傍に行くのはなんだか気が引けて、はシリウスから少し離れた席に座った。古代ルーン語のクラスはやはり少人数で、自分たちを含めても十五人ほどしかいない。ラルフと話をしながらだったのでが教室に入ってきたことには気付いたはずだが、ひとりでポツンと窓際に座っているシリウスは振り向きもしない。
(いいよ、そっちがその気なら)
声には出さずに独りごち、カバンの中から教科書とノートを取り出す。の到着に気付いた他の寮の同級生たちが振り向いて挨拶してきたので、はシリウスに当てつけるような心地で彼女たちへと朗らかに「おはよう」を返した。
「えー、お前もう予習なんてやってきたの?」
勝手に人のノートを開けて見ながら、隣のラルフが短く口笛を吹く。はあっという間にそれを彼の手からもぎ取って顔をしかめた。
「勝手に人のもの覗かないでよね!私がどれだけ努力したか……」
「なんだよ。いいだろ、ちょっと見るくらい。出し惜しみするやつは何でも渋るようになるんだぜ?」
「なによ、意味分かんない……」
「
はい、私語は慎みなさい。チャイムが聞こえなかった?」
そう言って教室に入ってきた古代ルーン語担当のバブリングは、教壇に向かう途中でとラルフの頭に教科書の平たい部分を軽く打ちつけていった。
3RD YEAR begins
きっかけはすでにはじまっている
新学期が始まって、一ヶ月。談話室でプライアの姿を見かけることは一度もなかった。意図的に留まるのを避けているのだろう。そのことはにとっても、とてもありがたかった。
「何かあったらすぐ僕に言うんだよ。には指一本触れさせないから」
そんなジェームズの台詞には思わず噴き出したが、彼はいたって冷静だった。それがあまりに照れくさく、涙が出るほど嬉しかった。ありがとう。ジェームズ、本当にありがとう。その気持ちだけで、私は強くいられるよ。
去年の入院騒ぎ以来、目に見えてに敵意や悪意を見せる女子生徒はほとんどいなかった。その行き過ぎた結果であるプライアに下った判決のことを思えば、当然のことだろう。触らぬ神に祟りなし、だ。そのことは、かえって良かった。厄介事に巻き込まれずにすむ。
(この世のすべてに意味がある、か)
ルーン語の課題を提出しに、バブリングのオフィスへと向かう。最後の階段を下りてしばらく歩いていると、は聞き覚えのある声を聞いたような気がしてふと足を止めた。
(……ニース?)
足音を潜めて、声のする方へと移動する。その先の角をこっそり覗き込むと、そこには同じ寮の女子生徒が二人、向き合って何やら話をしていた。その組み合わせを見て、身体中に緊張が走る。はわざとらしい咳をして、さほど間を置かずに隠れていた陰から姿を見せた。
「ニース!こんなところにいたんだ、探したんだよ」
ニースは弾けたようにこちらを向いたが、もう一人はさして驚いた様子もなく顔を上げた。はそちらの存在には初めて気付いたかのように、目をぱちくりさせてやや上擦った声をあげる。
「あ、ミス・プライアも一緒だったんだ。邪魔だった?」
「……ううん、そういうわけじゃ」
ニースは怯えていた。とも視線を合わせようとせず、震える腕を控えめに抱えて俯く。は彼女を庇うような形で前に出た。
と。
「ミス・。あなたのところにも、行かなければならないと思っていたの」
先に口を開いたのはプライアだった。目を見開き、は何も言えずに相手の言葉を待つ。
プライアは茶色い髪を右手で軽く後ろに流してから、静かにあとを続けた。
「もう一度、謝らなければと。あの後、この半年
よく、考えたわ。自分の犯した罪のこと。あなたに、どれほどのことをしてしまったのか。ミス・ジェファにも……私は彼女の気持ちを、利用した」
「………」
