ホグズミード終末を終えると、クリスマス休暇まではあっという間だった。グリフィンドール対スリザリンのクィディッチ開幕戦は二百点の差をつけてグリフィンドールが勝利し、今年はロジエールの屈辱的な顔を見ることができた。ジェームズの飛びっぷりも例年のごとく鮮やかだ。今年も優勝できるかもしれない。そう考えるだけで胸が躍り、顔を合わせないとき以外はシリウスの仏頂面も忘れることができた。
(あとはルーン語と防衛術のレポートを出して、それからお父さんにふくろう便を出して……)
今年のクリスマス休暇は、エバンス家に招待されることになっていた。冬は実家には帰らないと言うと、それならうちに来ればいいとリリーが誘ってくれたのだ。そのことを伝えるために、日本には早いうちに手紙を送らねばと思っていた。
ひとまずできあがった防衛術の課題を持って、足早に階段を下りる。と。
「
」
不意に後ろから呼び止められ、は一度ぴたりと動きを止めてから慎重に振り向いた。段の上でうまくバランスを取りながら、ぱちりと目を開く。
階上から下りてきた男子生徒は、心持ち強張った面持ちで言ってきた。
「あとでルーン語の教室まで来てくれないか?教えてほしい問題があるんだ」
「えぇ?それなら談話室でいいじゃない」
「いや、あそこはだめだ。今日は特にうるさくて勉強にならん」
「ふーん……たまにはまともなこと、言うんだ」
「悪かったな。とにかく、待ってるから。そんじゃ」
用件だけを済ませると、彼は教科書を掴んだままさっさと元来た道を引き返していった。肩を竦めて、呟く。
「ふーん……熱心なのか、なんなのか。イマイチよく分かんないんだよね、ラルフって」
Every medal has two sides
ひ だ り て
さほど大きな教室ではないのだが、さすがに二人きりの空間にしては広すぎる。どこか隙間風でも吹き抜けるような感覚に身震いしつつ、は机を挟んで正面に座ったラルフの教科書を覗き込んだ。ラルフがよく分からないと言った問題はも苦戦したところであり、先日バブリングに教えてもらった解釈を覚えている範囲で何度か繰り返して教えてやった。シリウスはルーン語に関しても抜群の記憶力を発揮していたが、彼に頼むのは癪なので絶対に聞かない。勝手に怒って一方的にシカトしてくるあんなやつ、もう知らないんだから!
ふーん、と他人事のように唸って、ラルフ。
「お前ってさー……真面目なところは真面目だよな、ほんと」
「ん?それは褒めてるのかね?ラルフくん」
「半分は」
「半分……まあ、いいや。これで終わり?だったらそろそろ帰ろうよ、もうすぐ夕食のじか
」
そのとき。
机の上に添えた左手を咄嗟に掴まれて、一瞬、心臓が止まるかと思った。氷のように冷たいラルフの手が、熱湯のようにの頭の中を溶かしていく。なに、これ。なにがいったい、どうなって……。
身動きひとつとれないこの状態でも、聴覚だけは何の支障もなく働いてくれる。
「お前さ、シリウスと付き合ってたってほんと?」
ようやく、意識が戻ってくる。シリウス。シリウス?
「……まさか。何で私が、あんな情緒不安定なやつと」
「だったらジェームズ?」
「ジェ……あのね、いい加減にしてよ。ジェームズと私は、何も
」
言いながら、相手の手を振り払おうとする。が、それをより一層力をこめて握り締められ、は頭の中が真っ白になった。どきどきと、どうしようもなく心拍数が上がっていく。なんで、どうして?
