「シリウス
ねえ、シリウスってば!」
ハロウィンのホグズミード行きを控えた上級生は、多くが浮き足立っていた。もその中の一人だが、ここのところずっとシリウスに避けられているのが気掛かりで、とりわけ古代ルーン語の時間は気が気でなかった。
「シリウス!聞こえないの?」
なぜかルーン語の時間はいつも前後の席に座ってくるラルフを置き去りにして、さっさと教室を後にしたシリウスを追いかける。ああ、これじゃあ私がほんとにシリウスにフラれて、それでもしつこくつきまとってる哀れな女みたいじゃないか!
「ねえ、なんか怒ってる?」
なんとか追いついて、だが決して足を止めない彼の傍らについて遅れないように歩き続ける。シリウスはこちらを見ようともせず、「別に」と投げやりに言った。
「怒ってるじゃない。ねえ、ひょっとしてこの間のこと?」
「この間のことって何だよ」
「だから……その、マグルのこと、もっと……その……」
「別に気にしてない」
気にしてないなら何でそんなに不機嫌なんですかー!
「ねえ、それじゃあ別のこと?ねえ、私、なにかシリウスの気に障るようなこと、した?」
「……だから
」
ため息とともに吐き出して、ようやくシリウスは足を止めた。速足の勢いをそのままに思わずつんのめりそうになり、はすんでのところでシリウスの腕にしがみつく。彼もまたその勢いに負けて僅かによろめいたが、すぐに彼女の両腕を抱えて転倒する前に引き上げた。
普段は滅多に触れることのない男の子の感触に、不覚にも鼓動を跳ね上がらせながらシリウスの袖を離す。
「ごめん……ありがとう」
「真っ直ぐ立つこともできねーのか、お前は」
口を開けば、憎まれ口ばかり。だがこのときばかりは何も言い返すことができず、は唇を尖らせながら脇を向いた。
「それより……さっき何か、言いかけてたよね」
「あ?あー、だからなー」
シリウスは教科書を退屈そうに抱え直し、空いた右手で軽くこめかみを掻いた。
「だからそれは、お前の考え過ぎだっての」
「……考え過ぎ?」
「そう。怒ってるとか、勝手に決めつけんな。俺は気にしてないって、何度も言わせんじゃねーよ、ばーか」
「………」
切り捨てるようにそう言い放ち、シリウスは無慈悲にもそのまま立ち去っていった。
ひとり残された廊下の片隅で、込み上げてくる涙を鼻の奥に押し留める。なによ。何がいけなかったの?勝手に決め付けるなって、だって誰がどう見たって怒ってるじゃない。
それとも今度こそ、本当に嫌われてしまったのだろうか。
「……なによ。シリウスの、ばか。ばか、ばかばか」
CHATTY BUTTERBEER
おしゃべりな無愛想男
結局シリウスとの距離は縮まらないまま、たち三年生は初めてのホグズミード週末を迎えた。はリリーと二人で出かけることにしており、コートに手袋、マフラーと準備は万端だ。ジェームズは厳しいクィディッチ練習の息抜きと称して、ホグズミードの悪戯専門店で目ぼしいものを買い込んでくると息巻いていた。
「楽しみね。私、『ハニーデュークス』には絶対に行きたいわ」
にこりと微笑んだリリーに向けて頷きながらも、の頭の中にあるのは『ゾンコ』の悪戯専門店のことだった。
(悪戯専門店に行きたいって言ったら、リリー、どんな顔するだろう……)
だが考えるだけで結果は想像できたので、は決してそれを口にはしなかった。
初めて訪れるホグズミードは、まるでおとぎ話のワンシーンを切り取ったかのような、不思議な雰囲気を醸し出す小さな村だった。通りは沸き立つホグワーツの上級生で溢れかえっている。菓子屋ハニーデュークス、ダイアゴン横丁にあるマダム・マルキン洋装店の支店、魔法用具店ダービッシュ&バングズ、悪戯専門店ゾンコ、マダム・パディフットの喫茶店、ホグズミード郵便局……。
「見て、あれが『叫びの屋敷』」
ハニーデュークスで買ったお菓子の袋を持って二人がやって来たのは、村の中心から少し外れたところにある、開けた丘の上だった。リリーが指差しているのは、そこからさらに離れた丘に建っている、見るからに恐ろしそうな古びた洋館。
「なにそれ。叫びの屋敷?」
「そう。ひとけがないのに、月に一度、満月の夜だけ不気味な叫び声が聞こえてくるんですって。ちょっとした観光スポットになってるらしいわ」
満月の夜に。はそこでようやく、リーマスが暴れ柳の下の隠し通路を通って、ホグズミード村の古い屋敷に通っていると話してくれたことを思い出した。そうか……あそこだったんだ。彼のことを思うだけで、こんなにも胸が締め付けられる。満月まで、あと一週間ほど。
「あれ、君たちも来てたんだ?」
そう言って物陰から姿を見せたのジェームズだった。少し遅れて同じように現れたのは、いつもの三人。シリウスにピーター、そしてリーマス。
リリーは彼らを見るなり不機嫌そうに顔をしかめ、さり気なく屋敷の方へと視線を戻した。代わりにが口を開く。
「うん、どこのお店もホグワーツ生でいっぱいだし。ちょっと散歩しようってことになって。ジェームズたちは?」
「僕らも似たようなものかな。あと、『ちょっとした観光スポット』でも見ておこうかと思って。ほら、ガオー」
言いながらジェームズが茶化すように両手で鉤爪のような形を作ってみせたので、はぎょっとしてリーマスの方を見やったが、当の本人は苦笑して肩を竦めるだけだった。その様子を見てから、ジェームズは満足げに両手をポケットに戻す。