驚いた。プライアの青い瞳は、昨年末病院を訪れたときのものとは比べ物にならないほど、真剣な色彩を帯びていた。彼女が詫びることなど
心から詫びることなど、一生ないと思っていたのに。
口から出てきたのは、兼ねてから用意していた言葉ではなかった。
「いえ……いいんです、もう。私はこうしてまたホグワーツに戻ってこられたし、あなたも
半年間……償って、きたんだから」
複雑な気持ちだった。許すことはできない。けれど、責めることもできない。もう、いいんだ。もう。
沈痛な面持ちで瞼を伏せたプライアに、は恐る恐る声をかけた。
「あの……聞きました。お父さんが……亡くなったって」
そのとき。は確かに、プライアの眉間に一瞬力がこめられて、すぐさま霧散するのを見た。
「……その……うまく言えないけど。あの……あんまり、気を落とさないで、くださいね。人って……死んでもきっと、どこか遠くに行っちゃうんじゃなくて、大切に思う人の傍にいるんだって。あ、これは、友達の受け売りなんですけど。だから」
プライアが表情に変化を見せたのは、あの一瞬だけだった。ゆっくりと目を開き、凪のような眼差しで、囁く。
「
ありがとう」
プライアと別れ、近くの空き教室に入って青ざめたニースの背を撫でる。
「なにか言われたの?大丈夫?」
「ううん……そういうわけじゃ、ないんだけど。でも……なんだろう。やっぱり……裁判で証言したのは、私でしょう?だから……」
「それはもう、平気だって。ほら、さっきのプライアの話、聞いたでしょう?恨んでないって。この半年で、彼女だって反省したんだって。だからもう、大丈夫だよ」
励ますように彼女の肩を叩いたが、ニースはまだその瞳に不安げな影を落としていた。
彼女の正面に回り、俯いた視線を上げさせて、告げる。
「そんな顔しないでよ、ニース」
「……」
はニースの心配を吹き消すように、満面で笑ってみせた。
「もし何かあったら、すぐに私に言ってよ。ニースには指一本触れさせないんだから。ね」
ニースは今にも泣き出しそうな顔で、微笑んだ。
あれ以来、プライアはにもニースにもまったく接触してこなかった。どうやら本当に、心底反省したらしい。ジェームズやシリウスは彼女の姿を見かける度にピリピリしていたが、それもここのところ落ち着いたようだった。
「なあ、。ここの訳、教えてくれないか?」
談話室でリリーと寛いでいると、ルーン語の教科書を広げたラルフが近づいてきた。身体を反らしてそちらから軽く逃げながら、は顔をしかめる。
「えー、また?たまには自分でやりなよ」
「やってるだろ?やってる上で分からないって言ってんの」
「私なんかよりシリウスの方が分かってると思うけど」
「なんだよ、お前そんなに俺のこと嫌いなの?」
「そんなこと言ってないじゃん」
ため息混じりに言いやって、はソファの上からラルフの方へと身を乗り出した。開いたページを覗き込んで、彼の指し示す箇所を見る。ルーン語は文字から覚えていかなければならないので面倒といえば面倒だが、暗号を一つずつ解読していくような心地で臨めばにとってはなかなか面白い科目だった。
「だから……ここは、財産が、喜びであって……」
「なあ、」
「ん?」
聞いてるのか、こいつは。人がせっかく丁寧に教えてあげているのに。
解説を途中で遮られ、は眉をひそめて顔を上げた。ソファのすぐ後ろで床に膝を立てたラルフの顔が、思った以上に近くにある。そのことにどきりとして、は思わず後方に仰け反った。
ラルフはしばらく無言のままじっとこちらを凝視していたが、やがて教科書に視線を戻して、かぶりを振った。
「いや、何でもない。それより、さっきのところもう一回頼むよ」
「はあ?ちょっと……ちゃんと聞いててよね」
そのやり取りを遠目に見ていたリリーは、ほんの僅かに眉根を寄せて、テーブルのマグカップに手を伸ばした。