「ラ、ラルフ……ちょ、離してってば」
「」
ひっそりと呼ぶ、彼の声。恐る恐る見上げたラルフの灰色の瞳が、瞬きの音すら聞こえそうなほどに近く、目の前で開かれている。それだけで。ただそれだけのことで、は身体中に込み上げてくる熱を抑えることができなかった。なんで、そんな目で見るの?おかしい。ラルフも
わたし、も。なにかが、おかしい。
「好きなんだ。ずっと
お前のことが、好きだった」
どうしよう。
生まれて初めての経験に、はただただ戸惑うしかなかった。すき。すきだといわれた。小学生のとき、隣のクラスの男の子に冗談混じりで好きだと言われたことはあったが、当時はまだまだ男の子だとか女の子だとか、そうした意識があるほどに大きかったわけでもなく、その数日後、やはりそいつは他の複数の女の子にも同じことを触れ回っていることが判明した。そんなものを一回と数えるのなら別だが。
ジェームズやシリウスが幾度となく女の子から告白されていることは一年生のときから分かっていたし、親しく付き合うようになってから、同室のリリーもまた男の子に呼び出されて出かけることがしばしばあることに気付いた。だがそのどれも結局のところ自分にとっては他人事であり、告白というものが如何なるものか、実際にしたこともされたこともないにはまったく実感が湧いてこなかった。
それを、突然。何の前触れもなく。
いや、一度たりとも考えなかったといえばそれこそ白々しい虚栄だろう。親しいはずのシリウスも同じ授業を取っているというのになぜかルーン語の質問に来るのはいつものところだし、課題を教えるのに敢えて無人の教室を使う必要もない。ひょっとして……ふと、そうした考えが頭を過ぎることもあった。だが、それだけだ。まさかとそれをあっさり切り捨て、無難に友達として付き合ってきた。けれどもその均衡は、こちらの惰性を裏切って脆くも崩れ去った。
奇妙な高揚感はあった。いやではない、正直。好きだといわれて嬉しくない人間がいるか?
(でも……)
夕食もまともに喉を通らなかった。こんな気持ちは、初めてかもしれない。イヤじゃないし、嬉しかったし、嫌いじゃないし。あのときに握られた手のひらの感触が、今でもこの手に残っているようで。でも、でも、でも。
「、何かあったの?あんまり食べてなかったみたいだけど」
一足先に布団に入ったは、カーテン越しにリリーに声をかけられて迷った。どうしよう。相談しようか。ねえ、嫌いじゃない男の子から告白されたんだけど、どうしよう。いや、待て待て待て……リリーは私の気持ちを知ってるんだから、答えなんて自ずと決まってくるはず……。
頭の上まで布団をかぶってきつく目を閉じ、は眠っている振りをした。
「答えは、いつでもいいんだ」
彼は確か、そう言ったと思う。相変わらず左手を掴まれ、頭が朦朧としている状態だったので絶対とは言い切れないが。いや、確かに。彼はそう、言ったのだと思う。
「そんなにすぐに出してほしいとは思ってない。俺は、真剣なんだ。だから
少しは……考えてみて、ほしい」
彼があんな顔をするのを、初めて見た。いつもどこか茶化すように、斜に構えるように振る舞ってみせる。そのラルフが、こちらの左手を握った両手を見下ろしながら、躊躇いがちに。その様子に、どこか昂ぶるものを覚えたのも確かだった。
「な……なんで?」
思わず口からこぼれ出たのは、そんな言葉だった。怪訝そうに眉をひそめ、ラルフが顔を上げる。は戸惑いながら、聞いた。
「なんで……何で、私なの?なんで?」
「何でって……」
考え込むように眉間にしわを寄せ
それを振り払うように頭を振ったラルフは、
「何でって、理由なんか言えるかよ。好きだから好きって思ったんだ。理由なんか後からついてくるもんだろ。理屈が欲しいのかよ」
「………」
理由。好きになった、理由。
そう……そうだよね。きっと。私がリーマスのことを好きになったのだって、明白な理由なんてないんだ。もっとも、そのことを思い出したのは後になってからだが。
「俺は理屈なんか要らない。だから、気持ちが決まったら……それだけ、言ってくれたらいい。それはいつになっても、いいからさ」
そして彼は、癒えた雛鳥を離すときのようにそっと、の手を解放した。こんなにも優しい手を、はそれまで知らなかった。もしくはそれが見えたのは、生まれて初めてのことだった。