。あ……これは、彼女には黙っててほしいな」
「もちろん言いませんけど……でも、だって……先輩の彼女さんは、すごく美人だったじゃないですか。私なんかとは、状況が違いますよ……」
「……何を言ってるの?さんは、十分に魅力的だよ。もっと自分に自信を持った方がいい。過剰な自信は単なる自惚れだけど、へりくだってばかりいたらせっかくの魅力だって減じるよ。君はもっと、自信を持ったっていい。そうすれば好きな人に気持ちを伝える勇気だって出てくるんじゃないかな」
「………」
魅力的。ジェームズもそう言った。なにが?どこが?確かにこの黒髪だけは日本人としての私の自慢だけれど、ホグワーツには西洋系の綺麗な女の子がたくさんいる。魔法史、闇の魔術に対する防衛術、変身術に古代ルーン語……得意な科目は、いくつかある。でもそのことと、女の子としての魅力とはまったく関係がないでしょう?
難しい顔をして口を閉ざしたを見て、クィレルはばつが悪そうに苦笑いした。
「いや、説教じみたことを言うつもりはなかったんだ。ごめんね、そんな顔をさせて」
「いいえ……こちらこそ、ごめんなさい。知り合ったばっかりだっていうのに、こんなこと、聞いて」
「ううん。さっきは君にウソが下手だって言ったけど、そうやって出会ったばかりの相手に心を開いて接することができるっていうのは、素晴らしい長所だと思うよ。なかなかできることじゃない。時と場合にもよるけど、そういうところはこれからも大事にしていけばいいと思う」
胸元で本を抱き締めて頑なに足元を見つめるの頭を、そっとクィレルの手のひらが滑る。それは、不思議な感覚だった。
「もう一つだけ、聞いてもらってもいいかな?」
「え?は……はい、もちろん」
「その人に告白してきたっていう、男の子のことなんだけど」
ラルフ。ラルフ・サイラス。グリフィンドールの、同期生。握られた左手は、未だにじわじわと熱を帯びているよう。
「君にも好きな人がいるんだったら分かると思うけど、思いを誰かに伝えるっていうのは、とても勇気の要ることだよ。その勇気を振り絞って気持ちを伝えてくれた相手のことも、しっかりと考えるべきだと思う。それに、よく考えてほしい。この世には、数え切れないほどの人間がいるんだよ。このホグワーツにだって、何百人という生徒がいる。その中で、他の誰でもない、君を選んでくれたんだっていうこと。誰かを好きになって、その誰かに好きになってもらう
それは何百万だとか何千万だとか、下手すれば何億分の一って言ってもいいくらい、奇跡的な出来事なんだよ。その可能性を、君は握っているわけだ。それをあっさりと潰してしまうのは、惜しいことだと思うな」
なんて。そう言ってクィレルは、照れくさそうに笑った。
「まあ、今のは友達の受け売りなんだけどね。僕も随分悩んだからさ、彼女と付き合う前には」
そうだったのか。ひょっとして、そのときのクィレルは、今の私と同じことで悩んでいたのかもしれない。
「だけど、まあ、君はまだまだ若いから。たくさん冒険したっていいと思うよ。それじゃあ、またね。健闘を祈るよ
おっと、その……『例えば』の、彼女に」
もはや『例えば』もなにもないが。律儀にそう付け加えて、クィレルはようやく立ち去っていった。いつの間にやら強張っていた身体が、緊張から解放されては傍らの本棚に倒れ込む。ああ……知らない上級生と、何でこんな話をしてしまったのだろう。
結局、長々と話をして、得られたものといえば。
(……あんなこと聞かされたら、断れなくなっちゃうじゃないのよ!)
『ルーン文字のルーツとループ』をまるで仇のように睨み付けながら、は胸の内だけで毒づいた。