「それより、このあと特に予定がないんだったら、一緒に『三本の箒』にでも行かない?あそこのバタービールは格別なんだって」
「せっかくだけど、予定があるの。、行きましょう」
リリーはぴしゃりとそう言って、の腕を引いて村へと向けて歩き出した。しばらく歩き続け、振り向いてもジェームズたちの姿が完全に見えなくなってから。
「予定……何かあったっけ?」
「ないわよ、別に」
「あっ、そう……」
「それともあの人たちと一緒の方がいいなら、無理にとは言わないけど」
「そんなこと言ってないでしょう、リリー」
嘆息混じりに言いやると、頑なに厳しい顔をしていたリリーは、自分の頬を手袋の上から押さえつつ、申し訳なさそうに言った。
「……ごめんなさい。こんなこと、言うつもりじゃ」
「え?あ、ううん……そんなに気にしなくていいよ。ねえ、それより温かいものでも飲まない?どこか入ろうよ」
はリリーのコートの袖を引っ張り、近くの看板を見上げた
パブ、『三本の箒』。
『三本の箒』は、まるで呼吸困難にでも陥りそうなほどたくさんの客で溢れ返っていた。そのほとんどがホグワーツ生なのだろうが、どこに誰がいるかなどは到底分からない。ひとまずカウンターで学生に一番人気の『バタービール』を買い、適当に空きスペースを探して人混みを潜ってみたのだが、そんなものはあるはずがない。仕方なく、やっとのことで元来た道を引き返し、とリリーはパブの外に出た。
「……すごい人だったね」
「ええ、みんなあったかいところが恋しいのね」
どこか座れそうなところを見つけて、そこでゆっくりバタービールで身体を温めよう。そう示し合わせて『三本の箒』を離れようとしたそのとき、パブの中からバタービールの瓶を持った長身の魔法使いがふらりと漂うようにして出てきた。そのすぐ後ろから、フリットウィックが同様にひょこひょこと姿を見せて口を開く。
「おー、ミス・エバンスに、ミス・。外はずいぶん冷えますね」
「こんにちは、先生」
とリリーは軽く頭を下げて挨拶した。フリットウィックと、そしてその場で開けたバタービールを飲み始めたリンドバーグと。
「早くしないと不味くなるぞ」
「へ?」
突然リンドバーグが声をかけてきたので、わけが分からず聞き返す。彼はバタービールの瓶を口にくわえたまま、それをお愛想程度に軽く振ってみせた。あ、と声をあげ、傍らのリリーと顔を見合わせて急いで自分のバタービールを飲む。初めてのその味は、口の中で爽やかに弾けて身体の芯からほかほかと温まるようだった。
「おいしーい!」
「そうだろう、そうだろう。ここのバタービールは世界一だよ」
「リンドバーグ先生はそれしか飲めないんですよ。昔から好き嫌いの激しい子でね」
くすくすと笑いながら、フリットウィック。リンドバーグはそれには気付かない振りをして、ただひたすらにバタービールを飲み続けた。
きょとんとして、リリーが問いかける。
「フリットウィック先生、リンドバーグ先生のこと昔からご存知だったんですか?」
「ええ、そうですよ。この子もホグワーツの卒業ですからね。もう十年以上前になりますが、私の寮の生徒でした」
「先生、レイブンクローのご出身なんですか?」
「そうだよ。英知は我らが力なりー」
飄々と歌いだしたリンドバーグの姿にとリリーは度肝を抜かれた。リンドバーグは人気のある先生だったが、それはあくまで授業の進め方が丁寧で、どの寮にも隔てなく頻繁に加点してくれるからだ。その一方で、必要のないときにはにこりともしないし、授業が終われば煙のようにあっという間に消えてしまう。それがこんなに茶目っ気のある先生だったなんて。
だがリンドバーグはそうしたたちの反応をまったく気にかける様子もなく、いつの間にやら空っぽになった瓶を不服そうに眺めて言った。
「ミス・、要らないならそのバタービール、私に譲ってくれないか」
「えっ!?い、い、要りますよ、自分で飲みます!そんなに欲しいならまた買ってきたらいいじゃないですか!」
「それなら、ミス・エバンス、私の分をもう一本買ってきてくれないか」
「ちょっ、自分で行ったらいいじゃないですか!?すぐそこでしょう!?」
「この子は昔から本当にわがままなんですよ。人混みが大嫌いでね」
「分かりました、買ってきます。一本でいいですか?」
「えー!リリー!甘やかしちゃだめ!」
あああ……なにがなんだか分からなくなってきた。困ったように笑いながら『三本の箒』に戻っていくリリーを見てが頭を抱えると、何を思ったかリンドバーグは突然声をあげて笑い出した。ぎょっとして、瞬きながら眉根を寄せる。
「な、何で笑うんですか!なにかおかしいですか!私、間違ったこと言ってませんよ!」
「ハハ……ハ、いや、すまなかった。久し振りに、思い出すことがあってね。何もおかしくなんかないよ」
囁くようにそう言って、リンドバーグは空の瓶を両手で掴み直した。そっと瞼を伏せ、唇に穏やかな笑みを浮かべる。思い当たることがあるのか、フリットウィックはそんなかつての教え子の姿を見ても、ただただ押し黙っているだけだった。
新たにバタービールを買って戻ってきたリリーにありがとうを告げた彼の瞼に、きらりと光るものが見えたのは気のせいだったろうか。